銀次、兼、綾子
銀次は、兼と綾子と共に五両目に移動した。
「えっと……桜さん……だよね? よろしくね」
兼が挨拶すると、綾子も「よろしくお願いします……」と返した。
「それにしても。わざわざ一両ずつ空けていくとか徹底してるよね……」
兼が忌々しそうに言う。
せめて恋人が隣の車両にいたら、異変が起こった時に気づけるのに。
兼だけでなく、他の者らもそう考えて歯がゆい思いを味わっていた。
「ほのか……あいつに酷いことされてないかな。クソッ! なんで俺たちがこんな目に……」
結婚を間近に控えた順風満帆なカップル。こんな狂気的なゲームに巻き込まれるなんて、兼もほのかも想像していなかった。
自分たちは平凡で陽だまりのようにあたたかな未来を迷わず進んでいくのだと、信じ切っていた。
兼はここに来る前、王仁に告げていた。
「俺たちには人を殺してまで叶えたい願いなんてない! ただこのイかれた状況から抜け出して、無事に結婚式を挙げたいだけなんだ! 明日ほのかが死んでたら、俺もあんたの彼女を殺すからな!」
兼はそう叫んだ後、車両を移動したのだ。
「よりにもよってなんであんな奴と一緒に……俺が代わってやれればよかったのに……」
「桜さん。王仁はいつもあんな調子なの?」
「はい。王仁くん、いつもあんな感じなんです……」
困り顔になる綾子を見て、銀次は王仁に同情の余地がないことを知った。
「そっか……ワンチャン極限状態でどっかおかしくなってるのかもって思ったんですけど……」
「王仁くんは、わざわざ人に嫌われるようなことをするんです。それでいつも人が遠ざかって……」
「桜さんはなんであいつと付き合ってるの?」
兼が不思議でならない、というように尋ねる。
「何か弱みを握られて脅されてるんじゃ……」
「だっ、大丈夫です!」
綾子が慌てて否定する。顔の前でバタバタと手を振る仕草が、銀次と兼の目にはわざとらしく映る。
「王仁くんは、本当は悪い人じゃないんです。良いところもあって……本当は優しい人なんです。私が彼を怒らせるようなことばかりするのが悪いんです……」
しゅん、という効果音が見えてくるほど、綾子は萎れていた。必死に王仁を擁護しようとしているものの、それがうまくいかないようであった。
これは……。
銀次と兼は顔を見合わせて頷く。
DV被害者の典型的な思考回路だ。
彼にも良いところはあるの。確かに暴力的だけど、それだけじゃないの。本当は優しい人なんだけど、私が彼を怒らせてしまうのが全部悪いの——。
彼女たちは、しばしばそう言って酷い恋人を庇う。本気でそう思っている。洗脳されてしまっているのだ。
恋人とは名ばかりで、王仁と綾子は搾取関係にあるのだろう。
綾子は箱入り娘のようなふわふわした雰囲気で、見るからに騙されやすそうな若い娘という感じだった。だからこそ、王仁も目をつけたのかもしれない。
弱いし鈍臭いし間抜けで隙だらけ——王仁自身もそう言っていたように、悪人はそういう弱者を見つけて取り入るのが得意なのだ。
そんな王仁の願いはなんなのだろう。
「王仁の願いはなんなの?」
銀次は綾子に尋ねる。
「すみません。誰にも言わないようにとキツく言いつけられているので……」
「そっか……いや、いいんです。無理に話そうとしなくても」
約束を破ったら、桜さんが酷い目に遭う。そこまでして知りたいことではなかった。
「銀次くんはアルバイトとかはしてないの?」
暗くなった空気を払拭するように、兼が話題転換をする。
「週四で家庭教師のバイトしてます」
「へえ家庭教師! 高校生でもできるものなんだ」
「中学生までなら教えられますよ。時給がいいので始めたんです」
「確かに家庭教師のバイトは時給いいよね」
「子どもに勉強教えるのって大変そう……銀次くん凄いんだね」
綾子が尊敬の眼差しで銀次を見る。
「都ちゃんの応対も小慣れた感じだったもんね。子どもに好かれるタイプなのかもね」
兼もそう言う。
「いいなあ。銀次くん……」
綾子が心底羨ましそうに言ったので、二人はまじまじと綾子の顔を見た。
「子どもは可愛いですよね」
そう言う桜さんは、なんだかすごく寂しそうに見えた。
「田中さんは、学生時代にバイトとかしてましたか?」
銀次はまた空気を明るくしようと、兼に話題を振った。
そこから兼が学生時代にしていたバイトの話になり、会話はひとしきり盛り上がった。
ふと沈黙が訪れた時、兼が真剣な表情になった。
「俺には願いなんてないよ」
兼が曇りのない瞳で断言する。
「俺の望みは、ただこのイかれたゲームから解放されること。そのために絶対に無事でいなくちゃいけないんだ。俺は無事にほのかと結婚できれば、それで何も不満はない」
ほのかも同じ気持ちのはずだ、と兼は断言してみせた。
相手も同じ考えだと自信満々に言い切ってみせる兼を、銀次は眩しく思った。
「田中さん、本当に彼女のことが好きなんですね」
「当然だ。愛している。——銀次くんだってそうだろう?」
銀次の頬が赤く染まり、汗が浮かんでくる。
「海ちゃんも銀次くんのこと、かなり大好きみたいだよね。好意がダダ漏れだよ。あんな可愛い子にああまで思われるなんて、一体前世でどんな徳を積んだの?」
「た、田中さん……。でも確かにそうですね。一年前は画面越しに眺めてることしかできなかったのに……人生って何が起こるかわかりませんね」
まさかあの人気アイドルの"海ちゃん"が、自分の通う高校に転校してくるなんて、ここはいつから漫画の世界になったんだと銀次は思ったものだ。
その上、偶然不良に絡まれている先輩を助ける流れになるなんて——あまりにもできすぎた現実に、銀次は夢の中にいるようだと思った。
それからあれよあれよという間に交際することになっていて——。
「俺、全国のファンに殺されますね……」
「かもね。でも付き合ってること隠してるんでしょ?」
「それはもちろん。なんてったって海先輩はトップアイドルですから」
もし「彼氏がいる」なんて公表したら、アイドル生命に関わることになる。最悪グループを引退させられることになるかもしれない。銀次はそれだけは避けたかった。
「アイドルの"海ちゃん"は俺のカンフル剤ですから。バイト代もほとんど推し活に使ってます」
銀次の瞳は、オタクの輝きに満たされていく。
「先輩にはずっとステージで輝いていてほしい……夜空を輝く一等星のように、ずっと高い位置で光り続けて、俺のような一般ピーポーの日々をわずかに輝かしいものに変えてほしい……」
「えっ、なんか急にポエミーになったんだけど」
「すみません、俺の中の限界オタクの部分がポロッと……気持ち悪かったですよね、すみません」
「いや別に気持ち悪くはな……いこともないか」
「ふふっ」
二人のやり取りを見守っていた綾子が、蕾が開くような笑顔になる。
「ご、ごめんなさい。笑ってる場合じゃないのに……」
「いや、桜さんはもっと笑った方がいいよ」
兼が食い気味に言う。
「ここには桜さんを怖がらせるような人はいない。だから思う存分リラックスしていいんだよ」
王仁に抑圧されて笑えなかったぶん笑えばいいのだと兼は言っていた。
それに、と彼は続ける。
「こんな状況だからこそ、笑顔を忘れないことが大切なのかもしれない」
「こんな状況だから……そうですね。気持ちを強く持たなくちゃ」
綾子はその言葉に元気づけられたようで、兼に微笑んでみせた。
「ありがとうございます、田中さん。おかげでちょっと元気出てきました」
「そ、そうか……それならよかったよ」
兼の耳が赤くなっているのを見て、銀次はそれも無理ないかと思った。
だって、綾子の笑顔は本当に可愛らしかったから。