2話,『異世界の猫』
「それでは、今からお前を転移させるぞ」
深い知性をもつ老翁が手を翳す。すると、今までその暗い世界で、唯一形を保ってきた黒猫の体が揺らぎ、まるで蜃気楼だったかのように消え失せた。
その現象が終わってすぐに、一人の男が姿を現す。
「よかったのですか、第二の生を与えるなんて」
温厚と大樹のような神がこの老人だとすれば、その男は筋骨隆々、武神と表現するが相応しい。しかしただ乱暴なだけではない。永遠とも等しき経験が、その瞳には映っていた。
「器と魂を間違えたのは確かに我々神の責任ですが、だからといってそこまでする必要があるのでしょうか?」
その問いに老神は頷きながら答えた。
「確かに、やり過ぎかもしれぬのう。現にわしも彼がただの猫もどきだったらここまでせんかったじゃろう」
なら、と言葉を返そうとする武神を、老神は片手で遮って言った。
「ただ、いいとは思わぬか? あのように逆境の中でも信念を曲げないあの心。仲間を命を賭して助けた優しさ。わしはただ、あの猫が気に入っただけだったのじゃろう」
だから、と話を閉める。
「眺めてみようではないか、あの猫を。純然と輝くあの可能性を」
○
なにかが鋭い弾ける音で飛び起きた。
猫の防衛本能で目が覚めた俺は、すぐに臨戦態勢を取る。
毛を逆立てて、鋭い牙を剥き出す。空気が勢いよく排出されるような音で相手を威嚇する。傍から見たら俺は獰猛な獣に見えたかもしれない。
あ、れ?
目の前にいたのは、俺を襲いに来た魑魅魍魎の化け物でもなく、不意打ちに来た縄張りを侵食する雄猫でもなかった。
視界に飛び込んだ光景に、心臓が止まりそうなほど驚いた。
まず目に入ったのは、深緑の大地だ。
天まで突き上がり、緑を枝に纏わせる巨木。それを中心として幾つもの大木が立っている。それはまさに、緑の異世界と言えた。
それらの木々の隙間には何も見えない。まさに一寸先は何とやらだ。
鼻や口から体の隅々までに、鮮烈な土と葉の匂いが充満する。脳髄を突き上げるような空気に、軽い眩暈と高揚感を憶える。
時折聞こえる鳥獣の叫び声が、この場所の危険性を俺に教えてくれている。
そして、木枝を踏みつけたまま硬直している女性の姿が目に入った。
樹海探索用なのだろうか、厚く丈夫そうな衣服にそのすらりとした四肢を包んでいる。
出るところは出ていて、しまるところはしまった、理想的なプロポーション。
樹海を歩行するための杖代わりに、鞘付きの刀剣。それを握る美しく伸びた指と、その剣の武骨さの対比はは、俺に新しい美を教えてくれた。
女性的な美しさの溢れた体の上にあるのは、冷たい美しさを持つ顔だ。鋭利で理知的な印象を受けるそれは、たとえるなら歴戦の武人だろうか。どんなときにも冷静沈着、落ち着いて戦場の状況を変化させるそんな印象を受ける。
髪の毛の括り方もそんな印象に拍車をかけていた。ポニーテールで全体の印象が引き締まる。風で揺れる綺麗な栗毛が、幻想的に凛々しい。
形の良い唇から、音が出る。
「お前は、何者だ?」
硬質な口調だが、それは彼女に対する、俺の受けた印象を加速度的に進めることとなった。
つまり、
「か、可愛い」
そう、可愛いのだ。
半端なく美人な少女が男口調、それも軍人風の堅い言葉使いで喋るっていう事実がもうグッド。お姉さん、どうか俺を守ってくれ!! みたいな感じで告白したいぐらいに最高。
異世界に来て、それで最初に目にした女性が、絶世の美女という事実に、俺のテンションは爆発していた。
だから俺はもう一度、その事実を口に出し、
口に出す?
ちょっとまて俺。口に出すってまさか人間の言葉をか?
ははは、馬鹿を言うな。猫の猫体構造上、人間のような複雑な発音を、幾つも連続でこなすなんてことは出来ない筈だ。
いくら俺が喋るつもりでも、相手には、『にゃぁ』とか『みゃ』とかでしか聞こえないのだ。
だから、意味は理解できても、俺が喋れるのは全世界共通の猫語だけなハズ。
のにも拘らず、今俺は何と言った。『可愛い』と人間の言葉で言ったのだ。
絶対発音できないのに。
それと、相手の発言をしっかり考えてみろ。ただの黒猫に向かって、
『お前、何者だ?』
はありえないだろうどう考えても。猫に話しかけるとしてもあの女子高生みたいに『可愛い』とかそんな事言うだろ普通。
なに、この世界には猫が存在しないのか? だから、初めて見る猫に驚いて、あんな言葉を俺に投げかけたのか?
そんな分けがない。そんな考え浮かぶこと自体がおかしい。俺、しっかりしろ。眼を目の前の女性みたいに見開いて、しっかりと現実を直視しろ!!
何故、こんな状況なのか謎を紐解くんだ。
そこで、
眉をひそめている美少女の視線を追っていく。
それは、どう見ても俺を直視していて、だから俺は必然的に自分の体を見ることになって、
なーぜか、豊かな膨らみがありましたとさ。
その二つの膨らみは天を指し、そしてなだらかに臍まで続いている。
目の前の少女を歴戦の軍人と例えるならば、この体は深窓の令嬢だろうか。まるで、触れただけで壊れてしまいそうな、守ってあげたくなるような純白のシミ一つない肌。
低めの身長も保護欲を誘う。
緩くウェーブした髪は艶やかな黒色だ。それをロングに伸ばしている姿と、そして顔は見る事が出来ないが、恐らく、超が付く絶世の美少女なのだろう。
問題は、それが、俺の、体である、という、事実で。
そしてそれを、目の前の女性が凝視しているという現状で、
「み゛ゃゃぁぁぁぁあああんん!!」
俺はまるで本物の女のように悲鳴を上げて、体をよじり胸や、その…………『大切なところ』を隠したのだ。
「お前は、なんだ?」
そんな俺の間抜けな姿を無視して、少女の再度の質問。
咄嗟に、返答する事が出来ない。
既に猫でもない。完璧な人間とも言い難い。その上本来の性別とは違う姿をしている。果たして、今の俺は『何もの』なのだろうか。
俺が詰まっているのを見て、軍人少女は質問を重ねてきて、
「お前の、名前はなんだ?」
その質問の内容に、俺は息がとまったかと思った。
メインヒロインはいちよ居ないということにしています。
だから恐らく、誰かと結ばれるという事はないです。
特定のルート固定だと寂しいので、主人公には自分のルートを歩いてもらおうと思います。