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カップル限定デスゲーム  作者: 絶対完結させるマン


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19/38

四つ目の指示

 『おはようございま〜す! ゲーム四日目の始まりです。今日の指示を伝えますよっと』


 四日目の朝6時。起き抜けに主催者の声を聞き、銀次は人生史上最悪な目覚めだと思った。


 昨夜から、海の近くには銀次と都以外には誰もいなくなった。人を殺そうとした海を、皆は明らかに警戒していた。


 別の車両にいる者たちも、自分と同じような酷い顔をしているだろうな、と銀次は考える。


 『では、今回の指示の対象者を発表します。真島誠士郎さんと百合野心さん』


 自分たちの名前が呼ばれなかったことに安堵したのも束の間、


 『あと、金森銀次さんと胡桃沢都さん。最後の車両に来てください』


 銀次は、真っ暗な穴の中に落とされたような気分になる。


 「ぎ、銀くん——」


 都に袖を引っ張られ、銀次はハッとする。


 「ごめん。——行こうか」


 行くしかない。

 自分がしっかりしないといけないのだ。都が危険な目に遭わないように、彼女を守らなくては。


 最後の車両に通じる道は、本棚で塞がれていた。


 「銀次くん、都ちゃん」

 「真島さん……」


 誠士郎の目の下には、どす黒い隈ができていた。

 彼は、腕に心を抱いていた。


 銀次は、百合野さん大丈夫なんですか、と訊きそうになって口を閉じた。


 真島さんは、俺のことをよく思っていなさそうだ。より正確に言うなら、俺ではなくて俺の彼女である先輩を。無理もない。


 「動くとしんどそうだから、あまり激しく動かない内容だといいな……」


 指示の内容を危惧する誠士郎。聳え立つ本棚を前に四人が集った時、驚くべきことが起きた。


 本棚が突如消えた。ポンッという音でも聞こえてきそうな魔法的な光景だった。


 今さら大袈裟なリアクションを取ったりはしないが、それでも奇跡を目の当たりにするとビクッとしてしまう。


 『どうぞお入りくださ〜い』


 憎々しい声に促されて、四人は最終車両に足を踏み入れる。


 というか、わざわざ足を運ばせずとも前回みたいにワープさせればよかったんじゃないか。


 銀次の思考を読んだように、主催者が言った。


 『ここに来るまでのおも〜い足取り、楽しく見させていただきました。死地に向かうような顔で何を考えているのか想像していたら、非常に楽しい気分になりまして……ワープではこの趣きは出せませんでしたね』


 虫が苦しむ様を楽しむような心持ちで、ワープを使わなかったらしい。


 やはり主催者は、おのれの性癖を満足させるためだけにこのゲームを始めたのだ。


 この異常者が。


 「それで今度は俺たちに何をさせるつもりだ」

 『今回は喧嘩を見てみたいんです』

 「は?」

 『武器はなし。おのれの体のみを使ったガチの殴り合いですよ。私はそれを見たいんです』


 なんかこう……普通だな。

 昨日のイカれっぷりに比べれば、幾分かマシに思える。


 しかし、銀次の安堵は瞬く間に絶望へと変わる。


 『当然ただ喧嘩してもらって終わり、という簡単な話ではありませんよ? あなたたち四人のうち誰か一人が死ぬまで、クリアとなりませんからね』

 「死ぬ……!?」


 血相を変える都。


 『ええ。今からこの車両はあなたたちのうち誰か一人"だけ"が死なないと出られない場所になりました。格闘の結果が出るまで、閉じ込められることになります。指示を拒絶したり正しく遂行できなかった場合、ペナルティが下されますからね〜』


 昨日と同じように、指示をクリアしない限り解放されないらしい。


 殴り合いというよりも殺し合いだ。


 「銀くん!」


 都の慌てた声に、銀次はハッとする。

 振り返ると、誠士郎の拳が目の前に迫ってくるのが見えた。


 「うわっ!?」


 すんでのところでかわし、都の手を引いて後ずさる。


 「真島さん……」

 「ごめんね、銀次くん」


 誠士郎は辛そうな表情をしつつも、拳を構え直す。


 「待ってください! 棄権! 棄権しましょう! こんな指示クリアするくらいなら、ペナルティ受けた方がマシだ!」

 「ああ……確かに君の言う通りだ。今までと違って今回の指示は、絶対に死人が出るようになってる。ペナルティの内容はわからないけど、そっちに望みを託した方がいいかもね」

 「ですよね!? だから——」

 「でもここで君を殺せれば一組潰せる」


 誠士郎は、せっかくのチャンスをふいにしてはいけないと思った。


 「俺は絶対にこのゲームに勝ちたい。生き残った最後の一組にならなきゃいけないんだ」


 誠士郎は、唸るような声で言った。


 「そんなに叶えたいんですか。真島さんの願いは、人の命よりも尊いものなんですか」

 「……ああ。俺にとっては」


 考え直すように頼むことは、もはや無駄なようだ。


 「真島さんは俺を殺せれば満足なんですね?」

 「ああ。都ちゃんは守くんを失っている。殺す理由はない。俺が殺さなきゃいけないのは、残りのカップルだけだ」


 あと五人——誠士郎はそう呟いた。


 「わかりました。一騎打ちに乗ってあげます。その前に質問したいことがあるんですけどいいですか」


 そうするしかないと銀次は覚悟を決めた。ひょっとしたら死ぬかもしれない——その前にかすかな疑問を解消しておきたかった。


 「いいよ。なにかな」

 「その刺青は何なんですか」

 「ああこれ? やっぱり気になるよね」


 誠士郎は着ていたシャツを脱ぎ捨てると、威圧感マシマシの上半身を曝け出した。


 「これは20歳の誕生日に親に入れられたやつでさ。俺の家、ヤクザなんだよね」


 やっぱりそうだったのか。本人に直接そう言われたことで、銀次は自分の死のイメージが明瞭になっていく。


 いや、ダメだ。勝つつもりでやらなくちゃ負ける。


 「都。下がってて」


 都は渋々頷くと、銀次に後ろからギュッと抱きついた。


 「死なないでね」


 都に鼓舞されたことで、銀次はいくらか気力を取り戻した。


 死なない。死にたくない。まだ生きていたい。


 誠士郎も、心を座席に横たえさせた。何度も「大丈夫だから」と言っていたが、それは自分に言い聞かせる意味もあったに違いない。


 車両のど真ん中で、二人は五メートルほどの距離を取って向き合った。


 そして、いよいよ互いの生死を決める闘いが始まった。


 最初に仕掛けたのは誠士郎だった。


 叫び声も出さずに、無表情で銀次の腹めがけて拳を撃ち入れようとする。銀次は咄嗟に横へ避けたが、あと一秒でも反応するのが遅ければ、確実に腹を抉られていたことだろう。


 銀次は誠士郎の後ろに回り、次の攻撃が来る前に誠士郎のすねを思いっきり蹴り上げた。


 誠士郎は痛みに顔を歪めたが、攻撃を受けたという認識に即座に体が動いた。片足で床を蹴って後ろに大きく飛び退ると、その流れの中でぐるりと体を回転させて、銀次を正面から見据える。


 銀次の顎から嫌な汗が滴る。その一滴が床に落ちた瞬間、誠士郎の全身が銀次に食い込んできた。


 自分よりも大きな体に体当たりされた銀次は、あっけなく床に背骨を打ちつける。


 これはまずい。そう思った時には、大抵もうどうにもならない状況に置かれているものだ。この時の銀次もそうだった。


 誠士郎の五本の指が喉に食い込む。銀次は手を持ち上げて剥がそうとするも、その手は儚く宙を舞うだけだった。


 クソ。諦めるしかないのか。ここで俺は終わってしまうのか。

 だんだん意識も遠くなってきた。酸素が足りない。目の前が眩い光で満たされていて、目が潰されそうだ。今にも瞼を閉じてしまいたい——。


 「うっ……」


 混濁していく意識の中で雨が降ってきたなと思ったら、それは誠士郎の涙だった。


 何滴もの涙が銀次の眉や頬、鼻や唇に落ちて、その温かさが銀次に伝わってきた。


 首にかかる力は、どんどん緩んできていた。

 銀次は咳き込みながら、息を整えていく。


 「そこまで苦しい思いをして叶えたい願いってなんですか」


 誠士郎は答えなかったので、銀次は続けて尋ねた。


 「百合野さん関連のことですか」

 「……そうだよ」


 誠士郎は、首にかけていた手を離す。


 「心さんの幸せのためだ」

 「どういうことですか……誠士郎さん」


 心が半身を起こして、誠士郎に呼びかける。


 「願い事は白雲組からの解放だって——それで海外で平和に私と過ごすことを願うのだと、言っていたじゃありませんか」

 「ごめん。それは嘘なんだ。それは奇跡に頼らずとも、自分の力で何とか叶えるつもりだった」


 元々そうする予定だったしね、と誠士郎。


 「俺の願いは、奇跡や超能力に頼らないと叶わないものだった」

 「だからそれは何なんですか」

 「心さんのこれまでの人生の記憶を消してもらいたい——それが俺が主催者に託す願いです」


 この場にいる誠士郎以外の全員が息を呑む。


 「記憶を消すってそんな酷いこと……そもそもそんなことしたら、恋人との記憶もなくなるってことじゃん。それでいいの?」


 都が信じられないという口調で言う。


 「どうしてそんなことを?」


 尋ねたのは心だった。


 「どうしてそんなこと願ったんですか」

 「心さんが人間らしさを取り戻していくたびに、俺は喜ばしく思うと同時に不安になっていった」


 心さんは、これまで封印していた人間性を取り戻そうとしている最中だ。


 今まで向き合わないように目を逸らし続けていた過去や内心に、否が応でも向き合う時が近いうちにくる。


 心の悲惨な過去を、彼は記憶が朧げな本人以上によく知っていた。

 だから今後の心が心配だった。


 心は、昔のことはよく覚えていないと前に言っていた。子ども時代の記憶は曖昧で朧げにしか思い出せないと。


 「心さんの記憶が曖昧なのは、防衛本能が働いているからだ。自分のことを何も感じない人形だと思い込もうとしたのと同様に、自分の精神を守るために編み出された技なんだ。その技が使えなくなった時、心さんの精神はどうなってしまう?」


 誠士郎は、そのことがずっと気がかりだった。


 「心さんは、今でも辛い過去に囚われている。たまに真夜中にうなされている時があるだろう。目が覚めたらあなたは『どんな夢を見ていたのか、まったく思い出せません』と言うが、俺は寝言を聞いて、大体悪夢の内容を察してしまっているんだ」


 ——お父さん、やめて。もう許して。


 心は、度々寝言でそう言っていたのだった。


 「俺は、心さんにはいつも笑っていてほしいんだ。辛いことなんて彼女の中から消えてほしいと思っている。だから俺は神に願うんだ。心さんを蝕んでいる辛い記憶を消してほしいと。そのためなら、なんだってしてやる。他人の命と引き換えに心さんの笑顔が手に入るなら、俺は何人でも殺してやる」


 誠士郎の纏う雰囲気が変わった。


 「銀くん!」

 「くっ……! ガハッ……!」


 また首に圧がかかり、息ができなくなる。


 銀次は命のカウントダウンが刻まれていくのを感じながら、この体勢から逆転できる方法を考えていた。


 「さい、ごに……ひとつ、先輩に、伝えて、ください……」


 そう言うと、誠士郎は「なんだ?」と一旦首から手を離してくれた。


 「……が、……を」

 「なんだ? 聞こえない」


 誠士郎が声を聞き取るためにずいっと顔を近づけた瞬間、銀次は今だ! と仕掛けた。


 「あああああ!?」


 誠士郎が目を押さえて断末魔の叫びを上げる。


 かかっていた力がなくなり、銀次はこのチャンスを逃さず、状況を飲み込めずに困惑している誠士郎を押し倒した。


 ものの数秒で立場が逆になる。銀次は赤く染まった指を誠士郎の首に回し、思い切り締め上げた。


 誠士郎は銀次の手に爪を立てて引き剥がさんと試みるが、銀次は決して力を緩めなかった。手が血だらけになっていくのも構わず、首を締め続ける。


 誠士郎の視界は真っ暗で何も見えなかった。


 最後に心の顔が見たいと思った。死ぬ前に見るとしたら、絶対に心さんがいいと常々思っていた。


 お願いだ……死ぬ、前に……心さんを、ここに……。


 そう口に出したつもりだったが、実際は誠士郎の願いは声には出ておらず、ただ唇をわずかに動かしただけだった。


 誠士郎は息を引き取った。


 彼の心臓が止まったのを確かめて、銀次は誠士郎の体から離れる。


 「死んだのですか」


 心が立ち上がり、誠士郎の遺体に向かって歩いてくる。


 心の表情は誠士郎が死んだところで変わらない。いつも通り能面のような無表情で誠士郎の生死を問う。


 銀次は口を開くのも苦しく、質問に答えず目を伏せた。


 「……死んでる」


 誠士郎の傍に膝をついた心は、冷たくなっていく頬に手を添えて、そう呟いた。


 「悲しい? 彼が死んで」


 そう尋ねたのは都だった。

 心は「悲しくはありません」と答えた。


 「私は普通ではないので。誠士郎さんがいなくなったところで何も感じません」


 抑揚のない口調。


 この人が真島さんと付き合っていたのは、彼に熱心に言い寄られたからという、ただそれだけの理由だったんだろうな……。


 銀次はそう思った。

 都から心の話は聞いていた。こんな状況でも怒りや悲しみをおくびも出さないのだ。生まれつき情緒の薄い人間だったと彼女が語っていたのは、真実だったらしい。


 自分が殺しておいてこんなことを感じるのはどうかと思うけど……彼女を真剣に愛していた真島さんがあまりに気の毒だな。


 せめて涙の一つでも流してくれれば、彼も救われただろうに。


 心はまだ立ち上がらない。固く閉ざされた誠士郎の瞼のあたりをじっと見て、微動だにしなかった。


 銀次は無言で都の手を握って「行こう」と促し、心たちに背を向けて隣の車両に出ようとする。


 その時、背中に重い衝撃が襲ってきた。


 「はっ!?」


 銀次は前のめりに倒れる。背中には人間一人の重みがかかっている。


 「百合野さん……!?」


 首だけを動かして振り返った時、銀次は意外な光景に目を見張った。


 荒い息遣い。食いしばった歯。吊り上がった眉。そして何より、今までずっと真っ黒に塗りつぶされていた目に宿った熱い炎。


 心の圧倒的な激情に、銀次と都は全身に鳥肌が立つ。


 心は初めて感じる強い感情に、体を支配されていた。


 体の中の臓器が今動き出したかのように鼓動がうるさい。血液がマグマになったかと思うほど全身熱くて、体が破裂してしまいそう。


 頭の中は、誠士郎さんでいっぱいだった。どうしてこんなことに? 確かさっき死に顔を見た瞬間、ああ死んでしまったんだな、もう私の名前を呼ぶことも私に笑いかけることも私を抱きしめることもできなくなったんだなと——そう思った途端、色んな誠士郎さんの顔が頭の中を駆け巡ったんだ。


 この電車に来る前のことが。


 初めて私の顔を見た時のボーッとした表情の誠士郎さん。

 「あなたは人形じゃない。人間なんだ」と言ってくれた時の真剣な表情の誠士郎さん。

 もう限界だと吐露した時の弱弱しい誠士郎さん。


 そして、あの会話がやけに鮮明に脳内で再生されたのだ。


 ——でも心さんと離れるなんて考えられない。

 ——……それは憐れみからですか?

 ——違う。あなたを愛してるからだ。


 愛してる——その言葉が誠士郎の声で彼女の中に響いた時、心はバチッとスイッチが入る音を聞いた。


 気づいた時には、遠ざかる銀次の背中に突進していた。


 「許さない……! 絶対に許さない!」


 無我夢中になった心に、自分の声は聞こえていなかった。


 表に現れた強い怒りと憎しみの先に、根底にある大切な存在を奪われた悲しみが感じ取れて、銀次は初めてこの人を人間らしいと思った。


 一体その細腕のどこからそんな力が湧いてくるのか、銀次は心の手を振り解こうとしたが、首に強く食い込んだ殺意は決して剥がれることも、力が弱まることもなかった。


 「死ね……! 死ね! 死ね死ね死ね死ね……!」


 般若のような形相で、グググッ! と体を傾けて全体重をかけてくる。あまりの圧迫感に銀次の視界が真っ白になった時。


 「あっ……!? いやああああ!!」


 心の断末魔に、銀次はある予感を抱く。

 咳き込みながら心の下から抜け出すと、事態は予期していた通りだった。


 目を押さえて絶叫する心の背後に都が立っている。指先を赤く染めて。


 都は慌てて銀次の元に駆け寄る。銀次は足音を立てないように心から距離を取った。


 心は両目から鮮血を流して、両手を誰もいない方向へ伸ばす。おぼつかない足取りで殺意の対象を探し当てようとするが、明後日の方向へ行くばかりだった。


 「どこ……どこにいるの! どこに——あっ!」


 顔面から倒れ込む心。

 誠士郎の遺体に躓いたのだ。ちょうど彼のもう拍動しない心臓のあたりに心の頭がダイブする。


 「あ……誠士郎、さん……」


 慣れ親しんだ感覚に、心の胸に熱いものがこみ上げる。


 「誠士郎さん……誠士郎さんっ! 何も見えないです。私何も……暗いです。暗いのは怖いです。昔から暗くて狭いところは大嫌い……助けてください、誠士郎さん。抱きしめてください私を……私を離さないでください。置いていかないでください!」


 彼の胸に縋りついて、子どものように泣く心。


 「私を守るって言ったじゃないですか! 一緒に逃げようって……私と結婚するんじゃなかったんですか!?」


 心は見えない目で誠士郎を睨む。


 「私を愛してるって言ったじゃないですか! これから何度でも言ってくれるんじゃなかったんですか!? また愛してるって言ってくださいよ! あなたがいないと私はもう生きている意味が——」


 そう叫んだ時、心の中で何かが腑に落ちた。


 「そっか。これが——あなたと同じ気持ちか。ずっとここにあったんだ」


 心は胸を押さえて微笑む。


 彼が私を見る時だけ眼差しの温度が異なる意味。彼が私を愛してると言った時の心境。彼が人殺しの大罪を犯してまで私を守ろうとした理由。


 その全ての答えが一つの大きな感情によるものだと、心は頭ではなく文字通り(こころ)で理解した。


 「これが愛してるってことなんだ」


 丁寧な口調が崩れ、仮面が剥がれて心の人格があらわになる。


 これがあなたの言っていたことなんだ。こういうことなんだね、誠士郎さん。


 懐から折りたたみナイフを取り出す。護衛用に常に持ち歩くようにと父から言われていた物だった。


 刃先を首に当てると、遠くの方から息を呑む気配が感じとれた。


 「誠士郎さん」


 心は彼の頬に手を添えて語り出す。


 「私はあなたに愛してると言われた時、どういう気持ちでそんなことを言ったのかわからなくて、少し怖いと感じたんです。ですが、今なら私にもわかる」


 そう言うと心は、彼の唇に優しく触れるだけの口付けをして、最後の言葉を吐いた。


 「私もあなたを愛しています」


 そう微笑むと、心は刃物で首元を掻き切った。


 首から吹き出した血が、心と誠士郎の体の上に落ちていく。


 心は誠士郎の胸板に倒れ込む。心はなぜかまったく痛みを感じずに、安心して誠士郎の胸に身を預けながら、こんなことを思っていた。


 最後に愛がわかって良かった。

 私とあなたが同じ気持ちだとわかって本当に良かった。


 自由も希望もなく辛いことばかりの人生。光なんてささないと思っていたのに、あなたと出会えて何もかも変わった。


 本当に幸せな人生だった。


 ただ一つ残念なことがあるとすれば——私が愛していると言った時のあなたの表情が見れなかったこと。それだけが本当に心残り——。


 そう思った時、急に目の前が明るくなった。


 周りは真っ白な空間で、心はここはどこだろうとあたりを見回すが何もない。さっきまで真っ暗だったのに、いつのまにか目も元通りで、知らない空間に立ち尽くしていた。


 「心さん」


 耳に馴染んだその声に、心の全身が歓喜する。


 振り向くと、誠士郎が微笑を浮かべて手を差し伸べていた。心も笑って手を伸ばす。


 もう誰も二人を不幸にできないところまで来たのだと直感していた。


 誠士郎の背後から、日の光がさしているように見えて、心はこれからは明るいことだけが待っているのだと安堵し、最高の笑顔になった。


 それは最も美しく、最も人間らしい笑顔だった。

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