1 辞意
梅が咲き春の便りが届き始めて桜の季節が訪れると私は秋の準備を始めた。アパレル業界では半年も先の商品企画に追われる。華やかさに満たされたこの業界。社内は女性だらけで旧友たちに羨ましがられた。私自身も入社当時は大いに盛り上がっていた。営業としての売上予算が与えられるまではそうだった。身近に女性はひとりいればそれで良い。そんなことを学ぶにはとても良い業界だ。
入社して二度目の春を迎えた頃、私にも何人かの部下ができた。直営店のスタッフが全て私の配下になったのはこの春だった。営業をしながら直営店を管理することは決して楽ではなかったが直営店には実に楽しいスタッフがいた。社内で一番の人気者、佐倉響子の存在は誹謗中傷渦巻く女子社員の中では特別だった。特別美人でもない彼女だが同性たちからは愛されていた。仕事で特別な活躍をするわけではなかったが遊びに関しては達人だった。彼女は絵を描くことが上手く自宅の壁にポップな芸術を刻んでいた。仕事が終わると一人で街をうろつきながら洒落た店を日々発見していた。雑誌の掲載より遙かに早い彼女の情報は彼女の人気の大きな要因だった。人気者の周囲には自然と人が集まり彼女の週末の予定を独占できる人間はいなかった。そんな彼女が辞表を提出したのは夏のセール品の在庫がほぼ片付いた頃だった。彼女の辞意は社内を駆け巡り私専用の回線は内線が鳴り続けた。私には人事権がなかったので何も答えようがなかった。辞表の受理は人事部に聞けば良いことなのだ。しかし、あまりにも多くの問い合わせに屈した私は佐倉に辞意の理由を確認することにした。
佐倉の所属は自由が丘の直営店で閉店間際まで混雑していた。私は閉店時間を待ち佐倉に会社を辞める訳を聞いた。
「インドに行くんです」佐倉は躊躇なく答えた。
「インド?」私は意味がわからなかった。
「インドって素敵ですよね。一度行ってみたかったんです。インドに行くために貯金をしていたんですけど目標額が貯まったので辞めます」佐倉は何かおかしいですかと言わんばかりの調子だった。私には理解できなかったが佐倉にとって仕事とはインドに行くための手段でしかなかったのだ。自由奔放といえば聞こえは良いが数字と日々格闘する私にとって多くの顧客を抱える佐倉の退職は歓迎できるものではなかった。私は佐倉の復帰を望んだ。私が佐倉に聞いたその日最後の質問は職務上重要なものだった。
「インドからはいつ頃戻る予定?」
「わからないです。行ってから考えます。気にいったら帰ってきません」佐倉は当然のように言った。佐倉の退職を食い止めることができなかった私は社内で言われのない批判にさらされたが次の桜が咲く頃には誰もが佐倉を忘れていた。