信孝
秀吉が清洲会議で言っていた考えがあるとは、まだ幼い三法師君を推してもその幼さから却下されることは分かっていた。だから、三法師君の後見人として、織田信孝を推薦し、柴田勝家を黙らせるということであった。それゆえ、柴田勝家は激怒していた。なぜ、自分が身分の低い成り上がりに指図されないといけないのかと思っていたのだ。
さらに、明智の遺領分配で石高が秀吉の下になってしまったのも、よく思っていない原因である。
「おのれ、あの猿め儂を馬鹿にしおって!」
「殿、なれば一気に挙兵してしまわれば如何でしょう?」
「し、しかし、そのような事が儂に出来るであろうか?」
「殿ならあの秀吉を倒すことが出来まする」
「…… わかった。やろうではないか!」
「皆の者に伝えよ、今すぐに北ノ庄城に戻るぞ!」
「ははっ」
この情報は直ぐに秀吉側にも伝えられた。
「そうか、勝家が籠城か」
「そのようにございます。」
「ならば、我々も戦準備を始めなければな」
「羽柴殿、まことに柴田殿と戦をするおつもりか?」
「あちらが変わられない限りはそのつもりじゃ」
「…… わかり申した」
「よろしく頼むぞ?」
「ははっ」
「羽柴殿、それがしもお力添えを致しまする」
「池田殿、これは忝う存じまする」
「ははっ、この池田恒興、命をかけてこの戦を勝たせてご覧に入れましょうぞ!」
「はははっ。そうかそうか、命をかけるか… しかし、命だけは大切に致せ」
「はっ。肝に銘じまする。」
こうして秀吉側、勝家側共に戦の仕度をし始めた。
それから時が経ち、10月になった。柴田勝家は、織田家中から仲間外れになっていた滝川一益を味方につけていた。さらに、織田信孝をも仲間にしていた。対する秀吉側は、池田恒興、丹羽長秀らを味方にしていた。10月15日秀吉は、羽柴家に養子に来ていた羽柴信勝(織田信長の四男)を喪主とし、信長の葬式を執り行った。さらに10月28日羽柴秀吉、池田恒興、丹羽長秀は清洲会議での決定事項を反故にし、織田家の当主に織田信雄を推し奉った。
このことは直ぐに勝家の耳に入った。
「そうか… 猿めがそのような事を」
「はっ。どう致しまするか?殿」
「とにかく今は兵を出来るだけ集めよ」
「ははっー」
こうして二人の織田家重臣の運命を懸けた一戦が幕を開けようとしていた。
そして、1583年10月16日に勝家は秀吉を批判する覚書を送った。よく11月には、勝家陣営の使者として、前田利家、不破勝光、金森長近を秀吉の元へ遣わした。しかし、秀吉はこれを逆に好機と捉え3武将を調略してしまった。さらに、秀吉の猛追は途絶えることはなく、12月2日には、勝家の一門の柴田




