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藍路に

作者: 碓氷なつれ

 あれは間違いだった。あれは間違いだった。僕は一人、屋上に続く階段を駆け上がった。長年の帰宅部生活で半ば朽ち果てかけた両足は今にも千切れそうで、足の裏はもう感覚もなく、本当に繋がっているのか、実際に千切れてるんじゃないか、なんてくだらない思考に至るくらいには脳に酸素が回っていなかった。あれは間違いだった。どうして気がつけなかったんだろう。間に合え、間に合え、間に合え、と呪詛のように呟く。それは暗示か、祈りか。どちらでもかまわない、頼む、間に合ってくれ――。


◇◇◇


 体育の時間が嫌いだった。運動ができないからじゃない。学校の授業の中で、唯一個人で完結させることができないからだ。

「高月、話聞いてる? やる気無くてもいいけどさ、あんまつまんなさそうにされるとこっちも嫌な気分になるんだわ」

 またそうだった。今日はテニスをやることになったので二人一組でラリーの練習をしていたのだが、どれだけ真剣にやっても、ペアになった彼には僕がひどく退屈そうに見えるらしい。いつもこうだ。誰と話しても、遊んでも、僕の意思とは関係なしに、僕はひどく退屈で陰鬱にうつるようで。

「楽しそうにやれとまではいわないけどさ。俺が何言っても生返事で、なんか嫌な感じだよ、お前」

 どうしていつもこうなんだろう。僕自身はきちんと受け答えしていたつもりだったのに、どうしてか上手くいかなかったらしい。だからいつもはなるべく誰とも話さず済むように、教室の端で、一人大人しく日々を送っているのに。体育は嫌いだ、どうしてよりにもよっていつもクラスの中心にいる、人気者の高野くんと組まされたんだろう。出席番号順なんて糞食らえだ。

「あー、なんかもういいよ。ごめんな、高月」

 面倒くせぇ、と高野くんがため息をついた。僕はこの瞬間が一番嫌いだった。僕にだって悪気があるわけじゃあないのに。相手が僕に呆れ、見放し、諦めるこの瞬間が、自分がまるで最悪な人間みたいで、本当に嫌いだった。

 こんなことがあったせいで、昼休みもなんとなく教室に居づらかった。いつもだって僕の机の周りだけの、面積にすれば一平方メートルもない僕の居場所だけど、高野くんの声が聞こえるたびに、もしかして僕の悪口を言ってるんじゃないか、なんて気になって、その居場所すら居心地は最悪だった。そんなわけないさ、彼からしたら僕なんて話題にする価値もない矮小な奴さ、なんて思ってもやはり一度持ってしまった疑念は消えないし、もちろん彼のグループも消えてはくれないので、僕は僕の居場所を教室から消して、どこか別な場所に探すことにした。

 とはいっても、食堂や中庭なんて人の山ほどいる場所に行くわけにもいかず。途方に暮れた僕は、非常時以外は立ち入り禁止と言われている屋上に、ばれなければいいだろうとなんとも最低な考えのもと向かった。

 暗く重く冷たく見えた扉は、平均よりかは非力な僕の力でもするりと開いた。普段使われていない扉だから、もっと軋むような音を上げながら重苦しく開くことを想像していた僕は、少し拍子抜けしながらも、腑抜けた顔で屋上へと滑り出た。高い空が視界いっぱいに広がっている。錆び付いたフェンスの先には、ジオラマみたいな生気の無い町並みが広がっていた。広々とした屋上には当たり前だけれど人の姿は見えず、不良がたまり場にしてるのではないか、と少しだけ心配していた僕はほっと胸をなで下ろした。

「よかった。誰もいないみたいで」

「なにしてるの、君」

 声が、聞こえた。凜とした、鈴を震わすような声が。

「ここ、立ち入り禁止だよね。なにしてるの、君」

 繰り返される声。今し方、誰もいないと確認したはずなのに。その声は、自分の頭上後方から聞こえていた。振り返ると、僕が出てきた塔屋の上、見るからに古びた貯水槽に凭れるようにして少女が座っていた。

「え、いや、なにも。君こそ、立ち入り禁止なんじゃないの、ここ」

 自分のことを棚に上げて高圧的な台詞を投げかけてくる少女が面白くなくて、僕はつい言い返してしまう。制服を見るに、彼女もここの生徒のはずだ。

「立ち入り禁止だよ。だから誰も来ないって話だったのに、なんなの君。早く出て行ってくれない」

 空の終わりを探すように遠くを見ていた少女が、気怠そうに僕を見下ろした。刃のような瞳だ。美しい少女だった。美しく、冷たく、鋭い少女。彼女は顎で扉の方を示すと、また僕から目線を逸らし、遠くの空を見つめ始めた。

「おかしくない? それ」

 やたら偉そうに出ていけなんてぬかすことにも、悪意があったわけじゃないのにどこか馬鹿にするような物言いをされたことにも無性に腹が立った。腹が立ったから、またつい言い返してしまった。

「立ち入り禁止なら、君だって入っちゃ駄目なはずだよ。出て行くなら君もじゃないの」

 はぁ、とため息を溢し、また気怠そうな顔でこちらを見る少女。

「君、面倒くさいってよく言われるでしょ。私はいいんだよ、先生に許可もらってるから。大方、屋上で隠れて煙草でも吸いに来たんだろうけど、お生憎様。ここ、煙なんて立てたら下からすぐ見つかるよ。裏庭とかの方がいいんじゃないかな」

 鼻で笑い、ぞっとするような目で僕を見る。どうやら僕を秩序も何もない不良の輩と勘違いしているようだ。高めの身長と目つきの悪さのせいでよく勘違いされるが、僕は未成年喫煙どころか信号無視すらしたことがない優良児なので、不良呼ばわりはたまったものじゃない。

「待ってくれ、僕は不良じゃないし、ここに特別何かしに来た訳じゃないんだ。そんなに邪魔だって言うんなら出て行くよ」

「……隠れて悪さをしに来た訳じゃないのに、声をかけただけであんなに動揺してたの? 変わってるね、君。用もなく立ち入り禁止の場所に来るんだ。別に、君がなんでもかまわないけどさ。煙草吸わないなら、そこに居たって構わないよ。私、あれ苦手なんだ」

 そう言って、また空を見上げる彼女。どうやら誰かが来ること自体を嫌っていたわけではないようだ。黒檀のような髪をかき上げ、まるで僕なんていないかのようにぼうっと空を眺める彼女は、どこか破滅的な美しさを感じさせた。しかしながら、自分が世界の中心であるかのような不遜な態度には閉口せざるを得ない。自分の中で、山ほど人がいるだろう中庭と変わった少女が占拠している屋上、どちらがましだろうかと天秤にかけて頭を抱えていると、少女が言った。

「お昼食べるなら上って来たら。ここ、座れるところこっちしかないよ」

 確かにひび割れたり酷く汚れたりしているタイルの上に座って食事をする気にはとてもじゃないがなれなかった。中庭でクラスメイトたちがバレーボールをする話をしていたことを思いだし、ちょうど心の天秤が屋上に傾き始めていたところだったので、入り口のすぐ脇の梯子を上って塔屋の上、彼女から少し離れたところに腰掛けた。

「本当に来るんだ。変わってるね、君」

「いや、他に行くところも無いし……」

「なにそれ。いじめでも受けてるの?」

 くすくす、と笑う彼女。先ほど感じた冷たい鋭さはまるで嘘のように薄れていた。

「そういうわけじゃないけど、なんていうか、その、うん」

 適当に返事して誤魔化しておけばよかった、と後悔した。教室で上手くいかなくて逃げ出してきた、なんて情けない話、聞かされる側だって困るに決まっているのだから。

「まあ、話したくないならいいよ。そこまで気になってるわけでもないし。ただ、ここに来る人ってみんな隠れて煙草吸いに来る人だったから、君みたいな人が珍しくて。立ち入り禁止の場所にわざわざお昼食べに来るなんて変わってるなあと思ったから、聞いてみただけ」

 初めに声をかけてきた時とは明らかにトーンが変わっていた。どうやら、煙草を吸いに来る輩を追い払うためにきつい言い方をしていたようだ。警戒が少しは解けたのだろうか、彼女は先ほどよりかなり柔らかい印象になり、その姿はどこか猫のようだった。

「君、名前は? 私は紺野。紺野愛莉。色の紺に野原の野で紺野」

 弁当の蓋を開けておかずの一つ一つに喜んだりがっかりしたりしているところに、突然自己紹介を始められ面食らってしまった。最初の印象と違って、実際はかなり友好的な子なのかもしれない。

「あ、えっと、高月、高月誠、です。高低差の高に月曜の月、誠実の誠で高月誠」

「なるほど、高月くん。ところで質問なんだけど」

 紺野は急に立ち上がって塔屋の端に立つと、くるりとこちらへ向き直り、鈴の音のような声で言った。

「空って何色だと思う?」

「空?」

「そう、空」

 にこり、と笑う彼女。空の色。天気や時間によって違うものだとは思うけれど、彼女が聞きたいのはそういうことなのだろうか。質問の真意が掴めない僕は、はぐらかすように言った。

「急にどうしたの。空、好きなの?」

 全然印象の掴めない子だ。すごく冷たい人なのかと思ったら、急に友好的になったり、そうかと思えば、名前しか知らない相手に急に訳のわからない質問をぶつけてきたり。こんなところに一人でいるくらいだから、もしかして少し変なのだろうか。やっぱり中庭の方が良かったかなあ、そもそも教室から逃げ出してくることもなかったかもしれない。

「まあ、そうだね。人よりはずっと長く見てるだろうし、好きだよ。……変なこと聞いてごめんね。他の人から見て、この空がどんな色なのかを知りたくて」

 またくるりと振り返って、遠い空を見つめながら彼女は言った。そういえば、さっき僕が入ってきた時もこうして彼女は空を見ていたことを思い出す。

「私、いつもここから見える町並みを描いてるんだ。大した景色でもないけど、ほら、ここ、空はすごく綺麗だから」

 彼女は両手を翼のように大きく広げ、空へ飛び出さんばかりに胸を張った。片田舎にある僕らの町は、確かに空気が澄んでいて、特にこの高校は流星群の時期には近所の人が集まってくるくらいに空が開けている。現に今眼前に広がる(あま)(いろ)は、確かに美しい、と感じさせた。

「でも、空の色ってすごく複雑で、時間とか、空気の感じとか、季節なんかでも違って見えるから。……それに、見る人によっても。同じ空を見てるのに、必ず同じ色を言うとは限らないじゃない? 私、空の本当の色が知りたいんだ」

 伏し目がちに言う彼女。逆光に阻まれてその表情は見えないが、語気から察するに少し恥ずかしがっているようだ。天色の中で、彼女の夜の底のような黒髪がたなびいて見えた。(こい)(あい)の制服の裾が空に溶け込むようにぼやけて映るのは、屋上の照り返しの強さ故だろうか。藍の少女は鈴を鳴らすような凛とした声で繰り返す。

「ねえ、高月くん。君に見える空は、何色?」

 これが、僕と紺野の出会いだった。


◇◇◇


 体育の時間が嫌いだった。体育教師の小林は、今日も自分が世界の中心みたいな顔して怒鳴り散らかす。

「高月、頑張れよ。できないわけじゃないんだから、もっとしっかりやろうぜ。ほら、もう一回」

 月曜の僕と高野君の様子を見ていたのだろうか、それとも学校を休んでいる生徒が何人かいるからだろうか。近くの人とペアを組みなさい、と言われて見事にあぶれた僕は、案の定先生と組まされてラリーをさせられていた。熱血教師を絵に描いたような小林先生は、どうにもやる気が無く見える僕をどうにかやる気にさせたいようで、一球ごとに何かを叫んでいる。僕としてはいたって真剣に、真摯に取り組んでいるつもりでいるので、先生の空回りする熱意が鬱陶しくて仕方がない。なんだか泣きそうだった。そんなに退屈そうに見えるのだろうか、僕は。ラケットのフレームを直撃したボールが歪な回転をしながら高く高く上っていく。今日の空は少し曇り気味で、かなり薄い水色に見えた。——紺野は今日も屋上にいるのだろうか。この前は結局すぐに予鈴がなってしまい、質問には答えず終いだった。別に答える義理も義務もありはしないのだが、それはそれで逃げたようで僕の気持ちが良くなかった。実は家に帰ってからも、父親の書架を漁って空の色について調べてみたのだが、あの日の空は天色なんじゃないだろうか。晴天の澄んだ空のような鮮やかな青色。五月晴れを表すにはふさわしい名前に思える。……もっとも、紺野の質問がそういう意味だったのかはわからないけれど。

「高月、お前話聞いてるのか。ちゃんとやろうぜ、なぁ」

 あまりに上の空になっていたので、小林先生に注意されてしまった。足下に転がっていたボールを拾い上げ、適当に先生に向けて打ち返す。ラケットの真芯に当たったボールは予想よりも低い軌道で飛び、簡易ネットにぶつかってやるせなく転がっていった。先生は不機嫌そうな顔をしている。まじめにやっているのだから、そう怒鳴らないで欲しいのだが。ぽたり、と顎の先から汗が滴り落ちた。こんなに汗をかくほど真面目にやっているのに、どうしてこんなにも伝わらないのかが不思議だった。遠くで高野君がラリー中なのにスマッシュを決めているのが見えた。本当にペアにならなくてよかった、あれならば先生とラリーを続けていた方がましだ、なんて考えていたら、再び怒鳴られてしまった。ああ、無情だ。

 

 体育の授業をなんとか切り抜け、昼休み。今日は最初からまっすぐ屋上へと向かった。立ち入り禁止と銘打たれてはいるが、特別施錠されているわけでもなければ、物理的に封鎖されているわけでもないので、立ち入らないかどうかは個人のモラルに委ねられている。のだと思う。屋上の扉を勢いよく開けると、埃っぽかった空気は春風に塗り替えられ、五月の陽気が僕を包んだ。相も変わらず死んでいるような町並みが眼前に広がっている。

「なにしてるの、君……、あれ、確か君、高月君だっけ。また来たんだ」

 先日と同じように、紺野が塔屋の上から声をかけてきた。どうやら屋上に来る人間にはいつもああして威嚇しているようだ。僕のことを認識すると、急に温和な雰囲気になって話しかけてきた。

「今日もお昼食べに来たの? 昨日と一昨日は来なかったのにまた来たってことは、友達と喧嘩でもした?」

「そういうわけじゃなくて、あの、この間の質問にちゃんと答えようと思って……」

 そう言って、父の書架から持ってきた本を見せると、紺野は目を丸くしてきょとんとした後、声を抑えるようにしてくつくつと笑い出した。

「なにがそんなにおかしいのさ」

「だって、本まで持ってきて、わざわざそんな真剣に考えてくれなくても良かったのに。君、やっぱり変わってるね。ありがとう」

 涙を拭って、肩で息をしながら紺野が言う。自分から聞いておいて、そんな言い方があるだろうか。愕然としていると、彼女が手招きをした。

「こっちおいでよ。聞かせて、君の空の色」

 爽やかな笑顔。彼女が降りてくる気は無いようだ。仕方なく梯子を登る。この間は気がつかなかったけれど、ここからだとフェンスに遮られることなく景色を見ることができるみたいだ。

「その本、何の本? 見せて。……へぇ、藍染め? すごい、初めて見た。こんな本あるんだ」

「うちの父さんが、染め物の工房で働いてて。父さんの本を借りてきたんだ。ほら、ここのページ」

 僕が開いて示したページには、薄い物から濃い物まで様々な藍色が紹介されていた。

「この前の空なんだけど、この天色って色なんてすごく近かったと思うんだ。どうかな」

 恐る恐る尋ねる。もしかして引かれていたりしないだろうか、と心配したが、彼女の表情を見るに、どうやら杞憂だったようだ。

「すごい、すごいよ、高月君。見ず知らずの私なんかの質問に、こんなにちゃんと答えてくれて。最初は変な人かと思ったけど、意外とやるじゃん。そっかあ、君はこういう色に見えるのか。ありがとね、高月君」

 にこり、と微笑む紺野。その黒髪を五月の青い風が揺らす。調子に乗った僕は、いつもより饒舌になって。

「それと、今日の空なんだけど、こっちに載ってる(かめ)(のぞき)って色に似て見えない? この色も藍染めの色なんだけど、藍甕の中に布を一回潜らせただけで、つまり、布は藍甕の中をちょっと覗いただけで出てきてしまったから染まり方も薄い、ってことでつけられた名前なんだ。だから色もすごく薄い水色で、他には白殺しなんて呼び名も――」

 饒舌になって、喋りすぎた。やってしまった。昔からの悪癖。いつも無口で退屈そうなくせに、自分の好きな話だけやたら口数の増える奴。最悪だ。五歳児並みの社交力、いや、それ以下かも知れない。だから友達もろくにできないんだと反省して、なるべく抑えてきていたのに、こんなところでつい気が抜けてしまった。終わった。今すぐ駆けだしてグラウンドへ飛び降りてしまいたかった。慙愧に耐えず、必死に平静さを取り戻そうとしていると、さっき聞いたばかりのくつくつという笑い声が静かに響いた。

「高月君、ちゃんと話せるじゃん。全然話してくれないから、もっとこう、暗い感じなのかと思ってたよ。それにしても、すごい詳しいんだね。やっぱお父さんが本職の人だから? これとか初めて聞く色だよ、私。知らないことがたくさんあるなあ」

 あっけらかんとして彼女は言った。僕が早口で捲し立てた言葉を、きちんと受け止めてくれたらしい。

「う、うん。小さい頃から父さんに色々聞いたり、工房についていったりしてたから。藍色についてだったら、かなり詳しいと思う」

 泣きそうになるのを隠してなんとか会話を続ける。鼻の奥がつんとした。思えば、人とまともに会話すること自体、最近はほとんど無かったような気がする。自分から避けていたのだから当たり前と言えばそうだけど。

「ちょっと、なんで泣きそうになってるの。さっきまですごく楽しそうに話してたのに。変わってるね、本当。初めて見たときはすごく不機嫌そうに見えたけど、笑ったり泣いたりしてると、結構良い感じだよ」

 泣きそうになっていたことは何故か容易く看破されていた。ああ、やっぱり飛び降りたいかもしれない。

「うん、気に入った。ねえ、高月君、これからもここに来てよ。私、空の絵を描いてるって言ったけど、実のところ、ちゃんと空の色を捉えられているのか、正直自信が無いんだ。でも高月君なら、きっと私に空の色を上手く伝えてくれると思うの。もしよかったら、毎日とは言わないから、また私に空のこと教えてくれないかな。……ほら、これが私の絵」

 紺野はスケッチブックを取り出して、ぺらぺらとめくって見せた。屋上から見える風景を、空を広めにとって描いているようだ。あまり絵には造詣が深くないけれど、空の独特な緑がかった色使いを除けば、立ち上がる雲の調子や建物の陰影など、かなり惹かれるものを感じた。

「見ての通り、空がどうしても上手くいかなくて……。だめかな?」

 お願い、と両手を合わせて拝む紺野。そこまでされたら、断る道理もないだろう。それに僕としても、彼女の絵や、彼女自身にだんだんと引き込まれていた。

「毎日は難しいかもだけれど、放課後とか、昼休みに少しでよければ、僕が力になるよ。でも、ここって立ち入り禁止なんだよね……?」

 二度も入っておいて今更だけれど、それだけが気がかりではあった。一応それなりに真面目な生徒でいるので、不必要に先生に目をつけられることだけは避けたい。

「本当? よかった、ありがとう! それなら大丈夫、私が先生に伝えておくね。私携帯持ってないんだけど、平日はずっとここにいるから突然来ても大丈夫。よろしくね、高月君」

 思っていた通り、彼女は授業には出ていないらしい。履いている上履きの色を見るに、僕と同じ二年生のはずだ。どこのクラスなんだろうか。うちのクラスでないことだけは間違いない。

 かくして、僕と紺野は、共に絵を描く奇妙な共同関係になったのだ。


◇◇◇


 先日の一件から、僕は週に何回か屋上に通うようになった。言っていたとおり、紺野は授業には全然出ずに一日中屋上で絵を描いたり空を眺めたりしているらしい。心配していた屋上への不法侵入については、全く誰からも咎められることがなかった。紺野は許可をとっていると言っていたし、その人に僕のことも上手く伝えておいてくれたのだろうか。

「高月君、今日の空って何色って言うの?」

「ううん、今日はちょっと青が深く見えるなあ。(はなだ)色って感じかな」

「また知らない色だ。こんな感じかな……」

「もっと青が強くていいんじゃない? そうそう、そのくらいの色かな」

 紺野はどうにも緑色を強めに使いたがるようだ。絵にも癖のようなものが出るのだろうか。自分も中学生の時に書いた小説が、あまりにその頃好きだった作家の文体に似てしまって、恥ずかしくてやめてしまった経験がある。もしかしたら紺野も、誰か憧れの画家の画風に近づいてしまっているのかも知れない。

「ねえ、紺野はどうしてそんなに空の絵を描くの? 憧れの画家の作品に、空の絵が多いとか?」

「空が好きだからだよ。空が持ってる本当の青さを、その藍色を、私が絵にしたいんだ。それだけ。ちなみに好きな画家はボッティチェッリ。私とは全然画風も画材も違うけどね」

「へえ。初めて聞いた名前だ」

「嘘。ヴィーナスの誕生、知らないの? もう少し自分の好きなこと以外にも目を向けようよ……」

 藪蛇だった。流石にヴィーナスの誕生くらいは知っている。ただ作者を知らなかっただけだ。それだけでここまで言われる謂れは無いと思うのだけれど、あまりに周りに興味を持っていないのは事実なので閉口せざるを得ない。

 五月の空は高く高く広がっている。屋上にいるのは僕と彼女だけで、グラウンドから響く声もどこか遠い世界の出来事のようだ。紺野は機嫌がずいぶん良いようで、鼻歌を歌いながら筆を握っている。僕は縹色の空をぼうっと見上げながら、弁当箱からかつおの生姜煮をつまみ上げ、口に放った。

「なんか良い感じに描けそうな気がしてきた。これだけ描ければ、笑われることもないかな」

 ぽつりと紺野が呟く。ほんの少しだけ、寂しげな表情をした気がした。

 

◇◇◇


 美術の時間は、比較的好きだった。座学の時間が少ない分他の授業より退屈しないし、教室を移動する選択科目だから、クラスメイトたちから少しだけ離れることができる。もっとも、肝心の絵の方はてんで駄目なんだけれど。

 石膏像を囲んで座ってスケッチをする。鼻の角度がなかなか上手くいかずに苦戦していると、急に肩を叩かれた。

「高月君、授業が終わったら美術準備室まで来てくれませんか」

 見上げると、美術担当の岬先生が背後にそっと立っていた。長いつややかな髪が印象的な先生だ。

「え、あ、はい、わかりました」

 なんだろうか、先週の授業で描いた果物のスケッチに何かまずいところでもあったのか。お世辞にも出来が良いとは言えなかったが、個人で呼び出しをされるほどではないはずだ。

 授業が終わってすぐに美術室の隣にある準備室に向かった。石膏像やらイーゼルやらが詰め込まれたこぢんまりとした部屋の真ん中に長机とパイプイスが二つ乱雑に置いてある。岬先生はそこに腰掛けるよう僕に言った。一体何を言われるんだろうか。あまりに絵が下手だから別な選択授業にしなさい、なんて内容だったら流石に堪えるけれど。

「呼んだのは、紺野さんのことについて話をしたかったからです」

 予想外の名前が飛び出してきて、面食らってしまった。もしかして紺野が何回か言っていた先生というのは岬先生のことだったのだろうか。紺野が美術部に入っていたとかなら納得がいくけれど。

「紺野さんが屋上で絵を描いていることは知っていますね。彼女から、貴方は彼女が絵を描くのを手伝ってくれているから、屋上に立ち入るのを見逃してほしい、と言われました。それは本当ですか?」

「あ、はい、本当です。なんか空の色を再現するのが苦手とかで、僕がそれの手伝いを」

「そうですか……。彼女から何か聞いていますか?」

「何か? そうですね、なんか、本当の空の青を描きたいとかなんとか言ってました。でも、それくらいで」

 空に本当の青なんてあるのだろうか、とは思うけれど、彼女の青へのこだわりは異常だ。もしかすると、僕なんかには考えも及ばないようなレベルの高い話なのかも知れない。岬先生なら理解できるくらいの、高いレベルの。

「本当の青、ですか。ありがとうございます、高月君。どうか、彼女の助けになってあげてください。危なっかしい子ですから」

「確かに。屋上から落ちられでもしたら、たまったもんじゃないですね」

 ははは、と二人で笑う。岬先生が笑うところを初めて見たかもしれないな、と思った。

「そうそう、ついでに、と言っては失礼かもしれませんが。君はとても優れた色彩感覚を持っているようですね。もしその気があれば、デザイン系の道に進むのもいいかもしれませんね。もっとも、デッサンはまだまだ練習が必要そうですけど」

 口元だけで微笑んで岬先生が言う。デザイン系か。父親が染め物をやっていることもあって、興味が無いわけでもなかったので褒められたことは素直に嬉しかった。最後の一言は、本当に余計だけれど。

 

岬先生と話していたら、いつもより屋上に来るのが遅くなってしまった。扉を開けるとすでに日は傾き始めていて、朱を流したような夕焼けがグラウンドを、屋上を、遠くの町並みを真っ赤に染めていた。紺野はいつものように、焼け爛れるような色の空を眺めている。

「遅くなってごめん。日、暮れちゃうね」

「大丈夫。今日は夕焼けを描いてたから」

 見ると、確かに紺野のスケッチブックにはいつもの青空とは違って、鮮烈な赤色で夕焼けが描かれている。

「へぇ、夕焼けも描くんだ。初めて見た。結構きつい赤で描くんだね」

「もう絵の具がなくて、その赤しか作れなくて。やっぱりきつかったか」

 空を見上げたまま呟く紺野。横顔が寂しげに見えるのは、西日が生み出すいつもよりも深い陰のせいだろうか。なんとなくそれ以上話を続けづらくて、話題を逸らす。

「そういえば、岬先生に声かけられたよ。前言ってた先生って岬先生だったんだね」

「あれ、言ってなかったっけ? ごめんごめん。私の受けてた美術もあの人が持ってたんだ」

 先ほど感じた陰りは気のせいだったのか、いつものように笑って答える紺野。そういえば、と初めて出会った日の刃のように鋭い視線を思い出す。確かに、危なっかしいところがあるかもしれない。東の空の紺青は、段々と広がってきていた。 


◇◇◇


 僕と紺野が共に絵を描くようになってから一ヶ月あまりが経った。その間に日本は梅雨入りを迎え、じめじめとした天気と、何もかもを根から腐らすような陰湿な雨が降り続くようになっていた。もう一週間も晴れ間を見ていない。この雨では流石に紺野もいないだろうと思い、しばらく屋上にも行っていなかった。早く梅雨が開けないだろうか。もともと雨が好きではなかったし、何より紺野に会えないことに、少しばかり寂しさを覚えた。

ただでさえ好きじゃない体育も、雨で校庭が使えないせいで体育館でのバレーに変えられてしまった。集団球技は僕が一番苦手なスポーツだ。やる気が無いように見られて、失敗をやる気の無さのせいにされて。考えるだけでうんざりだった。しかも今日のチームメイトには高野君がいる。ここだけの話、僕はテニスでの一件をまだ引きずっていた。元々話す機会も殆ど無い上に、彼に不快な思いをさせてしまったことで、なんとなく気まずいままで一ヶ月がたってしまった。

 準備運動の後に、いきなりチームごとの試合が行われることになった。高野君の足を引っ張ったらどうしよう、またつまらなさそうに見られたら、なんて心配事ばかりが頭を過ぎる。しかしながら、試合が始まると僕の心配はどこへやら、僕がトスしたボールを高野君がスパイクして点をとったり、チームメイトのブロックが上手く決まって皆でハイタッチしたり、今まででは考えられないほどに僕はチームに溶け込めていた。もちろんミスもしたけれど、高野君もドンマイ、と声を掛けてくれた。信じられない。これまでなら絶対に、やる気が無いなら辞めちまえと怒鳴られていたところだ。試合が終わった後にも、高野君が話しかけてくれた。

「高月、なんか変わったよな。前より生き生きしてるっていうか、表情が大きく変わるわけじゃないんだけど、前よりも、ずっと楽しそうだ。……この前は酷いこと言ってごめんな。本当に悪かった。部活の試合に負けて苛ついてて……。八つ当たりなんて本当に最低だわ。すまん!」

 信じられなかった。確かに、前ほど周囲に苛立ちを覚えたり、言い訳を考えたりすることは減ったような気がする。もしかすると、紺野のおかげだろうか。彼女と話すうちに、彼女の明るさに触れる度に、僕の中の偏屈な蟠りが溶けていったのかもしれない。……今すぐに紺野に会いたかった。会って礼を言いたかった。今この瞬間にでも梅雨が明けて夏が来て欲しい。早く雨があがらないだろうか。浮かれた足取りで渡り廊下を歩く。廊下の反対の端から急に怒声が上がって、僕は不覚にも情けない悲鳴を上げてしまった。どうやら女生徒同士が言い争っているようだ。恐る恐る様子を伺ってみる。

「あんたじゃ無理なんだよ、いい加減諦めなよ」

「なんでそんなことあんたに決められなきゃいけないのよ、私に構わないでくれない」

「授業にも出ないで毎日毎日目障りなんだよ、才能も無いくせに。先生だって忙しいのにあんたなんかに時間使わされて。人に迷惑掛けてるの自覚しなよ」

「私が何を夢見ようが、私の勝手でしょ」

「……空なんて、見えもしないくせに」

 ぱん、と乾いた音が響いた。女生徒の片方が平手で頬を打った音だと僕が理解したのと、こちらに駆けてくるその女生徒とすれ違ったのはほぼ同時だった。視線が一瞬だけ交差した。あの冷たい目。……ああ、あれはあの日の。

「待って、紺野!」

 僕は大雨の中、外に飛び出していく紺野を追いかけ、上履きのまま土砂降りの中へ駆けだした。


 紺野は校舎裏の焼却炉の隣で、膝を抱えてうずくまっていた。雨に濡れた寒さのせいかわからないが、その華奢な肩は震えていた。

「……紺野」

「たかつきくん、ごめん……、だいじょうぶ、なんでも、ないから……」

 嗚咽混じりの返事。あまりに、悲痛だった。

「しんぱいかけてごめんね、たかつきくん……。私、あいを、しらないから、だから、あんなこと言われて……」

 顔を上げた紺野の目は真っ赤だった。滴る雫は、雨だけではないだろう。

「謝らないで、紺野。大丈夫、大丈夫だから。そんな悲しい顔しないで。紺野はがんばってるじゃない」

 震える肩に手を伸ばそうとして、やめた。僕なんかの言葉が、紺野に届くとは到底思えなかった。先ほどわずかに芽生えた自信が、どんどんしぼんでいくのを感じる。

「……ごめんね、紺野」

 雨脚は弱まることを知らず、寸分の隙間もなく僕らを閉じ込めるように降り注ぐ。もはや僕の声は、紺野には届いていなかった。


◇◇◇


 今年の梅雨明けは例年よりも遙かに早かった。晴れ間が覗き始めてからは、僕はまた屋上に足を運んでいた。紺野とは、あの雨の日の話は一度もしていない。何か、触れるべきでは無い事柄のような気がした。僕のような部外者が軽率に踏み込んではいけない領域が、そこにはあった。

「見て、高月君。スケッチブック、一冊埋まったよ」

「もうそんなに描いたんだっけ? 時が経つのは早いね」

「二人で二ヶ月くらいは描いてるからね。……高月君に教わる前と後じゃ、空の色の映え方が全然違うよ。流石だなぁ」

 目を細くして微笑む紺野。満足げな表情を見ていると、あの冷たい目をした少女と同じ人とはとても思えない。

「じゃあ、僕はそろそろ帰るよ。またね、紺野」

「じゃあね、ばいばい高月君」

 塔屋の上に腰掛けたまま手を振る紺野をちらりと見やる。逆光でその表情は窺えない。藍色の制服の裾は、(せい)(らん)の空に飲み込まれてしまいそうに見えた。階段を降りながら思う。彼女はこの先ずっと空を描き続けるのだろうか。本当の青を求めて。あの日の渡り廊下での会話が脳裏を過ぎる。どうして彼女は、あそこまで空に執着するのだろうか。

下駄箱で靴を履き替える。昇降口を抜けると、近所の小学校の子供たちだろうか、僕の家とは反対の方向に駆けていくのが見えた。七月の太陽が住宅地を溶かさんばかりに照らす。夕方と言っても、夏の太陽は春までのそれとは比べものにならないくらいに日差しが強い。夏霞が空を漂う。前よりも、空を眺める時間がずっと増えた。繊細な空の色を、その変化の機微を追うようになった。高野君に、変わったと言われた。デザイン系の進路について真剣に考えるようになった。どれもこれも全て、紺野と出会ってからだ。ボーイミーツガールなんて言葉があるが、あの日偶然屋上で紺野と出会ったあの時に、僕の運命は大きく変わったんじゃないだろうか。

……日が段々と傾いでいく。人気の少ない住宅街は、うっすらと赤く染まり始めた。もし真剣にデザインの道に進むのであれば、もっと勉強を頑張らなければ。そこまで考えたときにようやく、明日提出の課題を教室に忘れてきたことを思い出した。気合いを入れた矢先にこれではばつが悪いので、僕は踵を返して学校へと向かった。


下駄箱を開くと、先ほど帰るときにはなかったはずの白い封筒が入っていた。誰かが僕が外にいる間に入れたのだろうか。でも誰が? 封を切ると、中には数枚の便せんが入っていた。 


§


 拝啓、夏空がまぶしく感じられるころとなりました。お元気でいらっしゃいますか。

なんて、堅苦しくてめんどうだね。私と君らしくもないや。

突然こんな手紙を書いてごめんなさい。きっと驚いていることでしょう。……いつも感情表現の薄い君の驚く顔が見られなかったのは、少しだけ残念です。もしかしたら今も、いつもみたいな穏やかな顔でいるのかも知れないけれど。

まず始めに、何ヶ月も私が描く夢に付き合ってくれて、本当にありがとう。そして、その夢を中途半端に投げ出してしまうこと、本当にごめんなさい。許してくれとは言いません。どうか、私を恨んでください。意気地無しで、弱虫で、最低で、嘘つきな私を。あの日君が偶然屋上に来てくれて、私とちゃんと向き合ってくれたこと、嬉しかったです。そしてまた会いに来てくれたことも。私の質問に何日もかけて答えを持ってきたことには、流石に驚いたけれど。君は空の青をただの青色で済ませずに、毎日、今日の青は何色で、昨日と比べるとこうだとか、たくさん教えてくれましたね。私は君が話してくれた甕覗の話がとても好きです。甕って字、すごく難しいね。調べてみて驚きました。

……きっと、君の目には私よりもずっと美しい空の藍が見えているのでしょう。時間とか、空気の感じとか、季節なんかによって複雑に表情を変えるその藍色を、私よりもずっと繊細に捉えて、言葉にする君が、私は羨ましくて仕方ありませんでした。

高月君は、色覚異常って聞いたことありますか。人間の目には錐体という細胞があって、その細胞が赤、緑、青の光を知覚して世界の色を見ています。でも色覚異常の人は、その錐体細胞のうち特定の色を感じるものが欠損していたり感度が弱かったりして、色がきちんと見えないそうです。

私は三型二色覚、青黄色覚異常という色覚異常者です。私の見る世界には、青という色彩が存在しません。といっても、皆の言う青と私に見える青が違っているだけで、私の中にはきちんと青が存在していますし、今日だって空は青色をしています。ただ、人と少しちがうだけで。

黙っていてごめんなさい。騙そうとしたわけじゃなかったんです。私が見る空を、同じ空を見ているはずの君が、私の知らない言葉で、私の知ることができない色を紡いでいく姿が、あまりに美しくて、とても「私、その色が見えないんです」なんて言い出せなかった。私が描く空は、私に見える空でしか無くて、私が思いを馳せる藍は、きっと君ならもっと深く、美しく、繊細に表すことができて。本当の藍を知らない私が描く空は、もしかしたら君からすると酷く曖昧で陳腐な色彩だったかも知れません。……もしそうだったとしたら、それを笑わずにいてくれた君は、きっとすごく優しいんだろうね。

私に見える世界が人と違っていたとしても、私はどうしてもあの空を絵にしたかった。私が絵を描き始めたのは小学生の時で、そのときは自分の目のことなんて知らずに、ただひたすらに大好きな絵を描いていた。中学で目のことに気づいても、私は描くことをやめなかった。だって、悔しかったから。人とほんの少し見え方が違う、それだけのことで大好きな絵を諦めなきゃいけないだなんて、そんなの、あんまりじゃない? 青空を描くことは、私のせめてもの抵抗だった。青のない世界で、青に憧れて生きる、私の数少ない、身を守るための手段。藍色の叛逆。それが絵だった。……岬先生から聞いたかも知れないけど、私、あの人の美術の授業で他の子に、私の描く空がおかしいって言われたの。それでその子と大喧嘩して。クラスでも友達が多い子だったから、だんだん教室にも居づらくなっちゃって、それで毎日授業にも出ずに屋上にいるようになっちゃったんだ。いつか私の絵を馬鹿にしたあの子を、それだけじゃない、これまで私の絵を変だと言ってきた人たちを、皆見返してやれるような絵を描いてやるって、それだけ思って、来る日も来る日も屋上で一人。

でも、わかってたんだ。そんなのただの独りよがりで、例え私が世界一の画家になったって、私の絵を笑う人には一生笑われたままだって。私はただ、自分には届かない世界を夢見て、がむしゃらに走って、ただ漫然と、やめ方を知らないから走り続けていただけで。だって、何もなかったんだ。絵すらなくしたら、私、本当に、空っぽになってしまうから。止まらないために、醜い怒りを原動力に変えてでも、この武器を手放すわけにはいかなかった。

けど、あの日君と出会ってからは、それも少しずつ変わっていきました。それまで私は、自分を守る武器として、他人からの評価ばかりを求めていました。けれど、君が私に世界の青さを教えてくれて、きっとあの日から、私はやっと、自分のためだけに空を描こうと思えるようになったんだと思う。それまでの私は、ただ認められたくて、見えなくたってこんなにも美しい藍を描けるんだぞ、と叫びたくて、ただそのために絵を描くようになっていました。そんな倒錯から君は私を救い出してくれたね。君が本当の藍の美しさを教えてくれなかったら、私はきっといまでも屋上で、見えない空に憧れたままで、不毛な日々を送っていたことでしょう。本当にありがとう。

君はヘンリー・ダーガーという人を知っていますか。彼は一九歳から六〇年以上もの間、たった一人で、誰に見せるでもなく物語を書き続けた、アメリカの作家なんだけれど。彼の作品は、彼が死ぬ前年まで誰の目にも触れることはなかったんだ。彼は自分一人のためだけに、一万五千ページもの小説を書き続けていたんだ。きっと本当は、私たち皆そうあるべきなんだろうね。評価ばかり求めるんじゃなくて、自分のためだけに、何かを創るべきなんだろうと思うよ。きっと純粋にそれができる人はそう多くないんだろうけど、私は君のおかげで、自分のためだけにものを創る幸せを見出すことができました。……もっと早く君と出会えていたら、と思います。

私はあまりに長い時間を不毛に過ごしてしまいました。それはもう、取り返しがつかないほどに。もっと早く自分を見限っていたならば、良かったでしょうか。私はヘンリー・ダーガーにはなれませんでした。君と描いた空は、私のための空だったけれど、それでもやっぱり、今でも私は誰かに認めて欲しいと思ってしまうから。きっと私は、青が見えていたとしても大した絵を描くことはできなかっただろうと思います。それでもこれから先の人生、きっと私は絵を描くことをやめられないで、人より劣る才能にそれでも縋って、思うような絵も描けず、ただ芸術の真似事を続けて、認めてくれと叫んで……。そしていつか、君と描いた空を思い出して、触れてしまった藍の深さに、生涯見ることのできないその色に憧れたまま、何者にもなれずに生きていかねばならないことに、気づいてしまって。もしもっと早くこの夢を手放せていたなら、普通の人として生きていけたかな。もしもっと早く君と出会えていたなら、もっと早くに空の青さを知ることができたなら、この夢に諦めもついていたかな。私はなまじ自分の才能を信じて、人並みに認められたくて、意地を張って縋りついて。今になって知った自分のために何かを創る幸福は、それまでの私からしたら眩しすぎました。

高月君は何も悪くないです。この手紙を書いたのは、君に引き留めて欲しいからでも、君を責めたいからでもありません。ただ、君に私のことをちゃんと伝えたかったから。私という人間が、藍に呪われた哀れな道化が、どんな理由で筆を折るのかを君に伝えて、私のことを忘れて欲しかったからです。身勝手でごめんね。私に藍を教えてくれてありがとう。どうかお元気で。さようなら。

敬具

紺野愛莉


§


 吐きそうだった。手紙の内容は正直ぼんやりとしか頭に入って来なかった。彼女がどうしてあそこまで空を描くことにこだわっていたのか。どうして僕に「空は何色か」なんて質問を投げかけてきたのか。彼女の妙に緑がかった青空、突き刺すような赤の夕焼け、あの涙の理由。全てが、ようやく。頭が割れそうに痛む。どうして気づけなかったのか、彼女の嘘に。彼女からすれば、天色も、濃藍も、甕覗も、縹も、紺青も、青藍も、その全ての藍が、藍が――。

 彼女は今、どこに。もう校舎を出てしまっただろうか。一体どこへ。――岬先生との会話を、不意に思い出した。まだ間に合うかも知れない。前のめりにつんのめって、あわや転倒しかけたまま、僕は屋上への階段を駆け上がった。


 あれは間違いだった。彼女に藍なんて教えるべきではなかったのだ。本来届くはずのなかった世界に触れたことで、彼女が苦しんでいたのならば、出会ったこと自体が間違いだった。あの日、屋上なんて行くべきではなかったのだ。過去の自分の全てが愚かしく思える。階段を駆ける足はすでに限界が近かった。一段一段が異様に遠い。間に合え、間に合ってくれ――。

 全体重を乗せて勢いよく扉を開き、屋上に転がり出た。どこだ、どこだ。目を凝らす。ここにいるはずなんだ。……いた。塔屋の上、初めて会ったのと同じ場所に、藍の少女は立っていた。

「……なんで。何しに来たの。どうして」

 紺野は冷ややかな目で僕を見た。初めて会った日と同じ、全てを拒絶する刃物みたいな目だ。ああ、あの日、僕がここに来なければ、彼女は。

「紺野、なんでだよ。どうしてそんな、いなくなるみたいなこと言うんだよ」

 息も絶え絶えだ。全身が痛む。それでも、立たなきゃいけない。

「来ないで。お願いだから。……もう、無理なんだよ。この先、私はこの目で生きていかなきゃならないの。その苦しみが、君にわかるの? 私には絵しかないのに、それすら奪われて。それでも、負けてたまるかって、必死に食いしばって、食らいついてきたよ。食らいついてきたつもりだったよ。……でも、私は知ってしまったから。私には届かない世界、触れられない世界の深さを。美しさを。私なんかじゃ、そこには決して至れないって。だって、ねえ、高月君。君が教えてくれた藍色の殆どが、私にはただの濃淡でしかないんだ。……酷い絶望だよ。君に見える世界と私に見える世界には、絶対に埋められない隔絶があるんだ。……わかってるよ。別に、君は悪くなかった。君と一緒に見えない藍を描いた日々は、確かに楽しかったんだ。ごめんね、高月君。もっと早く、出会いたかった。私が一人で藍に焦がれた時間は、自分の才能の無さに絶望するには充分すぎるくらいに長かったんだ。私はもう、進めない」

 ……何も言うことができなかった。僕は彼女の世界を知らない。そんな僕が彼女に伝えられる言葉が、何かあるだろうか。……紺野の言うとおり、紺野の苦しみは、僕なんかに理解できるものではなかった。でも。それでも、僕は。

「わからない。君の苦悩は、僕にはわからない。それでも僕は、君と空を、あの藍を描きたいんだ。紺野。きっと大丈夫だから」

 声が震える。やっとのことで痛む体を動かし、梯子を登り切った。

「僕は自分本位な人間だ。だから、君に幸せに死ぬよりも、不幸に生きて欲しいんだ。僕が君の代わりに藍を伝えるから。だから」

 僕は紺野に、生きて欲しかった。

「……もう、遅いよ」

 凛とした鈴のような声で紺野は言った。日の落ちゆく屋上を、濃藍が包み込む。彼女の纏う制服と同じ、深い藍色だ。最後に、彼女はいつもと変わらぬ笑顔を見せた。沈みゆく西日が、彼女の頬を煌めかせた。

「ねえ、高月君。この空は何色なのかな?」

 僕に背を向けて、ぽつりと呟く紺野。今彼女に飛びつき、縋りつけば、きっと彼女は。……でも、できなかった。彼女の嗚咽を思い出す。彼女の涙を。夕日に陰る、寂しげな横顔を。別れを告げることが傲慢ならば、それを止めることだって、きっと傲慢だ。

「濃藍。……深い藍だよ、紺野」

 両手を鳥のように広げて、くるり、と半回転する紺野。美しい少女だ。潤む瞳に、刃物のような鋭さはもうない。

「ありがとう。ごめんね。……さようなら、高月君」

 ふわり。濃藍が歪む。藍は、より深い藍へ。たった数ヶ月の記憶が、駆け抜けるように頭の中を過ぎっていく。天色が、濃藍が、甕覗が、縹が、紺青が、青藍が、鼻歌が、夕景が、嗚咽が、青空が、君が、濃藍に飲まれ、消えた。










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