表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
カップル限定デスゲーム  作者: 絶対完結させるマン


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

21/38

五つ目の指示

 「ほのか!」


 兼の絶叫で、銀次は深夜に目を覚ました。


 銀次は、声が聞こえた二番車両に駆けつける。海と都もついてきた。


 車両内の惨状を前に、銀次は言葉を失った。


 仰向けに倒れたほのかの体を、兼が名前を叫びながら揺さぶっていた。


 ほのかの顔面に目をやった銀次は、すぐに見てしまったことを後悔した。


 ほのかの顔面は青紫色に腫れあがり、瞼も不良漫画に出てくるキャラのように腫れ上がって、瞳はほとんど見えなくなっていた。鼻はありえない方向に捻じ曲がっており、かろうじて口と認識できる場所は赤黒い血液でグロテスクに彩られていた。


 端的に言って、殴り殺されたことが一目でわかる見た目をしていた。


 婚約者の変わり果てた姿に、兼は狂乱して何度も彼女の名前を呼んだが、ほのかはピクリともしなかった。


 「お前が……お前が殺したんだな!」


 兼が立ち上がり、近くに立ち尽くしていた王仁につかみかかる。


 「田中さん! まだ王仁に殺されたと決まったわけでは——」

 「じゃあ他に誰がやったって言うんだよ! こいつしかいないじゃねえか!」


 兼は銀次を睨みつけると、王仁を指指す。


 「夜中、目が覚めてほのかがいないことに気づいて探し回ってたら、二番車両にこいつとほのかがいたのが見えたんだ! こいつはほのかの上に馬乗りになって、無言で顔を殴り続けてた。もう動いていないのにも関わらず何度も何度も——現行犯だよ! こいつがほのかを殺した犯人で間違いないだろ!?」


 銀次が王仁に目をやると、王仁は「そうだよ」というように顎を引いた。


 「王仁くん……?」


 一番車両から、怯えた様子の綾子が現れる。這ってなんとかここまで来たようだ。


 「綾子! 出てくんなって言っただろうが!」

 「でも、王仁くんが佐々木さんを殺したって聞こえたから……本当、なの?」

 「本当だよ! そんなことどうでもいいじゃねえか。それより何勝手に這い出してきてんだよ! ただでさえ今のお前はクソほども役に立てないんだから、しゃしゃり出てくんじゃねえよ!」


 きつい口調で怒鳴りつけられて、綾子は項垂れる。


 「ごめん……でも私、王仁くんがまた知らないところで無茶してるんじゃないかって心配で……」

 「お前ごときが俺の心配してんじゃねえよ! いつもいつも……いい加減鬱陶しいんだよ!」

 「おい」


 兼が低い声で凄む。


 「あ? ッ……! お、前…………」


 王仁の巨体が大きな音を立てて倒れる。

 

 兼が背後から王仁の後頭部を力いっぱい殴りつけたのだ。


 どれほど立派な体格を持つ者であろうとも所詮人間。頭が急所であることは変わらないようである。


 急所にうまくクリーンヒットした兼の拳が、王仁を気絶させた。


 「王仁くん!」


 綾子が上半身の力だけで懸命に這ってくる。


 「綾子さん、ダメだ!」


 兼が通せんぼをするように、王仁と綾子の間に立ち塞がる。


 「これ以上こんな奴と一緒にいちゃいけない!」

 「で、でも……私は王仁くんがいないとダメで……」

 「それはあいつにそう思い込まされているだけだ。この男があなたを搾取するためについたデタラメなんだ」


 兼は綾子の肩に手を置き、諭すように目を合わせる。


 「もうあんな酷い奴の言いなりになることはない。あなたは自分の生きたいように生きていいんだ」

 「自分の生きたいように……」

 「そうだ。……今まで辛かったと思う。でもこれからは大丈夫だから」


 そう言うと、兼は戸惑う綾子を抱きしめた。


 「俺たちのところに来て。みんな一緒なら大丈夫だから」


 綾子をみんなで保護しようと、兼はそう言外に伝えているのだった。


 兼は、もう綾子に対する憐れみを抑えることができなくなっていた。ほのかを殺されたことが引き金になった。


 あんな人殺しに囚われている綾子を放っておけないと、使命感にも似た思いを抱き始めていた。


 「もう大丈夫ですからね」


 上半身だけの綾子を軽々と抱き上げると、兼は他の者らが集まっている車両へと進んでいった。


 ***


 「へーじゃああのマッチョ、床に伸びてるんだ」


 キアラが兼の勇気を讃えるように、感心した目で彼を見ている。その隣には裕也が座っていた。


 二人も兼の叫び声で目が覚めたらしい。綾子を抱えて車両に入ってきた兼にキアラは、開口一番に「なにごと?」と尋ねた。


 王仁がほのかを殺したこと。兼が王仁を気絶させて綾子を"救出"したことを話すと、聞き手である二人も息をのんだ。


 「桜さんに対して、あまりにも酷い物言いしてたから、頭に来てしまったんだ」

 「へー田中サン、熱いとこあるじゃん! 臆病な方だと思ってたのにな〜」

 「あの……王仁くん大丈夫でしょうか。死んでないですよね……?」


 兼の隣の座席に下された綾子がおずおずと兼に尋ねると、キアラが吹き出した。


 「ちょっと後ろから殴りつけたくらいで死なないでしょ! 心配しすぎ〜」

 「でも頭だったし……もし後遺症とか残ったらどうしよう……」

 「あなたがそんな心配する必要はないんです」


 兼は安心させるように綾子の頭を撫でる。


 「あなたはもうあの男から解放されたんだ。もしまたあいつに何か言われたり脅されても大丈夫です。俺がなんとかしますから」


 綾子を王仁の精神的・暴力的DVの洗脳から解くには、今がチャンスだと兼は思っていた。


 綾子はまだ安心はできない様子。


 無理もないと銀次は思った。そんなちょっと他人に忠告されたくらいですんなり納得できるようなら、DVするような男からはとっくに逃げ出せている。


 「そういえば佐々木さんはどうして二番車両にいたのかな」


 そう首を傾げたのは海だった。


 ちなみに海が心を殺そうとしたことは、銀次を寝取られた嫉妬故のことで他に理由はないと思われている。


 銀次と、自分が誠士郎を刺したと言え、と言い含められた裕也を除けば、二日目の夜に誠士郎を殺そうとしたことも誰も知らない。


 海に叶えたい願いがあることは、口外しない方がいいと思った。危険視されてしまうから。しかし——。


 銀次は裕也の顔をチラリと盗み見る。長い前髪に隠されたその目は窺い知れない。


 一ノ瀬くんは勘づいていてもおかしくない。先輩が一ノ瀬くんをどんなふうに脅したのか知らないけど……。


 裕也の心境を想像しようとしたが、いくら考えたところでキリがないし答えの出ないことなので中断した。


 銀次は海の疑問を考えることにシフトする。


 「トイレに立った時に襲われたのかな」

 「でもそれだと、王仁が三番車両のところでずっと待っていたことにならないですか?」


 夜中、トイレに立った者を狙って殺そうとしていたとしたら、個室の中で待っているのではないかと、銀次は殺人犯の心境を想像して考えた。


 「佐々木さんはどうして二番車両にいたんだろう?」


 銀次は彼氏である兼に意見を仰ぐように視線を移すと、兼も不可解そうな顔をしていた。


 「トイレで用を済ませて帰ろうとしたけど、待ち伏せていた王仁に連れ込まれた——とか」

 「なぜ三両目ではなく二両目に?」

 「わからないよ、そんなの。三両目だと他の誰かに邪魔されるかもと思ったんじゃないの?」


 兼はそれ以上は考える価値もなさそうに手を振って答えた。


 確かに三両目で殺しを実行すれば、用を足しに来た者に目撃されてしまう恐れがあるか——。


 「じゃあ王仁は、二番車両から三番車両に人が来るのを見張っていたということになるんですかね……」

 「そうだね。きっとそうだよ。誰かが来たらすかさず殺すつもりでいたんだろう。自分たちが最後の生き残りになるように……」


 兼がうんうんと頷く。その目には王仁への憎しみが浮かんでいた。


 三日目の指示のせいで関係にヒビが入っていたとはいえ、婚約者を殺されたのだ。それもあんなに執拗に殴られて。憎悪を抱かない方が無理というものだろう……銀次は兼に心底同情した。


 会話が途切れた時、裕也が手を上げて発言する。


 「あの……王仁、さんなんですけど、今のうちに縛っておいたほうがいいと思うんです。佐々木さんの次の犠牲者を出さないためにも」


 実は銀次もそれが心配だった。


 綾子を奪われた王仁は怒り狂ってここまで来るだろう。それを避けるために彼を拘束しておくことはマストだと思っていた。


 「えっ、でも——」


 綾子が難色を示した時だった。


 『おはようございま〜す! 五日目の指示のお時間です!』


 馬鹿に元気な声に時間を確認すると、いつの間にか午前6時になっていた。


 最悪な一日が今日も始まる。


 『楽しいゲームにも終わりが近づいてきましたね〜。ですがまだ死者は三人……みなさん良心的な方ばかりですね。それともビビりなだけでしょうか?』


 うるさい。さっさと本題に入れ。いや、やっぱり永遠に入るな。


 『でも私的には血が足りない気がするので、ここらでエキセントリックな指示を一つ』


 嫌な予感しかしない前置きを挟んで、主催者はあまりにも残酷な指示を下した。


 『あなたたちの中から一人。死んでもらいたい人を選んでもらって、その方を殺してもらいます』


 今回も昨日と同じく、絶対に死者が出る内容の指示だ。


 『死ぬのはどなたでもいいです。多数決で決めるもよし、立候補するもよし、無理やり殺してしまうもよし。誰でもいいので一人殺してくださーい。では』


 楽しげな声色で連絡を断つ主催者。


 一座には、鉄のように重い沈黙が残された。


 「俺はここにいる誰にも死んでほしくない」


 そう口火を切ったのは、兼だった。


 「知り合って間もない。みんながどんな人生を歩んできたかなんてわからない。でも、ここにいる人たちの中に悪人は一人もいないって、それくらいのことは俺にもわかる」


 兼の目には、熱い炎が宿っている。その眼差しには何かしらの決意を感じさせた。


 「みんなの意見を聞かせてくれ。今生き残っている人たちの中で、いなくなってもいいと思える人間を挙げるとしたら——それは誰だと思う?」


 答えは決まっているよね? と言わんばかりの口調に、しかし銀次は異論を唱えるつもりは毛頭なかった。


 綾子だけが顔を真っ青にして、口元を押さえガタガタ震えている。


 皆の顔つきを確認した兼は、満足げに頷いた。


 「みんな、気持ちは一つみたいだね」

 「まっ、待ってください!」


 綾子は兼の腕を掴んで、いやいやをするように首を振る。


 「王仁くんは殺されてもいいような酷い人じゃありません! それにあんまりじゃないですか。一人を大勢が寄ってたかって殺すなんて……そっちの方がよっぽど酷いですよ」

 「でも、あいつを野放しにしておくわけにはいかない。そうしなきゃ俺たちが殺される」


 兼は「綾子さん。あなたは何も悪くないから大丈夫だ」と彼女の目を真っ直ぐに見て言う。


 「王仁を見殺しにすることに罪悪感を覚えなくていい。これは俺たちが決めたことなんだから……あなたが責任を感じることはないよ」

 「でも……」

 「それにあいつはほのかを殺した。人殺しに情けなんてかけなくていい」


 その言葉に銀次は居心地の悪さを感じたが、兼は綾子だけを見つめていて、銀次の方に注意など払っていなかった。


 「どんな願いごとか知らないけど、自分の欲のために他人を犯して痛ぶって殺して——一応は恋人であるあなたにも暴言と罵声の数々。自分以外の他人をゴミのように扱える奴だ。そんな奴に人並みの情けをかけてやる必要がどこにある?」


 兼以外の面々も、王仁が死ぬことに納得の意を態度で目つきで言外に示している。この中で最も死ぬべき人間を選ぶとしたら王仁ほど相応しい者はいない。


 「あなたは長期間の洗脳のせいで、頭が変になっているんだ。普通に考えればあんな暴力男、関わらない方がいいとわかる。でも恐怖に支配されてしまった人間は、判断力を失ってしまうんだ。それと自我も……」


 そうして酷いことをする相手の言いなりになってしまう。付き合ってすぐの頃は笑顔だったのに、いつしか怯えた顔で相手の機嫌を窺うばかりになってしまう。


 酷い恋人と別れるに別れられない心境の人間は、たくさんいる。


 銀次も兼も、そのタイプの人間であろう綾子を気の毒に思っていた。


 「今日からあなたは自由だ。王仁のことなんかさっさと忘れて幸せになるべきだ。あなたは幸せになっていいんだよ」


 兼はしばし視線を彷徨わせて逡巡していたが、やがて綾子の目を見て言い切った。


 「不安ならこれからは俺があなたを守っていきます」

 「え——」

 「あ……変な意味じゃなくて。このゲームが終わるまで、俺が責任持って綾子さんを保護するから安心して、ってこと」


 兼が照れて赤く染まった頬をかきながら、弁解する。


 「とにかく綾子さんが心配するようなことは何もないから安心し——」


 兼の言葉は、突如車両内に響いた轟音により遮られた。


 「よお、盗られたもん返してもらいに来たぞ」


 王仁が車両に入ってきて、場内は一気に混乱に包まれる。


 足のない綾子以外の全員が立ち上がり、いつでも逃げ出せるように構える。


 王仁は説明するまでもなく怒っていて、こめかみのあたりに浮きまくった血管が今にもブチ切れそうだった。


 王仁は真っ先に綾子の元へ向かう。が。


 「あ? 邪魔だよお前。どけよ」

 「どかない。絶対にどかない! お前みたいな人間に彼女は絶対に渡さない!」

 「はあ? 殺すぞお前」


 そう言うやいなや、王仁の拳が兼の頬にめり込む。


 「なんだ? 次は綾子を彼女にでもするつもりか? そういえば三日目も変なこと口走ってたもんなあ。けどお前みたいなヒョロっちい奴が俺に勝てるとでも? この前みたいに大人しく床と仲良くしてろよ」

 「俺一人じゃない……」

 「は? あー……そういうこと?」


 車両内の全員の顔を見渡した王仁は、クックッと不気味に笑う。


 「お前ら全員で俺を殺す気か。いいぞ、ようやく本性を表しやがったんだな」


 指示の内容を説明している時はまだ気絶していたのか、王仁はいよいよそれぞれの願いをかけた殺し合いが始まったのだと早合点する。


 「いいぜ。誰が最後の一組になるのか……今ここで決めちまおう」


 王仁は臨戦態勢を取って、いつでもこいと言わんばかりに指をくいくいっと動かす。


 「女性陣は隣の車両に行ってて」


 兼が言う。銀次もそれに賛成だった。裕也も不安そうな面持ちながらも、格闘に参加することを承諾してくれた。


 「さすがに三人がかりなら勝てるよ。落ち着いていこう」


 兼が銀次の元に来て耳打ちする。


 一人なら絶望的だけれど、味方が二人いることが銀次に希望を抱かせていた。


 大丈夫……と思うしかない。


 「やめて、銀次くん。危ないことしないでよ。こっちに来なよ」


 海が泣きながら、銀次の袖を握って食い止める。


 「銀次くんが死んだら私も死ぬ。だって生きてる意味ないもん……」

 「先輩……。俺は死にません。先輩に生きていてほしいですし。だから何も心配いりません」


 銀次は海の手を握って、死にそうになったら絶対に逃げること、絶対に無理はしないことを約束して、何とか彼女を宥めすかして隣の車両に行かせた。


 「銀くん、絶対に死なないでね」

 「わかってる」


 都にもそう約束して、銀次は彼女を見送った。


 裕也の方を見ると、彼もキアラと視線を交わし合って何か話していた。先ほどの都と銀次と似たような短い会話をした後、キアラはそれでも後ろ髪を引かれるようにチラチラ裕也を振り返りながら、隣の車両に移っていった。


 こうして、男性陣と自力では動けない綾子のみが車両に残った。


 綾子は今にも死にそうなほど不安げな顔をして、暴れる心臓を押さえている。


 この気の弱そうな女性の前で凄絶な殺し合いをしてしまうことに、銀次は申し訳ない気持ちになった。


 戦いは、突然始まった。


 空気が大きく揺れたと思ったら、爆発のような打撃音が耳の横で響いた。


 兼の鳩尾に入った岩のような拳が、彼の体を二メートル後ろに乱暴に運んだ。


 銀次の横をすり抜けて、王仁は腹を押さえて唾液混じりの咳を吐き出す兼にツカツカと歩み寄る。静かな殺気が立ち上っているのを間近に感じて、銀次の膝が笑いだす。


 逃げるべきだと全身が告げていた。自分は勝てない勝負に挑んでしまったのだと。


 でも逃げるってどうやって? どこまで?


 「ガッ、ハッ、うっ……!」


 兼の命の削られる音に、銀次はハッと我に返る。


 そうだ。俺たちは囚われの身。逃げ場なんてない。


 ここで決めるしかないのだ。ここで王仁を殺す以外にこいつの殺意から逃れられる方法はない。


 銀次は、背筋が暴力的なまでに盛り上がった目の前の背中に、全体重をかけてしがみついた。


 すかさず振り落とされそうになるが、必死に耐えて丸太のような首に腕を回すことに成功した。


 よし! 銀次が心の中で喝采をあげて、腕に目一杯力を込めた時。


 「おいおいコアラの真似事か!? 可愛いもんだなあ!!」


 嘲るような笑い声と共に、銀次の背中は自動ドアに叩きつけられた。


 全身の骨が悲鳴を上げているような感覚に銀次は幼い頃、寝ている間に二段ベッドの上から落ちたことを思い出す。


 王仁は、銀次を背負った状態でドアに背中をぶつけたのだ。体を捻り全身をバネのようにして、水の中に飛び込むみたいにドアにダイブした。


 銀次はしがみつく力を失い、ヘナヘナと床に倒れ込んだ。


 王仁は銀次の胸ぐらを掴むと片手で彼を持ち上げて、自分の胸よりも高く振り上げて——布団叩きのように床に叩きつけた。


 かろうじて持ち上がっている瞼から見えるこの世界が、何重にも姿を変える。波打つ床と曲線を描く手すりを見つめて、銀次はこの状態から助かる確率というものを考えた。


 文字通り目の前が真っ暗になりかけた時、光がさした。


 「王仁くん!」


 裕也の手にあるハサミが王仁の横腹に食い込んだ。


 じわじわと広がっていくシミと血の匂いに、銀次は思い出した。


 そういえば持っていたんだな……。


 武器とも呼べない頼りない物だが、唯一殺傷能力のある物だ。それを見事に王仁に突き立ててみせた——。


 「チッ! クソが!」


 裕也の腹を蹴って、引き剥がす王仁。しかし、食い込んだ刃は裕也の手を離れても、変わらず腹に刺さっていた。


 「ッ……! こざかしいやつが……!」


 王仁は深く突き刺さったハサミを自分の手で勢いよく抜き取る。真っ赤に染まった刃先がずるんっと現れる。


 「うっ……ごめん、仕留められなかった……!」


 どこかにぶつけたのか、裕也が頭から血を流しながら立ち上がる。


 その目が戦意喪失していないのを見て、銀次に希望が芽生える。


 「いや、ありがとう。あれで弱ってくれるといいんだけど……」


 暴れ回って傷口から血が流れ続けていれば、そのうち出血多量でおぼつかなくなってくれるだろうか。


 とりあえず逃げに徹して様子見。その中でチャンスがあったら狙うというスタンスでいこう。


 二人は無言のうちにそう通じ合った。


 しかし、二人とは異なる考えを抱いた者がゆらりと立ち上がる。


 兼は、腹の底から湧き上がってくる憎悪と殺意を、王仁一人に注いでいる。真っ赤になった顔が赤鬼のように見えた。


 王仁を注意深く見ていた銀次と裕也も、ひりつく空気に思わず兼の方を見て、鳥肌が立った。


 もし視線が人を殺せるとしたら、王仁は今ごろ死んでいただろう。


 「まだ立ち上がれんのか」


 戸惑いと呆れと、若干の恐怖がこもった声で王仁が言う。


 「お前からいくか」


 王仁がなかなか死なないゴキブリを相手にするかのように、億劫そうに首を鳴らす。


 ふと綾子に目をやると、彼女は目を瞑って祈るように顔の前で手を組み合わせていた。固く閉じられた目の端からは、涙が途切れることなく流れ続けている。


 王仁が歩くと、その後に赤い雫が落ちていった。それが一滴床に落ちるたびに、王仁の生命力が削られていっているような気がして、銀次は安心感を抱いている自分を恐ろしく感じた。


 自分が他人の死をこんなに望める人間だなんて、知りたくなかった。


 王仁が仕掛けるよりも早く、兼はタックルを繰り出した。しがみつく兼の背中に、王仁が高い位置から肘鉄を叩き込む。


 王仁の攻撃は、暴力を振るい慣れている人間のそれだった。暴力にまったく縁のない者のただ単に腕力、脚力を振り回すだけの攻撃ではない。力は他人に振るうものと知り尽くした人間が繰り出せる一撃だった。


 ここに来るまで人を殴ったことなどない銀次たちが真正面から挑んでも、潰されるだけだと火を見るよりも明らかだった。


 「!? おまっ……!」


 王仁が初めて焦った様子を見せる。


 兼は、王仁の腹に——よりにもよって血がダラダラと流れ出している患部に、思いっきりかじりついたのだ。


 「クソッ! 離れろ! 離せっつってんだろ!」


 王仁は立て続けに兼の頭に拳骨を叩き込むが、兼は一層強く歯を食い込ませる。


 「!! うああっ!!」


 王仁の悲痛な叫びと共に、赤黒い血がボタボタと床に落ちていく。


 引き剥がされた兼の口端にある物を見て、銀次は背筋が凍る。


 兼は食いちぎった王仁の肉片を咥えていた。

 人喰い鬼にしか見えない兼の姿に、銀次は思わず後ずさる。


 兼は肉片をぺっと吐き出すと、顔を真っ青にして変な汗を流す王仁に突進していく。


 「ッ! クソが……!」


 しかし王仁も警戒態勢を整えていたので、兼に飛びかかられるよりも前に兼の顔面に鉄拳をお見舞いした。


 何かが折れるような音と共に兼の体が床に落ちる。


 もう立ち上がる気力はなかった。半醒半睡の兼の上に馬乗りになり、王仁は殴り続ける。無表情で淡々と。拳を赤く染め上げながら。


 凄惨な光景を前に、銀次と裕也はメドゥーサに睨まれたようになって、瞬き一つできなかった。


 「ふぅー……」


 ハッと我に返ったのは、王仁が一仕事終えたようにため息を吐き出し、血でびっしょりになった拳をパッパッと振るった。


 丸太のような首がぐるりと動き、感情の抜け落ちた真っ黒な瞳が自分たちの方を向く。


 次は俺たちの番だ。


 裕也は咄嗟に逃げようと背中を見せてしまった。それが良くなかった。


 「ああっ……!!」


 背骨を粉砕するような蹴りが、裕也の体に繰り出される。


 床に転がった裕也の腹に、すかさず足をめり込ませる王仁。


 「おええっ……! ハー……ハー……!」


 靴に胃液をぶっかけられたにも関わらず、王仁は眉をしかめもしなかった。何も感じずただ人を殺すためのロボットと化したように表情筋を動かさない。その姿は、怒り狂っている様子よりもよほど不気味で、生命の危機を感じた。


 口回りを吐瀉物で汚し腹を押さえてうずくまる裕也に、王仁は容赦しなかった。裕也の首を締め上げると、口から溢れた泡やら胃液やらが王仁の手を汚した。


 裕也の顔が青紫色になっていく。王仁の表情は微塵も変わらなかった。口を真一文字に結んで、雑巾でも絞っているかのように躊躇いを見せない。


 裕也の顔色が青紫から白色に変わっていった時——。


 「もうやめて! 王仁くん!」


 綾子の泣き叫ぶような声が、別世界に入っていた王仁を引き戻した。


 「黙れよ綾子——」

 「いやだ! 黙らない!」


 綾子は両手を伸ばして、床に滑り落ちる。そうして上半身だけを使って床を這い、懸命に王仁の元へ向かう。


 「来るなバカ! 目障りなんだよ! 余計なことすんなって言っただろうが! 俺の邪魔すんな!」

 「もういいから!」


 綾子が大粒の涙をボロボロ流しながら叫ぶ。


 「もう"私の願い"を叶えようとしなくていいから!」


 えっ。銀次は思わず戸惑いの声をもらす。


 「だから、もうこれ以上ボロボロにならないで! 私は——私には王仁くんがいてくれればそれでいいから……その他には何もいらないから……」


 辿り着いた綾子が、王仁の背中に泣き濡れた顔を押し当てる。


 王仁は気を失った裕也の首から手を離した。

 その瞳に、先ほどはなかった光が灯ったように見えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ