ここに来る前
「みなさん、ここに来る直前のことって思い出せますか?」
トイレから戻ってきた裕也が、そんな問いを投下した。
「気がついたらここにいた、って認識で共通してるみたいですけど……ここに来る前はどこにいたのかくらいはわからないんですか?」
ちなみに俺は学校に向かっている途中でした、と裕也は言う。
俺もそうだよ、と銀次も答える。
「いつも通り電車に揺られて学校に向かっていたんだけど……いつの間にかこの場所に立ってたんだよね。何言ってるのかわからないと思うけど……」
「いや、アタシもそうだからわかるよ」
キアラが毛先を指に巻き付けながら、同調する。
「アタシも電車通学なんだけど、ドアの前で立ってて『あー今日も学校ダルいなー』とか思ってたのね。そんでネイルの決まり具合をチェックすんのに夢中になってたら、急に体がフッと浮くような感じがして、そしたらここに。マジ意味わかんないよ」
心霊体験でもしたように、キアラは少し怖がっているような口調になる。
海も同じように通学中だった。銀次の最寄り駅に電車が到着したので、いつものように会いに行こうと思ったら、この異空間に飛ばされていたのである。
「てか、だからみんな制服着てんだね。都ちゃんも学校のリュック背負ってるし。学生組はともかくとして、田中さんたちはここに来る前何してたの?」
「なにって——普通に通勤途中だったよ。会社に向かってる時、体から魂が抜けるような感覚に襲われて……ほのかもそんな感じがしたって言ってたよね」
「…………」
佐々木さんは答えない。田中さんの顔を見ないように彼とは真逆の方向を向いて、明らかに彼を拒絶していた。
田中さんは膝の上の拳を握りしめると、やるせなさそうな表情になった。
***
一方その頃、誠士郎は心の看病をしていた。
「酷いな……」
心の腹を見て、誠士郎ははらわたが煮え繰り返りそうだった。
胸、腕、足など、心は全身を切り付けられていたが、特に腹部は酷かった。下腹のところに大きくばつ印が刻まれており、あのまま放置していたら出血多量で死んでいたかもしれないと思った。
海の憎しみの足跡に誠士郎は恐怖を抱くと同時に、激しい憎しみをかき立てられた。
絶対に海を許しておけないと思った。
「守るって誓ったのに……ごめん」
「誠士郎さんが謝ることではないと思いますが」
「でも謝りたい。俺は、心さんをもう誰にも傷つけさせたくない。そのために親父を殺しに行こうと思ったのに……まさかこんなわけのわからないことに巻き込まれるなんて」
誠士郎は心を連れて、遠方にいる父親に会いに行くところだった。
組長である誠士郎の父は、普段は本拠点がある東京都内に住んでいる。誠士郎は父の別宅である神奈川に住んでいた。父と一緒に暮らしたいとは思えないからであった。
誠士郎は父のいる本宅を訪ねて、睡眠薬を飲ませて殺害しようとした。誠士郎が睡眠薬を持っていたのはそのためだった。
「俺についてきたせいで、心さんもこんな変なことに巻き込んでしまった……やっぱり家で待っているように言っていれば……」
「ついていきたいと行ったのは私なんです。何度も言いますが、誠士郎さんが謝ることではありません。——それに」
座席に横たわった心は、傍に跪いている誠士郎の手を取った。
「誠士郎さんが一人でこんな状況に放り込まれていたとしたら——一週間、あなたが無事に帰ってくるのを待っているしかないという状況になったら——私は今こうしている方がよっぽどマシなような気がするんです」
「心さん……」
誠士郎は狂わんばかりに胸が感動で満たされ、矢も盾もたまらず心を抱きしめた。
心は痛みを感じているはずなのに、離れてほしいとは言わなかったし、思いもしなかった。
「本当に出会った時とは別人のようになった……」
「それよく言ってくれますが、私そんなに変わりましたか? 自分ではわからないんですが」
「変わったよ。前よりもずっと良い顔をするようになった。……今に心さんにもわかるようになるよ」
完全なる雪解けは近いと誠士郎は確信していた。
そう遠くないうちに、心は失っていた感情を取り戻すだろうと。
そんな未来を迎えるために、俺たちは必ず生き残らなければいけない。
「俺が心さんを守るから。ここから出たら、必ず海外逃亡を成功させよう」
誠士郎は、日本を離れて白雲組の手の届かない外国の地で、心と二人きりで暮らそうと目論んでいた。
組長である親父を殺して組に動乱を起こすことで、そのゴタゴタに隠れて海外逃亡しようと考えたのだ。
普通に逃げようとすれば、監視の目を欺くことは難しい。組員たちは、次期組長である誠士郎を決して逃さぬようにと、常に警戒態勢を敷いていた。
父親を殺してでも、誠士郎は心と逃げようとした。
そう決めた最も大きな理由は、心がヤクザの仕事を辞めた方がいいと誠士郎に言ったからだ。
心と入籍しようという一ヶ月前、誠士郎の父が体調を崩した。
近いうちに組長を継いでもらうかもしれないからと、これまでまったくと言っていいほど触れてこなかった極道の仕事に、誠士郎は急に関わるように命令された。子グループの運営を任され、シノギの得方について指南されたりもした。
やにわに忙しくなり、二人の結婚は先延ばしされることになった。
極道の仕事は、胸を抉られるような胸糞悪いものが多く、一般的な感覚の誠士郎の精神は削られていった。想像していた10倍精神的ダメージがきつかった。
日に日に憔悴していく誠士郎を見て、心は落ち着かなかった。彼がやつれていると胸のあたりがザワザワして夜も眠れなかった。彼がやつれているのは仕事をしているからだ。今の仕事をやめてくれれば、また眠れるようになる。
だから、極道をやめてくれるように言ってみた。
しかし「それはできない」と誠士郎は言った。
「あなたも父には逆らえないから?」
「いや……息子は組を継ぐのに相応しくないと判断したら、父はきっと受け入れてくれるよ。その場合、多額の手切れ金を渡されて勘当されるだろう」
「なら『無理だ』って言えばいい」
「でもそうしたら……」
誠士郎は、自分が組と関係のない人間になったら、心は実家に帰されると確信していた。
「あなたをあんな酷い親の元に帰すなんてできない。きっと酷い目に遭わされるってわかってるから」
「私は別に気にしません。私は辛いとも悲しいとも感じませんので」
心の嘘はわかりやすかった。
そう言いつつも、彼女の手は震えていたからだ。
誠士郎と出会って共に時間を過ごし、心は明らかに変わっていた。本人は決して認めようとしなかったが。
出会った時には到底お目にかかれない明瞭な反応を、人間くさい彼女の姿を、心底愛おしいと思った。
張り詰めていた糸がプツンと切れた。
「もう限界なんだ……」
「はい」
「本当はこんなこと、もうやめたいんだ」
「はい」
「でも心さんと離れるなんて考えられない」
「……それは憐れみからですか?」
「違う。あなたを愛してるからだ」
心は俯いて、考え込むような素振りを見せた。
「どうしたの」
「愛してるなんて初めて言われました。これまでの人生で誰にも言われたことないのでこう……そんな言葉を本当に言う人って存在するんですね」
「これから何度でも言うよ。俺は心さんを愛しているから。これまでもこれからも」
「これからのことなんてわからないですよ」
「わかるさ」
誠士郎は、心となら地獄にだって行けると思った。
あの日、彼女を一目見た瞬間、この人と出会うために生まれてきたのだと確信したのだ。
「私は誠士郎さんを愛していません。……愛がわからない欠落した人間に何を求めるんですか」
「心さんは何も返そうとしなくていい。心さんが俺を愛さなくても、俺の気持ちは変わらないから」
「……変な人ですね。どうせ私は変わりませんよ」
誠士郎は心と二人で生きていくため、海外逃亡の計画を立てた。
そうして二人で東京にいる誠士郎の父に会いに向かっていた途中、突如視界が大きく揺らぎ、意識が飛ぶのを感じ取った。
次に気がついた時には、この場所にいた。
どこにいようと、誠士郎のやることは変わらない。
好きな人を守るためなら、誠士郎はどんなことでもやってのけるつもりでいた。
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