心はどこに
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狂気のゲームが始まる、半年前のこと——。
料亭の座敷に通された誠士郎は、親父に紹介された女性の顔をしみじみと見ていた。
一目惚れだった。俺はこの人と一生連れ添って生きていくんだな、と直感が降りてきた。
親父の声も、相手方の付き添い人の声も入ってこなかった。誠士郎はただ心の人形のように涼しげで整った顔を見つめていた。
「百合野さんと二人きりで話したいんだけど……」
誠士郎が隣の親父に耳打ちすると、親父は機嫌良く承知してくれた。
「気に入っていただけて何よりです!」
心の付き添いで来ていた女は、恐縮そうに深々と頭を下げた。その口ぶりが、まるで家電量販店の店員が高額の商品を買ってくれた際に言うようなものだったので、誠士郎は少し気分が悪くなった。
庭園に降りて、心と隣合って雅な風景を眺める。
「私と結婚しますか?」
「はっ……!?」
心が急に核心に触れてきたので、誠士郎は素っ頓狂な声を出す。
「今朝、父に『絶対にあなたに気に入られてこい』と何度も念を押されました」
——あの白雲組の一人息子との縁談だ。絶対にまとめるぞ。
白雲組に比べたら数段規模が劣る組の組長である父は、有頂天になってそう言った。
白雲組は、都内で三本指に入るほどの巨大な暴力団だ。誠士郎はそこの組長の一人息子。いずれ組を継ぐことになるだろう。
少なくとも父はそのように計画している。
ヤクザになど誠士郎はなりたくなかったが、恐ろしい父親に逆らってまで逃げたい境遇でもなかった。
父が死ねば形ばかりの組長へと祭り上げられ、実際の仕事は組員たちに任せっきりになる。
このまま何も考えずに生きていくのだろうと、心に出会う前までそう思っていた。
「百合野さんは、俺のことどう思ってるんですか」
誠士郎は、中学生のように緊張して尋ねる。
「結婚したいと思っています」
「でもそれは、百合野さんの意思じゃないですよね? あなたはどう思っているのか聞かせてください」
「私の気持ちは、結婚するかどうかに関係ないと思いますが」
「大いにあります。俺は嫌がっている人を妻にしたくはない」
暴力団の家に生まれ育ったが、誠士郎は家業に関わったことは一度もなかった。
組長の一人息子として大事に育てられてきた。もちろん極道者の息子なので、学校で話しかけてくる同級生が一人もいなかったり、先生たちからも腫れ物に触るような応対をされたりと、日常を過ごす上で不便や疎外感を感じることはあったが、あとは普通と変わらぬ少年期を過ごし、誠士郎はごく一般的な感性を備えた男性に育った。
だから、親の言いなりになって結婚しようとしている心を見ていて、胸がザワザワしてきた。
「嫌ではないですよ」
「でも喜んでもいない」
「私、そういうの感じない人間なので……」
「どういうことですか?」
「嬉しいとか悲しいとか楽しいとか——そういうのを感じ取る能力が低いんです。……私には心というものがないんです」
誠士郎は心の横顔を見る。今日会った時からピクリとも動かぬ表情を。
しかしなぜだろうか——誠士郎には心が泣いているように見えた。
「私は、生まれつきこうなんです。情緒が未発達のままこの年まで生きてきた——私はロボットか人形と同じなんです。何をしたって感じないし、何かを望んだこともない——きっと死ぬまでこれが続くんです」
「それは違います」
心の視線が誠士郎に移る。
誠士郎は、初めて彼女と目が合った気がした。
「あなたは人形じゃない。人間なんだ」
「ええ。上辺だけは——」
「違う。あなたはこれ以上傷つかないために自分を人形だと思い込もうとしているだけだ。あなたはちゃんとした人間です。だから心がないなんてそんなことを言わないでください」
心の言葉や態度の節々から、隠しきれない悲壮さが滲み出ていた。誠士郎はそれを感じ取って、彼女の過酷な人生を想像した。
「あなたがここに来たのは親に言われてのことでしょう?」
「はい」
「これまでの人生で何かを決断する時、自分に選択権が与えられたことはありますか」
「一度もないです。というよりも、何かを決断しなければいけなかった状況がないです。何もするなと言われてきて育ってきたので」
心は、親の方針で学校にも行ったことがない。
心の父親は、彼女に自分の許可なしの外出を禁止して、朝昼晩と与えられる食事以外の食べ物を食すことを禁じ、与えられる衣服のみの着用を許し、心が幼少期に家を抜け出そうとした時は、一週間にも及ぶ折檻を行った。
このお見合いの後すぐに、誠士郎は自身の父親からそういった心の生い立ちを聞くことになる。
「あなたには感情がある。だから——だから自分のことを人形だなんて思わなくていい。人として生きることを諦めないでください」
その言葉を受けて、心はふっと目を逸らして俯いた。
「でも、……しか感じられないなら——」
よく聞き取れない。誠士郎は全神経を耳に集中させた。
「辛いことしか感じられないなら——感情なんていらないでしょう……」
それは、ポロッと出てしまった彼女の本心だった。
誰も聞き取れないほどのか細い声で、心は自分の本心を曝け出したのだ。
心は、何事もなかったかのように誠士郎に向き直ると、深々とお辞儀した。
「どうか良い返事を聞かせてください」
「それも親にやれって言われたことですか?」
「はい」
「もし——もし俺がこの縁談を突っぱねたら、あなたはどうなるんでしょう」
「別の方と結婚させられます」
心は、それが当然だというような顔をして言った。
心は誠士郎と結婚できなければ、八百会という暴力団の組長と縁組させられることになっていた。
そこの組長は非常に悪評高く、身内に鬼のように厳しいことで有名だった。前妻を鞭で叩きのめした挙句殺してしまったという経歴を持っていた。
誠士郎の決意は固まった。
「俺はあなたと結婚します。そして、あなたがまた笑ったり泣いたりできるように——自分を人形だと思わなくても生きていけるように、これからは俺があなたを守ります」
誠士郎は、自分が心に心を取り戻させるのだと——そのためにクソみたいな親から救い出すことを決意した。
自分の妻になれば心は自由に生きられると、この時はそんな楽天的な考えを信じていたのだ。




