5話,『彼女の名前』
「名前をどうするか、だよな」
「ん?」
初めての人間の朝食。残飯を漁る俺達野良猫にとっては、それはまさに御馳走だった。
たとえそれが、一般的なものだとしても、他の生き物の『食事』には無い鮮やかさが、食卓の大きな台の上を美しく彩っている。そして、それは視覚だけではなく、嗅覚、味覚も楽しましてくれていた。
その光景は、俺にとっての一つの夢の実現だった。
心からの幸せと一緒に、ハムを噛み締め、飲み込む。
ただ、ちょっと食事に集中し過ぎていたらしい。ロレインの言葉を聞き逃してしまっていた。
フォークに突き刺した目玉焼きを口に運び、噛み、飲み込む。そして、
「何か言った?」
そんな俺の様子を見て、彼女は溜息をついた。
「はぁ。君はまさか食事まで、初めての経験とか言いそうだな。見ているだけで、満腹になりそうだ」
「まあ、初めてだけどな」
特に意味もない当たり前の言葉だったので、食事を再開する。ちょっと驚いた目をしていた彼女の、フォークとスプーンが動きを止めていたので、
「それ貰っていいか?」
「あ、ああ」
許可も貰ったので、ロレインから目玉焼きとサラダを受け取ろうとする。
反対側から、手渡しでどれを貰おうとし、しかし、青菜と卵は目の前に置かれなかった。
皿の反対側を掴んだロレインが、その手を離さないのだ。
「?」
皿を握る彼女と俺の目が、自然と交錯する。
俺はそれに疑問を浮かべ、そして彼女の瞳はこちらに何かを伝えようとしていた。
彼女は、その奇妙な情景のまま、口を開いた。
「私たちの出会いを憶えているか? 『お前の名前はなにか?』と私は言って、そして君は確か、名前が無いと言っていたな」
忘れるわけがない。
今でも、当時の情景を鮮明に思い出せる。
初めての異世界。そこは心細くて、目の前の緑のカーテンがまるで、俺という存在を拒んで、立ちふさがる、世界の壁ようだった。そして、そこに立つ少女が、俺の希望の欠片であり、唯一の救い手に見えたのだ。
「理由は知らないが、君は名前を持っていない。人間なら、当たり前に持っているモノを、だ」
これが何度目になるのか。眩し過ぎて、優し過ぎる瞳は、この俺を真っ直ぐ正面から見つめていた。
彼女の言葉には、理由を話さない俺を責める気持ちが全く無い。其れが堪らないほどありがたく、またその厚意に縋っている俺が情けなかった。
この話を延長した先には、俺のこの異世界での人生がある。名前を付けられた瞬間ヒトが生まれるのなら、名付けは間違いなく、俺の新しい生を決め、そして方向を決定づけるものに他ならない。
意志を決し、椅子にしっかりと座り直す。
「私もずっと君を『君』とだけ呼ぶというわけにもいかない。そもそも、『名前』というのは人が自らを確立する上で、絶対必要だ。君がこれからどうするか知らないが、どの道を選んでも、確実に『名前』を使う時が来るだろう」
『だから、』と彼女は溜めて、繋げた。
「君は、自分の名前を、どうしたいんだ?」
その言葉が合図になっていたのだろうか。
ロレインが言い終わると同時に、一人の美女が部屋に入ってきた。
エプロンドレスに身を包んだその体。分厚い服越しにでも分かる抜群のプロポーションと、お姉さん系の顔にかかったクールなメガネ。それらは、彼女に大人びた、そして理知的なイメージを与えていた。
彼女が、この美味な料理を作ったのだろうか。是非とも御近付きになりたいと、そう思う。
そして、一体君は誰なのか、こんな女性を側近にしているロレインは何者なのか。そんな疑問が脳裏に浮び、口から出かかった。
空けられた扉から、こちらに歩いてくる彼女の身のこなし。それは決して一朝一夕で身に付くものではなく、どれだけメイドさんが訓練を積んできたかが分かった。
そんな彼女の、メイド服の袖から覗く綺麗な手には、分厚い巻き紙が握られている。
俺の疑問はそっちのけで、ロレインはそのメイドさんから紙を受け取り、そして、メイドさんが食べかけの朝食と食器を手早く片づける。
それが終わったのを確認し、ロレインは投げるような動作で、テーブルにその紙を広げた。
厚く巻かれた紙の全体は、やはり長大だった。
そして、その紙の色は白の単調な美しさはなく、ビッシリ書き込まれた黒い線で装飾をされている。
よくよく見てみると、それは人間の使う文字のようだった。
「君が起きるまでの三日間が暇だったから、君の名前を考えていた。少々多くなり過ぎてしまったが、気に入ったものを、君の名前にしよう」
まだ、俺の『ひととなり』を知らなかった彼女が、俺などの名前を必死に考えて、そしてこんなに長いリストを作ってくれた。それだけで、俺は感謝の念を持つべきだ。
俺はその善意に答えるために、
「分かった。部屋で目を通すから、このリストを貸してくれ」
○
とは言ったものの、
「…………どうしたもんか」
俺は、豪奢な部屋、そこのベッドの上に座って悩んでいた。
「うわぁ」
クールダウンのために、リストを手に持ったまま後ろのベッドへ倒れ込む。上質な反発が俺の華奢な体を優しく捉えた。
長い紙に皺が出来たが気にしていられない。脳みそが沸騰しそうなほど、煮詰まっていたのだ。
紙を手繰り寄せ、名前リストの始まりに目を遣った。
そこに書かれているのは、黒インクで記された記号のようなもので、恐らくそれは、この世界の文字に当たるのだろうが、
「全っ然読めねぇ」
俺は頭を抱えた。
この世界を甘く見ていたのかもしれない。いやそれよりもどちらかというと、
「あんのジジイがぁぁ!!」
文字を読むことは、経験よりも知識を多く使うから、経験の範囲外なのかもしれない。でも、そのぐらいサービスしてくれてもいいだろう。
こちらの安全な日常を願うなら、そんぐらいは大目に見ろや。
すっかり馴染んだので忘れていたが、そういや女性の体になってしまったのも、もともとはアイツが原因だった。
いつか、絶対にコロス。
心に復讐という名の傷を刻みこんだが、そんな事をしても文字が読めるようになるわけもなく。
ロレインに頼りたかったが、彼女は、
『すまないな。私も君と一緒に考えたいのだが、森でやることがあってな。とある友人がここを訪ねてくる前に、済ませないといけない。夕方には帰ってくるつもりだ。ちなみに私のお薦めは4番と52番と160番だ』
と言って、朝食後速攻で出かけて行った。
その後に、この世界の文字を読めない事を知ったので、彼女のお薦めすら全く分からないこの現状。
どうしたもんかなあ。寝ちゃおうかな。ロレイン帰ってくるまで寝ちゃおうかな。でも、三日間寝たら流石に寝飽きたなぁ。
流石に困って、現実逃避を始めようとしたら、
「すいません」
ノックの後で、綺麗な声が聞こえた。
聞き覚えのない若干ハスキーな、落ち着きのある声は、俺の聞き覚えのあるものではない。
俺が見た人の中で、声を聞いたことのない人と言えば、一人しか思い出せなかった。
そして、扉が開く。
「お名前は決まりましたか?」
思った通り、あの美人眼鏡メイドさんだった。良い姿勢のまま、お盆を手にしている。
そのお盆の上には、クッキーの盛られた小皿とティーカップがあった。
猫なので、良く分からないが、漂ってきた紅茶の香りは確かにいい匂いだ。憂鬱だった頭を覚まし、そして正常な思考を与えてくれる、そんな気がした。
なんにも起きない続きの話。
出来るだけ早く次話投稿するようにします。中途半端なので。