妖魔変幻
微かな風に葉擦れの音がする。
夏の日差しに水面がきらめいていた。
鮮やかな青い羽根の鳥が川岸の枝に止まって水面を窺っている。
翡翠だ。
「ちょっと遠い。逃げられそう」
白い夾竹桃の茂みに、身を潜めている女児が、独り言のように小さく呟く。
皮紐で拵えた投石器を手にしている。金の髪はざっくりと切ったように短く、粗末な麻の短衣を纏い裸足だ。尼僧達から見習いの衣裳を与えられてはいるが、動きづらいし汚したり破ったりすると煩い。
『…オリテキタラ、ボクガアシドメシヨウ』
足下の短い影から声が囁く。それはいつも女児の側にいるけれど、夜一人切りになったときしか姿をみせない。それは薄闇色の影が起き上がって仔猫の形をとったようにみえた。その囁くように微かな声は彼女の心だけにしか聞こえなかった。
何かを見付けたのだろう、鳥が川面に飛び込む。
女児から薄闇色の影がするすると離れ、蛇のように滑らかに地面を這っていった。
鳥がふたたび飛び立つ。長い嘴に小鮒を銜えていた。
川原に下りて魚を突こうとする。
影がそろそろと鎌首をもたげた。鞭のように跳ねて足を絡めとる。
女児は投石器を振るって勢いをつけつつ前屈みで走る。
チィーッと鳥が細く鋭い声で鳴く。
半ばの距離から石を放った。
羽毛が舞い散る。
鳥は飛び上がれず、片羽だけを羽搏かす。
跳躍びかかり捉える。
ニィーッと朱唇を笑みに吊り上げ、折れた片羽を掴んで毟りとる。
そして、尖った牙を剥き、首を喰い千切った。
骨や嘴を砕く咀嚼の音がする。
鳥の放した小鮒が弱々しく藻掻いていた。影が動いていき、魚が掻き消える。
血が女児の足下に滴る。それも吸い取られたようになくなった。
女児が首のない翡翠を落とすと、鳥は呑み込まれたように消えた。
影がゆるゆると起き上がり、その姿形を変えていく。
薄闇色の翼が音もなく羽搏いた。
罠にかかった兎を葉の落ち切っている木へ逆さ吊りにしている。
兎は冬毛に変わりかけていた。ナイフで切り込みを入れ、生きたまま皮を剥ぐ。
楡の梢に夕月がかかっていた。
腹から引き摺り出された臓物は、いつものように影に吸い込まれた。
「もっと大きな獲物が猟りたい。
投石器じゃ、あまり飛ばない。
命中ってもなかなか死なない。
こないだはさ、猪の奴に腹裂かれて、あたいが死にかけた」
女児はむすっとふくれっ面する。
『…モウチョットダヨ。
ダイブ僕ニ力ガツイテキタケド、モウチョットタクサン生命ヲ食べナキャイケナイ』
影は半ば後ろが透けてみえる薄闇色の仔猫になった。まだ幼いというよりは若いといってよさそうになりかけた仔の姿になっている。
「それって一体、どんくらいよ?」
女児が腕組みする。
『エート、モスコシタクサン?
ソウナッタラ、西ノ砦ノ武器庫カラ、弓矢ヲ盗ンデクルヨ。
僕ガタクサン強クナッタラ、君ノ願イヲタクサン叶エテアゲレル』
仔猫の姿をしたそれは前足を舐めて顔を撫でる。
いいかわすうちに、晩秋の夜の帳は下ろされた。
大きな枝角の鹿が逃げている。
夜の底は白く凍りついていた。
魔狼の遠吠えに木霊が返る。
あの影の狼といっしょの白い魔物から、自分がひきつれていた群は皆殺しされた。
風が唸る。雪が吹き下り、窪地で廻る。
狼の声もぐるぐる廻っているようだ。
どちらの方からかわからない。
また風向きが変わり血の匂いを伝える。
来た、白い魔物だ!
牡鹿は恐慌に陥る。
女児は冬のさなかだというのに、裸で四つん這いのまま駆けている。
短弓と箙を背負っているだけの肢体はしなやかな獣のようだ。
夜闇の中に透き通るような白い肌をした躰が浮かび上がっては雪に紛れて失せる。
影狼の形をした使い魔が獲物の前へ回り込む。
鹿が突きかかる。狼が身を躱した。
襲いかかっては離れ、足止めしながら、弱るのを待つ構えだ。
女児はさらに勢いをつけて小高い位置から跳躍びつつ弓を手にして矢をつがえる。
落ちながら二射。頸筋と腹へ突き立つ。
転がると膝立ちで、もう一射。右眼に入った。雪煙を上げて鹿が倒れる。
「あちゃー、失敗だわ。腸破れて、ウンコ臭くなっちまったよ」
女児は頭を掻いた。
『勿体ナイ』
影狼が慰める。
「これいらない、ほかにいっぱい獲ったし。
お前に上げる、食べたきゃ食べていいよ」
女児はそっぽを向く。
『ソレジャ、ソウスル』
影の獣が己の身を重ねると、鹿の屍が烟のように消える。
影は一回り大きくなり、その形体を変えてゆく。
『…ンン、コレナラモウ、人ヲ殺シテ、食べレルカナ?』
その姿形が定まると、それは舌舐めずりした。
黎明になった空の下、裸で鬣を掴み女児は、薄闇色の一角獣を駆る。
尼僧見習いの少女は混血児がこっこりと窓から抜け出すのをみた。
またなにか悪さをするつもりだろう。そしたらいいつけてやる、あんなの叱られればいいんだ。
裏木戸を開けて庭に出る。早春の夜の空気はまだ冷ややかで沈丁花の香りがきつかった。
気づいてない、後をつけよう。僧院の角辺りで捜し物してるみたいな素振りだ。
そろそろと近づいていると、背に突然衝撃があり、何かが腹から突き出した。
あ、槍? 角?
旋盤で造る螺子釘の捩れた螺旋形だった。
上体を捩って顧みる。それは半ば透き通った闇色の姿をしていた。
馬、山羊? ちが、一角獣!
ずぼりと、刺さっていたものがが引き抜かれる。噴き出す血に白い衣が染まった。
腎臓のあたりを貫かれていて、声も上げられず苦悶する。
混血児が振り向く。
赤い糸のような唇を吊り上げて笑っていた。
「なんかさ、都合よく? ひっかかってくれちゃったね。告げ口屋さん?」
そんな声を聞きながら気が遠のいた。
屍となった見習いの躰は人目につかない場所に移す。血痕は影の獣が吸い取った。
その軀を腑分けする。獲物を捌くので馴れていた。
囓られた頬が歯を剥き出しにしている。心臓を甘い林檎のように、二人で分け合って喰らう。
やがて獣の変身が始まる。もはや薄闇のような影の躰ではなく、見習いの少女にそっくり似た裸身になった。
それからまた変化する。黒檀のような長い髪が流れる。白い肌は雪花石膏ようで、唇は血のように赤い。
背丈は女児と同じくらい。ほっそりとしてしなやかな躰つきをした、まぎれもなく美貌といえる少年の裸身に変わっていた。
「氷面鏡でみた、あたいにそっくりだね」
女児が惚けたように洩らす。
少年の髪は黒檀のようで長く踝に届き、女児の髪は光のような金だが短く不揃いだった。
少年の左眼は翠緑、右眼は碧空であり、女児とは逆だった。
少年の美しい耳は長く先が尖っていたが、女児は千切れて裂けぎざぎざだった。
少年の白い肌は傷一つなく、女児の背には羽根を捥がれた疵痕があった。
そして、性のちがい。少年の胸に乳房はなく、女児には青く小さな果実があった。
それでもそのほかは、あたかも鏡に写しかのように、左右のちがいはあれど瓜二つだった。
「たぶん、僕が君を好きだから、君に似るようになったんだよ」
少年が手を取る。
「あたいが好き?」
女児が呟いた。
「うん、好きだよ」
顔がちかづき、唇がふれ合う。
こうして、孤独な少女は恋におちた。
すべて、仕組まれたとも知らず――。