3話,『名前は……』
「お前の、名前はなんだ?」
少女の質問に、俺は心臓の鼓動を止められた。
猫に名前は無い。そもそも創る必要すらない。俺達猫は、そんなものを使わなくても、互いの事を区別し尊重することが出来る。
シャルのような家猫は飼い主に付けられた『名前』を誇りに思っている。だから俺達も彼らを彼らの名前で呼んでいるが、そんなものはただの称号みたいなものにすぎない。
つまり、
当然ながらただの野良黒猫にそんな名前などあるわけが無い。
そして、
その事実を突き付けられ、俺が深刻に考え込んでいる事に驚いた。
名前という、単なる記号でしかないそれ。後で適当に考えればいいと思っていた名前は、予想以上に俺の心を悩ましていた。
器が変わると、その精神までも影響されるものなのか。まあ腐れジジイの話によると、俺は人間の魂らしいからこれが正常なのだろうが。
とにかく、彼女の質問に答えなければならない。
「俺に…………名前は」
猫の口ではなく、少女の綺麗な唇で言葉を紡ぐ。そして、口に出すという行為によって心の奥に隠されていた孤独感、不安感が表面化した。
それらは、際限なく俺の心を覆い隠していく。この新たな世界から、拒絶されているような、そんなイメージが浮かぶ。
もしかしたら、俺はこの時、涙を目に溜めていたかもしれない。
声が震えていたから、そう思った。
「……ないんだ」
その声のままで相手に質問を返す。
「それより、君の名前はなんだ?」
そう言って、目の前の少女に向かって、一歩踏み出す。軍人少女は、怯えたように後ろに下がった。
裸は腕で隠したままで、何故俺が歩いたのかは分からない。
ただ、体が勝手に動いた。そうすべきだと、本能が俺の体に指令を出したのだ。
高い草を踏み分け、彼女に近づく。距離が縮まるにつれ、より鮮明になっていく彼女の輝く容姿。それとは逆に、霞んでくる周囲の様子。
俺は無意識のうちに、ヒトとの触れ合いを求めていたのだろうか。際限なく増大する孤独を埋めるために彼女に触れたかったのだろうか。
硬直した少女の頬に、僅かに触れたあと、全身から力が消え失せ、そして俺は崩れ落ちた。
目に映るものは暗く、淡くぼやけ、そして最後には何も見えなくなる。
意識が消える直前、彼女が微かに口を開いた、そんな気がした。
○
「あちらの世界は危険じゃぞ。いつ命を落としてもおかしくないぐらいじゃ」
転送直前になって、途轍もなく大切な事を言ってきた腐れジジイがここに一人。
「は?」
その意味に俺は絶句した。
「ちょっと待てジジイ。お前は俺をそんなところへ送ろうとしてたのか、なあ?」
猫の前足を掲げてケンカ腰に。いつでも引っ搔けるポージングだ。
「そう怒るもんではないのう」
「怒るだろうこれは!! 死んだら生まれ変わった意味ないだろコラ」
髭を撫で付けて落ち着いた様子を見せるジジイに、本気で殺意が湧いた。
「人の話は最後まで聞くべきじゃよ。危険だから、危険だからこそお前に死なないための力を授けよう、そう思っての」
「もったいぶんなよジジイ。要点摘まんでとっとと話せ」
「しょうがないのう」
好々爺とした苦笑を浮かべて、
「お前に、経験を与えようと思う」
「は?」
俺はまた疑念の声を上げた。
「おいおいいくら長く生きて禿げた髪(神)様だってボケるなよ。世界に迷惑掛かるからな。
で、経験を俺にくれるだって? 馬鹿言うな。経験は他人から貰うモノじゃない、自分で積み上げるものなのだからな」
「カッコいいのう、その台詞」
で、と禿げジジイは接続詞で繋いだ。
「しっかり考えてみるべきじゃのう。お前は今まで、人間の足で歩いた事があるか? 手で何かを掴んだ事はあるか? 人間の言葉を発音した事があるか?」
流石の人間好き猫でも、それはない。
そんな肯定の気持ちを表情から読み取ったのか、ジジイは言葉を続けた。
「そうじゃろう。人間として生まれ変わったばかりのお前では、あちらに行ったところで獣に食われた死ぬだけじゃ。だから」
お前に、経験をやる、そう言ったのじゃ。
「安心しろ。お前は無限の可能性を秘めている。上手く行けば、そう簡単に死なんじゃろう」
フォッフォッフォッとジジイは笑った。
「それと、転送で消耗して何日かはまともに動けんかもしれないが、そこを承知しとくのじゃよ。疲労で倒れて、獣に食われても恨まんでおくれ」
「…………」
それで死んだら、経験を与えた意味が果たして会るのか?
○
鋭い衝撃で、意識が覚醒した。
俺は薄っすらと目を開け、そして周囲の様子を確認する。
窓にかかったカーテン。その小さな隙間から一筋の光が、俺の瞳を照らしていた。
「もう、朝か」
などと呟いて、手を翳す。それによって目に降りる光を遮る。指の隙間から洩れる光が、薄らぼんやりしていて覚醒していない頭に響いた。
急に朝日の眩しさが強まったように感じられ、日の線に掛からないように上半身を上げる。俺の美しい黒髪が、幻想的な滝のように流れた。目にかかったそれを手で除けた。
自分が包まっていた布団を体の上から退ける。そうして、大きく伸びをする。
「っぁ~」
瞬間、脱力感。それが回復すると同時に、少しずつ俺の脳も動き始めた。
そうしてまず考えるのは、
「ここ、どこだ?」
俺が寝ていたのは、どこかのお嬢様が寝ているような豪奢なベッド。材質は知らないが、絹のように滑らかなシーツや枕のカバー。寝心地満点、天上の平穏を俺に教えてくれていたふかふかの掛け布団。
部屋の調度品にも趣がある。派手になり過ぎず、また控えめすぎもしない、品のいい色合いのカーテン
や絨毯、クローゼット。それらの家具が絶妙な位置に置いてある。
本当に、ここは、どこなのだろうか。
もう一度、
「ここ、どこ?」
「ここは私の別荘だ」
疑問の呟きに返答で返された。
いつからそこで見ていたのか。森で出会った少女が開かれた入口に立っていて、そして今はこちらに向かって歩いて来ていた。
その手に握られていたのは剣ではなく、食事を運ぶお盆だったため、俺は体の緊張を抜いた。
「その様子ではもうすっかり回復したらしいな」
少女が、枕元の机に食事を置く。そして、こちらに身を乗り出す動きで、
「っ!?」
俺のおでこに手を当てた。それと同時に、俺の心拍も跳ね上がる。まあ美少女にそんなことされたら誰だってそうなるだろう。
「熱もなし、と」
安堵の顔と共に、そんな言葉を吐く少女。心配してくれるのはいい。いいのだが、
「君は誰なんだ?」
そう。俺はこの森で会った少女の事をまだ、何も知らないのだ。
出さないっていってたのに、さっそくジジイが転生前の回想で登場しました。すいません。
本当は萎びたクソジジイじゃなくて、美しい少女達を書きたいんだけど。