二 夏越しの宴②
陽射しが白くなってきた。
夏越しの宴の季節である。
一年の真中にあたる、六の月の晦日。
来る炎暑を恙なく乗り越え、無事に実りの秋を迎えられるようとの願いから、厄払いの神事を兼ねた宴が催される。
王国の黎明期より、新年の宴と共に行われてきた神事であり宴であるが、神事の色合いが濃い新年の宴と違い、夏越しの宴は貴人たちの娯楽であり……自分たち一族の、広い意味での力(財力、才気、機智、そして芸術的な力量)を見せつける場でもある。
年に一度の、華やかな戦場。
夏越しの宴にはそういう意味合いもある。
縹の御子は今、緑に茶を重ねた蝉の羽襲の直衣をまとい、王族の方の中でも大王に血の近い方々の為の控えの間で待機していた。
蝉の羽襲は、まだ若い御子には少々渋い取り合わせであったが、演目である『空蝉』にちなんでこの襲を選んだ。
「縹にいさまには、卯の花や葵の襲の方がお似合いだろうと思ったのですけど」
紅姫は言う。
紅梅に赤の撫子襲も愛らしい小袿は、色白の肌に紅の瞳の姫によく似合っていた。
公的な場とはいえ、裳着の前で御簾と几帳の内から出る予定のない彼女は、仕立てたばかりではあるものの、普段着に近い装いであった。
「このように渋い色合いの襲もお似合いになられるのですね。なんとなく……いつもより臈たけたご様子、にいさまが急に大人になられたような心地がいたします」
何故か心細そうに瞳をゆらす紅姫へ、御子は優しく笑む。
『華やぎに儚さがまじる、さながら桜吹雪のごとき笑み』だ。紅姫はかすかに息を呑む。
「お褒めいただいてありがとうございます。今日は横笛の調べこそが主で演者たる我は従、そのつもりもあってこの装いにいたしました。我もこの装いはやや背伸びかと思っておりましたが、似合っているのなら安堵いたしました」
「おや、御子はもうすっかり準備が整っていらしたのですね」
太政大臣がこちらへ来た。
紫に萌黄を重ねた、涼し気な松襲の狩衣姿であった。
「そういえば。節会の舞姫はもう舞台の方へ行っているのですか、紅姫。少し前に練習を垣間見しましたが、あれはいい舞い手ですねえ」
紅姫が軽く唇を尖らせる。
「だから最初から、あの子を舞い手にするべきだったのです。もっともこれで本来通りなのですから、我もこれ以上の文句は言いませんが」
節会の舞姫に選ばれていた『綾』の総領娘たる姫が、十日ばかり前、練習中に転倒して足をくじいた。
少し複雑なくじき方をしたらしく、当日まで治癒するかわからないとお抱えの医師が診断したそうだ。
そこで急遽、今回の候補者の中で一番上手な舞い手であった紅姫の女童・なずなが代わりに舞うことになったとか。
「あの子はそんなにいい舞い手なのですか?刺繍上手の、大人しやかな子だという印象なのですが」
御子が問うと、紅姫は我が事のように胸をそらせた。
「いい舞い手ですとも。特に奉納舞を、あの子以上に舞える子なんて王国のどこにもいませんよ。見る者に神の息吹を感じさせる、正に神がかった舞です。縹にいさまも楽しみになさって下さいませ」
ははは、と楽し気な笑声が響く。太政大臣だ。
「紅姫、すごい入れ込みようですね。主にそこまで言われたら、なずなもさぞ舞いにくいのではありませんか?まあ……幸い今、あの子はここにいないのでいいかもしれませんが」
うふ、と、不敵な含み笑いを姫は浮かべた。
「とにかく。伯父君様もにいさまも、しっかりと目を見開いてあの子の舞をご覧になって下さいませ。我の言葉が身びいきかどうか、はっきりわかりますから」
御子はふと、なずなの姿を思い出す。
立ち居振る舞いや所作、姿勢の美しい子だという印象があるのは確かだ。いい舞い手だというのも、あながち紅姫の身びいきだとも言えない。
すっと背筋を伸ばして舞うあの子の姿を想像し、御子は何故かうろたえた。
まるでいけないことを想像したような後ろめたさをごまかすように、御子は大きく息をついた。
「やはり、緊張していらっしゃるのですか?」
案ずるような目で紅の瞳が、御子の顔を覗き込む。
御子は意味もなく咳払いをし、やや苦い笑みを浮かべた。
「そうですね。万全の備えをしたつもりではありますけど、『空蝉』は長い曲ですから。集中が切れそうな不安は、やはりありますよ」
「心配はいりません、にいさまなら大丈夫です」
まぶしいほど真っ直ぐ紅姫は、御子を見つめてそう言い、花がほころぶように可憐に笑んだ。




