2 お粗末な根源
それからおよそ一週間後。常人では考えられないほどの速度で依頼主の屋敷に着いた二人は、出迎えた青年の案内で屋敷へと向かう。
邸内は屋敷にそぐわしい見事な庭だったが、キリエ達はそれを楽しむことはなく、互いに視線を交わした。
『……見られてるな』
『そうね。──三階の、青いカーテンの窓。……まだ若いかな?』
気配さえ殺せていない、まだまだ未熟な視線。一般人に違いない。
けしてそちらを見ないまま、独特の言葉で話す二人。
どこの言語にも似たようで、全く似ていない言葉。誰にも理解されないそれは、エムスの傭兵達のみが使用しているものだ。任務内容の秘密保持のため、敵に会話の内容を読み取られないため。自然発生的に生まれ、口伝でのみ伝えられるそれは、話せること・理解できること自体がエムスの者であるという証でもある。
この言語だけは、たとえ貴族の前であっても使う事が許される。それはすなわち、エムスの権力の強大さと貴族への影響力の強さを示していた。
「旦那様は厳格ですが、優しい方です。お子様を一人お引き取りになっていて、フリードリヒ様とおっしゃいます。とても聡明で心優しい方ですよ」
「ふぅん……」
屋敷の主達について話す青年に、キリエが気のない返事を返す。もしかしたら、あの視線はその子息のものかもしれない。だとすれば、こちらに敵意を持っている可能性もある。
だが、そのまま彼の案内でこの屋敷の主人と対面したキリエは、聞き流していた従者の言葉を思い知った。
一見厳格そうに見える面立ち。だが、瞳を覗きこむと優しさと柔軟さがうかがえる。
「初めてお目にかかります、バスーキン伯」
「遠路はるばる申し訳ない。どうしても君達がいいと、息子が言ってきかんのだよ」
外向きの口調で挨拶するディラックに、依頼主──バスーキン伯爵が答えた。不安の色は隠せないものの、その言葉の端々に、心からのねぎらいが含まれている。
「ご子息が……?」
「どこから君達の噂を聞きつけたのか……頼まれた私が君達について調査したほどなのに」
恥ずかしながら、こういった世界には疎いものでな。
苦笑したバスーキンにかぶりを振り、キリエは優しく微笑んだ。
「私共の世界に関しては、ご存じない方が幸せです」
そう、血なまぐさい世界など、知らない方が幸せ。もう知ってしまったあたしは、抜け出せないけれど。
──それを、少しとはいえ知っている子息は、一体何者なの?
小さな凝りを胸に潜めたキリエの言葉で肩の力が抜けたバスーキンと、細々とした事実確認や今後の打ち合わせなどを始める。
「ドミニゴの後継者を馬車でひき殺したとか」
「──あれは、防ぎようがなかった……」
「と、言いますと」
「王都から帰ってくる途中だった。街中を走っていたら、泥酔した男がいきなり馬車の前に飛び出してきた。俺はこんな馬車ぐらい、素手でも止められるなどとわめいてな」
その時の光景を思い出したのか、バスーキンが額を押さえて深いため息をついた。
「御者は退けと叫んで手綱を絞った。だた、それでも間に合わなかった……。その場に男の素性を知る者がいなかったため、近くの者に金を渡して、遺族が現れたら謝罪とその金を渡すように言付けた」
そうしたら後日、男がドミニゴの後継者だったことが判明したのだという。
(なんていうか……)
「自業自得だな。あのドミニゴの跡継ぎとは思えない馬鹿っぷりだ」
「馬車の前に飛び出したら死ぬなんて、犬でもわかるでしょ」
ぼそりと酷評する二人。バスーキンに聞こえない程度のボリュームに絞っての呟きは、非常に容赦なかった。
一応、ボリュームを絞る程度の常識はあったらしい。
「ところで、ドミニゴとはどんな組織なんだ? 君達の腕は最上級のものだと息子が言っていたが、そこまでする必要がよくわからんのだ」
一般人ならではの素朴な疑問に、ディラックが軽くうなずいて答える。
「〈ドミニゴ〉は闇のギルドに属する、大規模な殺戮集団です。他にも〈穂刈〉や〈ヤッセン〉などがありますが、いずれも暗殺や殺人を生業としています」
「……そんな集団を相手に、君達二人で?」
言外に、お前達では役目不足ではないかと問われても、キリエもディラックも平然としている。いくら内心ではめんどくさいなんかヤパい気がするあたし達だけじゃ無理っぽいなどと思っていても、うろたえてしまってはエムスそのものの信頼に響くのだ。
「我々の生業は、依頼主を護ることです。お引き受けした以上、何があろうともお守りします」
力強いディラックの笑みに勇気づけられたのか、青くなったバスーキンの顔に僅かに血の気が戻る。ディラックの横でキリエも微笑み、その言葉に続けた。
「私達は今までにも、ドミニゴと何度か渡り合っています。どうぞご安心ください」
その言葉が最後の一押しだったのか、バスーキンが小さく息をついて苦笑する。今後の予定などを話し合っていると、執事が一礼して入ってきた。
「旦那様」
「どうした」
「フリードリヒ様をお連れいたしました」
その言葉にバスーキンがうなずく。
「ディラック殿、キリエ殿、息子のフリードリヒを紹介しよう。今年十四になる」
キリエの瞳が硬くなる。執事がうやうやしく開けた扉から入ってきたのは、密色の髪に濃紺の瞳の少年だった。
里子というのが信じられないほど聡明な瞳で、あと数年もすればさぞかし令嬢達の憧れの的となるであろう、愛らしい顔立ちをしている。
蜜色の髪はつややかに波打っていて、光に反射してきらきらと光っているように見えた。濃紺の瞳もすらりと涼しげで、しかし人懐こそうな光に輝き、好印象を受ける。
とても、裏の世界に手を出すような少年には見えない。ますます疑念がつもる。
だが──彼を見て、キリエは一瞬表情を動かした。その瞳に、ほんの一瞬冥い陰がよぎる。
あの子も、この若君と同じ年だ。あの子はこんなに立派に育っているだろうか。
彼もキリエを見て一瞬軽く目を見開いたが、すぐに落ち着いた、だが人好きのする笑顔を浮かべた。
「初めまして、キリエさん、ディラックさん。フリードリヒです」
「今回は、これを王都に連れていこうと思ってな」
「なるほど……社交界デビュ──―デビュタメントですね?」
頭の回転が早いキリエが、すぐにぴんときて答える。以前貴族絡みの仕事をこなしたこともあって、彼女自身にとっては七面倒だとしか思えない風習も多少理解していた。
「その通り。先程も言ったように、出発は一週間後だ。それまでゆっくりと旅の疲れを癒してくれ」
そう言ったバスーキンに、傭兵二人が即座に反応した。
「危険すぎます! 今回の旅はおやめください」
「ドミニゴに命を狙われている、この重大性をもっとおわかりください!」
真っ先に反論したキリエに、ディラックも言葉を重ねる。
しかし、バスーキンはそれに渋い顔をするだけ。
「私とて、命を狙われている今、のうのうと遠出はしたくない。だが、貴族の子息は、十四の年に陛下にお目通りすることが義務づけられているのだよ」
「それにしても、何も今向かわれなくても……」
ひとところに留まると、狙いやすく守りやすい。目的地を目指して常に動いていると、狙いやすく守りにくい。キリエ達としては、この一件の収拾がつくまでは、彼に屋敷に留まってほしかった。
だが、バスーキンは聞く耳を持たない。
「これは陛下の命令と等しい。行かないわけにはいかんのだ」
バスーキンはぴしゃりと言い切ると、ベルを鳴らして執事を呼び、キリエ達を部屋に案内するよう命じた。