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糸の織りなす  作者:
1/2

前編


 最後の真珠を付け終えて、チェルシーは針を山へと戻した。

 一歩下がり、まじまじと眺めるのは一着のドレス。

 真っ青なシルクに散りばめたあたたかな白は、きっと姫殿下の銀の御髪にも映えることだろう。

 満足感でいっぱいになって、そのままベルベット生地の椅子に頭を乗せた。床に座り込んでいるからその高さはちょうどよく、チェルシーから動く気力を奪っていく。

 

 三月あまり、このドレスに取り組んでいた。

 ドレスも、イヤリングもネックレスも、髪に飾るリボンまでも手がけた。それが今、ようやく終わったところである。

 仕上がったと知らせればすぐにでも姫殿下は袖をとおしてくださるはずだ。

 でも、今は少しだけ待ってほしい。いつも作業にはかかりきりになるが、この三日間は特に食べることも寝ることも忘れて没頭した。


「チェルシー」


 ふっと意識が遠のいて眠りにすとんと落ちる、その直前。

 閉め切ったままだった扉が開いて、次いで呼ぶ声がチェルシーを拾い上げてしまった。聞き慣れた、しっとりとした声。

 チェルシーはベルベットのなめらかさに頬摺りをして顔をしかめる。もう少しで心地よい眠りに落ちるはずだったのに。渋って唸ると上からため息が降ってきた。


「あんた、またずっと引きこもっていたね?」

「……レア」


 容赦なく手を引っ張る相手は、不満を滲ませた声を上げても気にした様子はない。

 金の綺麗な髪をかきあげて、やわらかな灰色の瞳を眇めてみせた。


「ひどい顔色だよ。食堂に話をしてあげるから、さっさと立って。ろくに食べてないんでしょ」

「いい。行かない」

「チェルシー」


 だるさを振り払えずに首を振るチェルシーに、相手は声を低くした。

 カツンと鳴ったヒールがすぐ横で止まったけれど、もう一度、チェルシーは首を振る。膝の上で前掛けの裾をぎゅっと握った。


「いつもの時間にもらいに行くから大丈夫。今行ったら、たくさん人がいるもの」

「たくさんって言ったって、もう陽も傾き始めたわ。交代で時間がずれた騎士くらいしかいないはずよ」


 ゆっくりとした、やや低い声が言い聞かせるように響く。灰色の瞳はチェルシーを見据えているけれど、それから視線を外して顔をうつむかせた。


「騎士がいるから、行きたくない。お腹が空いているくらい我慢できるわ」

「食堂であんたになにかしようとするやつなんていないわよ。逆に人が少ないからこそ目立つってこともあるでしょう」

「……それでも、行きたくないの」

「チェルシー」


 ため息混じりの声に呼ばれても、チェルシーは顔を上げない。前掛けが膝の上でくしゃりと皺を寄せた。

 わっと頭の中を駆けた記憶に吐き気がしてくる。

 チェルシーは、男性が苦手だ。

 体が大きくて厳つい騎士なんてもってのほかだし、今目の前にいる幼馴染くらいしかまともに話せる相手がいない。

 歳が十を過ぎたころ、夕暮れの街角でいきなり裏路地に引っ張り込まれたことが始まりだった。

 強い力は振り払えず、タイで手をきつく縛られ、叫ぼうにも声は喉から出てきてくれない。

 薄暗さに浮かぶ相手のニヤけた口元と、酒の匂いと、夕焼けと、ビリビリと服が破れてボタンが飛ぶ音。


 偶然通りかかった大人がいなかったら、チェルシーはその男の好きにされていただろう。

 あとで知ったが、酔いが回ったその男は、暴力沙汰を起こして騎士団を辞めさせられた者だった。

 放心してしゃがみ込んだチェルシーは、縛り上げられた自分の腕を震えながら抱き込むことしかできなかった。


 擦りむいた膝も、打ち付けた肩も、手首についた跡も。どれも数日経てばきれいに消えた。

 それなのにチェルシーの胸に刻みつけられたものは大きかった。

 両親や幼馴染に慰められ、見守られ、ようやく人前に出られるようになるまで一年以上もかかった。

 ずっと家に引きこもって、母親から針仕事を習うだけ。縋るように針を持ち、見舞いに来てくれる幼馴染と顔を合わせるのだって避けていたあのころは、自分がこんなふうにお城で働くことになるとは露にも思っていなかった。

 転機は、二年前。

 チェルシーが仕立てたドレスが、姫殿下の目に止まったのである。


 ぜひとも城で殿下の針子として仕えてくれと言われ、断ることもできず今に至る。城にはたくさんの人がいて、年齢もさまざま、そして当然だが男性も多い。

 尻込みするチェルシーだが、姫殿下は事情を知って男性と会わなくてすむよう配慮してくれたのだ。

 同じころに宮廷医師として城へ支え始めた幼馴染みの存在も大きかった。

 甘えてしまっているとわかっていながら、その手を離すことができない。

 だから、こうして訪ねてきては世話を焼いて窘めてくれるのにホッとしているくせに、チラつく記憶に向き合えなくて素直にうなずけないまま。

 前に進んでいるようで、チェルシーは結局その場に縫いつけられている。

 

「……この前、また声をかけてきた騎士がいたの。だから、いい」


 きっと気さくな人なのだろう。

 やあ、お針子さん。よかったら一緒にどうだい? なんて言ってきたから、チェルシーは食事の乗った盆を取り落してしまった。

 急いで片付けて、謝る声も心配する声も全部無視して厨房へ逃げ込んだ。

 どういうつもりだったのかはわからないが、怖い。怖かった。だから逃げた。


「なにか、されたの」

「それは……なにもされなかったけど」


 自分でも失礼な態度だったと思う。

 きまりが悪くて膝の上ばかり見ているチェルシーは、ここまで言えば相手が退くと思っていた。いつもなら、これ以上食い下がることはない。諭すけれど最終的にはチェルシーの好きにさせてくれる。

 だから、相手の硬い声に息を呑んだ。


「いい加減にしなさいよ」


 低く、強い、声。

 はっと思わず顔を上げたチェルシーは、鋭い灰色の瞳に捕まった。

 こんな視線を向けられるのは、久しくなかった。やさしく、しかたがないねってやわらかに見守るはずのそれが。


「あんたがそうやっていつまでもウジウジしてるから、変に目立って馬鹿の気を引いてるの。自分からいじめてくれって言っているようなもんよ」


 ぐっとチェルシーは拳を握る。前掛けはもうくしゃくしゃ。念入りにアイロンをかけなければ戻らないだろう。

 思わぬ強い言葉に、胸が苦しくて熱いものが込み上げてくる。必死に呑み込んで、声を絞り出す。それなのに、震えたそれは情けないほど弱々しかった。


「じゃあ、レアはっ、わ、わたしが悪いって言いたいの……っ」

「相手が悪いに決まってるでしょうっ!」


 なじる声に、一層強く返されて息が止まった。

 それでも相手は先を続ける。今までみたいに甘やかしてはくれなかった。


「私が言いたいのは、自衛も必要ってことよ。狂った馬鹿がいることは確かなんだから、そいつの目に止まるような隙を作るなって言ってんの」


 どうして。

 頭が真っ白になったチェルシーは、耳を塞ぎたくてたまらない。

 そんな暇をくれもしない、今日に限って退いてくれないのは、どうして。


「しゃんと顔をあげて、背筋伸ばしなさい。おどおどビクビクしてたって、なんにも変わんないわよ。あんた、それでもいいの」

「いい」

「チェルシー」


 吐き出すように言ったチェルシーは、もう顔を上げていられなかった。

 握り締めた前掛けを滲んだ視界で睨みつける。そして大きく首を振った。


「いい。わたしは、服を作るしか能がないもの。それならどこでどんな顔してたって、周りには関係ないわ」

「このわからず屋! 本気でそう思ってるのなら、泣きそうになってるんじゃないよ!」

「だって……っ…怖いものは、怖いものっ」


 いつだって、脳裏をよぎる路地裏。

 男の弧を描く唇。酒臭い息と、締め上げられた手首の痛さ。


「レアにはわからないよっ! わたしの気持ちなんて――」

「わかるわけないだろ!」


 チェルシーは顔を上げた。

 滲んだ世界の中に、見たこともない人がいた。


「わかるわけ、ないだろう。泣くばかりでなにも言おうとしないから、想像するしかない。そんな俺の気持ちだって、おまえもわからないだろう!」

「レア」


 呼んでも、届かない。


「もう知らない。好きにすればいい」

「レア……!」


 背中を向けて、足早に行ってしまう。立ち上がったチェルシーを振り向くことも、返事も、なにもしないで。

 ヒールの音はあっという間に遠ざかってしまう。バタンと閉まった扉の音だけ、チェルシーのところへ戻ってきた。





 しばらく、動くことができなかった。

 どれほどの時間が経ったのかもわからない。何時間も過ぎたような、それともまだ十分も経っていないような。

 どちらにしても、一度堰を切ったようにこぼれだした涙は、一向に止まってくれなかった。


「どうしたの?」


 ぼろぼろ塩辛い雫があふれ、前が見えない。

 袖もぐちゃぐちゃで、それでもそこに座り込んでいるしかできないチェルシーは、額に降ってきたやわらかな声にはっと顔を上げた。


「ひ、姫様」


 慌ててまた顔を拭う。袖はたっぷりと水分を含んでいたけれど、やらないよりはマシだろう。

 ぼやけた視界に、うつくしい銀色が映った。いらっしゃったことに、これっぽっちも気づかなかった。


「チェルシーが素敵なドレスを作ってくれたって聞いて。居ても立ってもいられなかったから来てしまったわ。でも、それは少しお預けね」


 チェルシーに合わせるように、姫殿下はドレスの裾が汚れるのも気にせずにしゃがんでくださっている。

 ひっくと喉が鳴ったチェルシーに、殿下はおっとりとほほえんでみせた。


「廊下で会ったバルフレアがヘンテコな顔をしていたのと関係あるのかしら? もちろん、チェルシーが言いたくないなら、無理にとは言わないけれど。わたしでできることがあるなら、一緒にどうにかしたいわ」


 さあ、ひとまず立ちましょう。ちょうどそこに椅子があるわ。仕立てていたのだから疲れているのでしょう? ほらほら、姫の命令ですよ。隣にお座りなさいな。

 歌うように軽やかに笑うと、後ろに控えていた侍女に目配せをしてお茶の支度をさせた。タオルまで用意してくださったのに、チェルシーは小さくなりながら顔を拭う。大きなため息がこぼれた。

 殿下は、チェルシーの過去の話をご存知だ。わかったうえで、ひっそりと仕事をさせてくれている。

 だから幼馴染の治癒師がなにかとチェルシーを気にかけていることだって知っていて、口うるさくガミガミされていると応援するように手を振ってくださる。


 今までも彼に咎められることはあった。けれども、もう知らないと放られたのは初めてだ。

 長い付き合いのなかで培ってきた関係があったけれど、それさえも消えるほど見放されてしまったのか。

 先ほどあったことをつっかえつっかえ、鼻声のまま口にのせる。

 姫殿下は辛抱強く、まっすぐとチェルシーを見つめて、ときには頷きときには相槌を返し、最後まで聞いてくださった。

 すっかり冷めてしまった紅茶をチェルシーに勧め、殿下はほんの少し吐息をこぼした。


「ふぅん。それじゃあ、チェルシーはどうしたいの?」


 チェルシーは、カップを持ったまま唇を噛む。きゅっと指先に力がこもった。


「か、変わりたいです。もうこんな自分は嫌です……」

「ほら、もう答えは決まっていたじゃない。あなたがきちんと自分で出したのよ、それ」


 くすりと殿下は笑った。木陰に射す陽だまりみたいなあたたかな笑みだった。

 おどけたように片目をつぶって、桃色の唇でにっこり弧を描く。


「ちょうどわたしも、チェルシーに聞いてもらいたいことがあるの。よければ、踏み出す一歩を手伝ってあげられるわ。耳を貸してちょうだいな」


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