2 波紋
日々飛び交う根も葉もない噂は翌日まで持ち越されることもなく短い寿命を全うする。女子社員が作りだす社内文化は少数派の男たちとは無縁に日々更新されているのだ。彼女たちから発信される情報の数々は発信者当人さえ忘れてしまうものが大半で水面に広がる波紋のように自然消滅する。波紋を広げる小石の数は女子社員の数に勝り水面に広がる波紋の数を知る者はいない。しかし希に水面に放たれた石が大きな波紋を生み出すことがある。その日に投じられた石は佐倉という名の石だった。水面の波紋を全て呑みこみ佐倉響子の帰国の報は社内を駆け巡った。発信元不明の噂は鈍い男子社員たちのアンテナにも届いた。私が耳にしたのは夕方で自由が丘に向かう直前のことだった。直営店の売上で頭がいっぱいだった私にとって、かつてインドに渡った女のことなど前日に飲んだ酒よりおぼろげなものだった。私は佐倉帰国の波紋に関わっている場合ではなかったのだ。私は直営店の売上実績一覧表を持参して自由が丘に向かった。
自由が丘店の来客数は衰えを見せることなく閉店時間まで盛況だった。しかし、店内で盛況ぶりを発揮していたのは佐倉帰国の噂だった。佐倉の波紋は社内を飛び出し顧客にまで広がっていた。私が店に足を踏み入れて最初に聞いた声は「佐倉さんが帰国したって本当ですか」だった。職務以上に重きを置かれた佐倉帰国の報は無視できない勢いを帯びていた。私は本来の目的からかけ離れた風聞に振り回されることになった。無味無臭の職務から得られない彩りを佐倉は不在のまま放っていた。
佐倉帰国の波紋はその放射円を拡大し続け翌週になっても衰えることがなかった。記憶の果てから到来した彼女は実像を結ぶことのないまま社内を席巻した。この頃になると誰もが佐倉帰国を信じていた。それどころか佐倉帰国の噂は佐倉復帰待望論に進化を遂げていた。当人の存在と意思に関わることなく膨らみ続ける期待は会社を動かすに至り私の週末は佐倉捜索にあてられた。佐倉の実家がある横浜を訪れたのは桜が散り際の日曜日だった。