闇夜に嗤う十一面〜暴悪大笑面、断罪す〜
十一面観世音菩薩の頭上に並ぶ十一の顔。
その中でも菩薩の後頭部に隠れて一際異様な笑みを浮かべる「暴悪大笑面」という不思議な相がある。
その笑みは、人間の不純で身勝手で善悪入り乱れた人間の行いを見て、あきれて笑っている顔だと言われている。
そして今、その笑みは一人の少女の胸の奥に宿っていた。
現代の街には、誰も気づかない怪異が潜んでいる。
それは古い妖怪でも、伝承に語られる鬼でもない。
もっと身近で、もっと厄介なもの。それは、人の心が生み出す怪異。
とくに恐ろしいのは、「正義」を名乗る怪異である。
正義は本来、人を救うためのものだ。
だが、人はしばしば自分の都合で正義を語り、他者を裁くことで自分の価値を確かめようとする。その身勝手さ、善悪の混濁、そして“自分だけは正しい”という思い込みが極まったとき、人は怪異へと変わる。
現代の街は、ある意味では清廉潔白を求める病に侵されている。
SNSは、匿名性という盾を現代人に与えた。その結果、自らの鬱屈を「正義」に変換し、誰かの失言や過去の過ちを吊し上げ、完膚なきまでに叩き潰す「正義の執行」で世の中は溢れるようになった。
人々は、「自分こそは正しい」と信じて、あるいは「私こそがあなたの理解者よ」とアピールするために、いとも容易く言葉の剣を振り下ろす。
しかしそれは、社会の自浄作用ではなく、ただの娯楽としての「屠殺」にすぎない。
自分が正義の発信源となり、周りが同調し、獲物を嬲り倒していく姿を眺めることで、人は得も言われぬどす黒い快感を得るようになった。
それ故に、人々は獲物を探してネットの世界を血眼になって今日も彷徨う。
◆◆◆
比良坂 絲は夜の雑踏を歩きながら、世界が放つ腐臭に顔を歪めた。彼女の目に映る世界は、一般の人々が見るそれとは決定的に異なる。人々の背後から立ち上る、どす黒い澱み。それは「悪」ではなく、「純粋すぎる正義」が腐敗した末の想念だ。
「……ああ。またあいつら、獲物を見つけたのね」
絲の視線の先には、スマホの画面をニヤけた眼で見つめる女達がいる。その背後に、半透明の触手が蠢いていた。彼女らが叩いているのは、ある不倫疑惑を報じられた若手女優だ。どれほど謝罪しようと、彼女らは許さない。なぜなら、「許さないこと」こそが彼女らの正義であり、自尊心を満たす唯一の手段だからだ。
「……憐れね。そんなことでしか自分を保てないなんて」
絲は無意識に自分の胸に手を当てる。
幼い頃、彼女は無実の罪を着せられ、学級中から断罪された。発端は、その学級のリーダーの一言。後は、その取り巻きが寄ってたかって絲を吊るし上げた。
絲は、釈明せずに耐えようとした。
「いつか分かってくれる。だって、昨日まで仲良かったもの」
そう思って耐えようとした。だが、現実は違った。誰もひと言も絲の言葉を聞こうともしなかった。先生でさえも。
絲は逃げた。周りの目が、言葉が怖かった。そして、逃げ込んだ古い寺のお堂で、彼女は「呪い」に近い「庇護」を授かった。
『……絲。奴を見つけた。あのビルの一室だ』
「わかった、十一面。やっぱりダメだったのね」
彼女の背後に、巨大な十一面観音の幻影が、夜の闇に溶け込むように現れた。
だが、その観音は、教科書に載っているような穏やかな姿ではない。金箔は剥げ落ち、木肌は黒ずみ、十一の顔はそれぞれが異なる「狂気」と「慈悲」を孕んで、蠢いていた。
◆◆◆
「ヒ…ハハハ……!お前は社会のゴミだ。死をもって償えって」
ビルの一室では、平凡な会社員の男がキーボードを叩きつけている。彼はかつてあるSNSで「叩き系」として注目を浴びていたインフルエンサーだったが、あまりにも度が過ぎた結果、「羅正鬼」と呼ばれた怪異の残滓に取り憑かれており、絲が一度、その仮面を砕いたはずの男だ。
しかし、正義という麻薬は一度味わえば抗い難い。彼は再び、自分を「選ばれし審判者」だと信じ込み、以前より強力な怪異へと変貌を遂げようとしていた。
「私は正しい……私は、悪を許さない……!」
男の背中から、無数の「白い仮面」が噴出する。
仮面はそれぞれ、憤怒、嘲笑、憐憫の表情を浮かべ、男の肉体を侵食していく。
「……く……ク……!ウワハハハァ……!」
部屋の壁を突き破り、巨大な多面体となった怪異――「羅正鬼」が、街の灯りを飲み込むように膨れ上がった。
絲はビルの屋上から、その惨状を冷ややかに見下ろした。
彼女はヒーローではない。人々を救うために戦うのではない。ただ、人間が人間でなくなる瞬間が、吐き気がするほど不快なだけだ。
「……十一面。あいつ、もう人間には戻れないわね」
胸の奥で、重く、しかし風のような声が響く。
『……左の面を、開け。行き過ぎた執着を、その根から断て』
絲は屋上の縁に立ち、地上に落ちた星空のようなビルの林の中へ、迷いなく身体を投げ出した。
風を切り、黒髪をなびかせ落下する絲の身体を、黒い霧が包み込む。その様は、仏教世界の「明王」のようにも見える。
「お前は……?いや、見覚えがある。そうか、あの時の……!」
「どうせ覚えているのなら、自分の罪を数えなさいよね」
彼女が羅正鬼の目の前に現れた瞬間、背後の十一面観音の「左側の三面」が、血のような紅い光を放つ。
【瞋怒面】
それは、単なる怒りではない。対象の「誤った執着」を強制的に剥ぎ取る、暴力的なまでの慈悲。
「また私の邪魔をしにきたのか!」
羅正鬼が放った数千の「正義の言葉」という名の針が、絲を襲う。
「悪魔め! 正義を妨げる者は、すべて敵だ!」
絲は無表情のまま、一歩踏み出す。
「うるさいわね、その『正しい』って言葉。耳を腐らせるわ」
絲が右手を振ると、観音の瞋怒面が口を開き、業火のような波動を放った。羅正鬼の触手が、触れたそばから灰へと変わる。「正義」という名の執着を燃料に燃え上がるその炎は、男が積み上げてきた偽りの自尊心を容赦なく焼き尽くしていく。
「ぎゃああ! 私の正義が、私の功績が……!」
「功績? 画面の向こうで石を投げただけのくせに」
絲の瞳には、慈しみなど微塵もない。あるのは、冷徹な観察者としての光だ。
羅正鬼は狂乱し、周囲のビルに触手を伸ばし、飲み込み始めた。巻き添えを食らった通行人たちに、その触手は見えない。ただ、何かに憑りつかれたかのようにスマホを取り出し、肉親だろうと恋人だろうとかまわず、手当たり次第に非難の言葉をぶちまけ始めた。
「お前が悪いんだろが!」
「聞いたわよ!あなた最低ね!」
「よし、書き込み完了。ゴミは何を言われても仕方ないよね。だってコイツがワルイんだもん」
「そうだ!皆、正義を執行しろ!相手の間違いを正せ!正すための行為なら、それは全て正義だ!」
羅正鬼は、彼らの心の中に眠る「自分も石を投げたい」という欲望を見逃さず、利用し、自らの力の源としようとしたのだ。
絲は、呆れた顔をしてその様子を一瞥する。
「これが、正義……?笑える」
『……右の面を、使え。彼らの中に眠る『善』を、牙として突き立てよ。』
絲は印を絲び、背後の観音の「右側の三面」を起動させた。
【白牙上出面】
白い牙を剥き出しにしたその面は、人々の内側にある「良心」を強制的に覚醒させる。
ただそれは、救いであると同時に、地獄ももたらす。
自分が今までどれほど醜い感情を抱いてきたか。どれほど無実の人間を言葉で傷つけてきたか。その罪悪感が、牙となって自分自身の心を噛み砕く。
「う、うああああ!」
「私は何を……なんて酷いことを書いていたんだ……!」
周囲の群衆が、自らのスマホを地面に落とし、その場に蹲って泣き叫ぶ。
だが絲はそれを見ても、眉一つ動かさない。
「自分の醜さから目を逸らして、正義を叫ぶからこうなるのよ」
彼女の戦い方は、あまりに残酷で、あまりに潔癖だった。彼女の「救済」とは、甘い言葉をかけることではない。泥まみれの現実を、その眼に焼き付けさせることだった。
羅正鬼は、自らの支持者たちが罪悪感に沈んだことで、力を失い、醜い肉の塊へと成り果てた。中心にいる男は、もはや人間としての形を保っていない。
「なぜ……私は……正しかった……はずだ……」
絲は、男の前にゆっくりと歩み寄る。
彼女の背後、十一面観音の後頭部に位置する最後の「一面」が、その目を開いた。
【暴悪大笑面】
その面が口を開けた瞬間、街の喧騒が消えた。
「アハ、ハハ、ハハハハハ!」
街を覆う高笑い。だがそれは、喜びの声ではない。あまりの愚かさ、あまりの身勝手さ、善と悪がドロドロに溶け合い、自らの首を絞め続ける人間の本質。それを見届けて、「救いようがない」とあきれ果てた、神の絶望に近い笑いだ。
その笑い声が響くたび、羅正鬼の肉体は粒子となって崩壊していく。男の心にあった「正義への固執」が、その笑い声によって無意味なチリへと分解されていく。
「あんたの正義なんて、この笑い声一つ分にも満たないのよ」
絲の言葉と共に、暴悪大笑面の笑いが、街を包み込む。それは最大の攻撃であり、同時に、最大の抱擁でもあった。
「お前は愚かだ。救いようがないほどに。だが、それゆえに――愛おしい」
そんな矛盾した感情が、笑い声を通じて男の魂に流れ込む。
男は、最後に少女の瞳を見た。
そこには、自分を断罪する正義も、自分を憐れむ慈悲もなかった。ただ、「お前という人間がそこにいた」という事実だけを、あきれながらも受け入れる静かな光があった。
「……ああ、私は……ただ、寂しかっただけなんだな……」
羅正鬼は完全に消滅し、そこには気絶した一人の男だけが残された。
◆◆◆
夜明け前、絲は一人、静まり返った公園のベンチに座っていた。
十一面観音の幻影は消え、彼女はどこにでもいる、少し冷めた雰囲気の少女に戻っていた。
「……ねえ、十一面。次はいつ?」
『……人の心がある限り、混濁は止まぬ。次は、もっと深い闇だ。』
絲はフン、と鼻を鳴らして、スマホに流れてきた映像を見る。そこには大国の大義の元、ミサイルを撃ち込まれたとある国の小学校が映し出されていた。
「この国の戦争も、コイツらと同じ。正義の名の下に、人を傷つけることを正当化している」
『……愚かなものだな。昔から何も変わらぬ』
彼女は「正義の味方」として、これからも語られることはない。
むしろ、人々から見れば、彼女のやり方は怪異よりも恐ろしく、残酷に見えるだろう。だが、彼女がいなければ、街は「正義」という名の毒で、溢れかえるだろう。
彼女はカバンから、古ぼけた数珠を取り出し、手首に巻き直した。
「……ヒーローなんて、真っ平よ。私はただ、罪のない人たちの笑い声が止まないようにするだけ」
立ち上がった絲の影が、街灯に照らされて、十一の頭を持つ異形の影を描く。
彼女は、何事もなかったかのように目覚め始めた朝の街へ、一人戻っていく。その背後では、目に見えない「暴悪大笑面」が、今もなお、人間の愚かさを笑い続けていた。




