ストーカー
「王仁くん!」
綾子は、ドアを開いてやって来た王仁を見て、安堵と喜びの声を上げる。
綾子が一人きり七番車両に飛ばされて、10分が経っていた。
「さっきの指示どういうことなの!? セックスって——」
「そのまんまの意味だよ。言われた通りセックスして指示クリアしてきた」
王仁はうるさそうに頭をかく。
「ここに俺以外誰も来なかっただろうな」
「うん。多分、王仁くんが一番最初にクリアしたんじゃないかな……」
一人の間、指示が指す意味を考えていた綾子は、これは王仁組以外は一日かかってもクリアできないのではないか、と思っていた。
「酷いことするよね……こんな指示出す主催者が許せない」
「ホントにな。目の前に主催者の顔があったら殴りたいぜ。——ん? なんだお前」
入り口のところで立っているほのかを見て、王仁が挨拶がわりに睨みをきかせる。
「ねえ王仁くん。この人って……」
「ああ。さっきヤってきた奴」
綾子が口を押さえて、ほのかの顔色を窺う。その顔には同情が浮かんでいた。
「なんだ? 俺に文句でも言いに来たのか? 俺だってな、やりたくてお前に手出したわけじゃないっての。何が楽しくて身も知らぬ奴とセックスしなくちゃいけねーんだよ」
「王仁くん! そんな言い方——」
「お前は黙ってろ」
王仁は前に出て、拳をバキバキ鳴らす。
「そういうわけだから、事故と思って忘れてくれ。さっさと彼氏のとこでもどこでもいいから消えろ。言って聞かせてもわからねえんなら、強制的に帰らせるけど」
王仁の脅しを受けても、ほのかは退散しようとしなかった。
代わりに意外なことを口にする。
「あなたは彼女とも、あんなセックスをしてるの?」
「は?」
予想だにしていなかった言葉に、王仁も毒気を抜かれたような面食らった顔をしている。
「恋人に対しても、あんな暴力的なセックスを毎回してるの?」
「なんだお前。イカれてんのか? ああ——綾子の奴に同情してんのか」
ほのかの真剣な眼差しが、王仁の背中にいる綾子に注がれる。
「ねえどうなの」
「チッ、ああそうだよ! 俺はヤる時はいっつもあんな感じだよ! でもそんなこと、お前には関係ねえだろうが! 説教してえなら他当たれ!」
「……そうなんだ」
「!?」
俯いたほのかの口元が笑んでいるように見えたので、綾子は目を疑った。
ほのかは踵を返すと、二人の元を去っていった。
***
「銀くん!」
飛びついてきた都のダイナミックなハグを受けて、銀次はまず都の無事を喜んだ。
「誰も来なかったか?」
「うん」
よかった——守くんを失っている都が襲われる可能性は低いものの、誰が何を考えているかわからない。
無事で何よりだ。
「銀くん、海ちゃんは——」
「先輩は……」
——ごめん。しばらく一人になりたいんだ。
銀次に背中を向けて、海は言った。
一人になるべきじゃない。安全のために一緒にいるべきだというのはわかっていたが、銀次はその頼みに首を縦に振るしかなかった。
そして海は、誰もいない車両へと一人入っていった。
心は指示達成したものの、その場を動かずに誠士郎が来るのを待っていた。
そして銀次一人が、都の元へ来たというわけだ。
「海ちゃん、ショックだっただろうね……」
小学生の都にも指示の内容は理解できたらしく、目を真っ赤にしている。泣き腫らすほどに苦しかったようだ。
銀次は「しょうがなかったんだ……」と都を抱きしめる。
都の立てた爪が、服ごしに銀次の背中に刺さる。
本当にごめん。
***
「そろそろ迎えにいった方がいいかな……」
都と合流してから一時間ほど経ち、銀次は海のことが心配になってきた。
合わせる顔なんてない。でも、このわけのわからない状況の中、先輩を放置しておくのは危険だ。
気まずさを抑え込んで、銀次は一人になった海を都と共に迎えにいくことにした。
百合野さんは真島さんと合流しているだろうか。あの松永さんがそう簡単に承知してくれるとは思えないけど——。
でも、無理やり犯してしまうという手も、やろうと思えばできなくもないのだ。
銀次の全身の血が一気に冷え込む。思わず都の手を一層強く握った。この子がこんな狂った指示に巻き込まれなくて本当によかったと思った。
一時間前に自分がいた車両のドアの前まで来る。
多分、ここに百合野さんがいるはずだ。
ドアを横にスライドさせる。車両の風景が目に入り——銀次は悲鳴を上げた。
「百合野さん!」
口に手拭いを突っ込まれた心が、腕から血を流して座り込んでいたのだ。
自動ドアに背中を預けている心の前に、海が立ち塞がっていた。
その手には、刃先に血が付着したナイフが握られている。
「先輩!」
「銀次くん……?」
海の首がカクンと動いて、銀次の方を向く。
「何してるんですか!?」
「何って——復讐だよ」
「復讐……?」
「銀次くんとセックスした罰」
海の声はあまりに冷たいので、銀次はゾッとしたものが体中を駆け回るのを感じた。
「せんぱ——」
「動かないで」
海はナイフの切先を心に向ける。
これ以上近づいたら刺す、という脅しに他ならなかった。
「百合野さんを殺すつもりですか?」
「そうだよ。今は彼氏もいないしね。殺すとしたら絶好のチャンスじゃん。だから一通り憂さ晴らししたら、殺してやるつもりだった」
「やっぱり——」
今の発言で、銀次は確信する。
「真島さんを殺そうとしたのは裕也くんじゃなくて先輩ですよね?」
穏やかで物腰柔らかな先輩の"仮面"が剥がれていく。
「なんでわかったの?」
「先輩のポケットに入っている"それ"に気づいたんです」
彼女の手に握られている折り畳みナイフを指差す銀次。
二日目の夜が明けて、海が誠士郎に襲われたと聞いて、銀次は震える海をキツく抱きしめて——すぐに離したのだった。
一際強く抱きしめた時、海のポケットにそこそこの大きさの何か固いものが入っていることに気づいたのだ。
ハンカチでもティッシュでも生理用品でもない。一体何を隠し持っているのか。
銀次の頭にある可能性が浮かんだ。
海が嘘をついているのではないか。誠士郎を刺したのは裕也じゃなくて海なんじゃないか。海は裕也に言い含めて、犯人にさせているんじゃないか。
それを確かめるために鎌をかけた。
——裕也くんと真島さんが闘ってる時、気が気じゃなかったでしょう。
海は鎌をかけられているとは知らずに答えた。
——うん。すごく激しい争いで、息することすら忘れてたよ。
海は、チャームポイントの泣きぼくろをかきながら、その光景の凄まじさを語ったのだ。
「俺は先輩が嘘をついているのかもしれないと思いました。癖が出ていたから……」
海は嘘をつく時、自身の泣きぼくろを指でかく。
その癖を銀次も知っていた。
「……でも先輩はそんなことする人じゃないって信じたかった。だから真島さんが目覚めた時すぐに訊きたかったんだ。あなたを刺したのは誰なんですか、と」
しかしそのタイミングで第三の指示が始まってしまった。
「先輩。なんで殺そうとするんですか。なんでそんな惨いことを——」
「ご褒美がほしいから」
海にも叶えたい願いがあったのだ。他の人間を屠ってでも叶えたいことが。
「私の願い、銀次くんには教えてあげるね。それはね——『銀次くんとの出会いをやり直したい』だよ」
海の射抜くような眼差しが、銀次に刺さる。
「私は銀次くんとテレビ越しじゃない出会い方をしたいの」
海は、ずっと気に病んでいた。
銀次がいつまでも自分をアイドル扱いすること。彼に大切に思われながらも、普通の女の子として見てくれないことが、ずっと心苦しかった。
ずっと"推し"としか思っていなかった海が、ある日急に日常に現れて、ひょんな出来事から自分に猛アタックしてくるようになった。そして、どうしてそうなったのかいつの間にか付き合うことになってしまった。
銀次の感情は追いつかず、海に対していまだにぎこちない態度を取っていた。
「銀次くんは覚えてないけど、私たち一度会ってるんだよ」
予想外の言葉に、銀次は目を見開く。
「電車に乗ってた時に痴漢に遭ったの。普段は一人では絶対に電車は乗らないんだけど、その時は運悪く一人だった。助けを呼びたかったけど、騒いで車内の注目を集めて私がアイドルだってバレたら、って思うと、声が出せなかった」
海は一応変装をしていたが、見破った者がSNSで海が痴漢に遭ったことを拡散すれば、活動にも影響を及ぼす大騒ぎになるかもしれない。何よりそんなこと、恥ずかしくて耐えられない。
絶望していた時、助けてくれたのがたまたまそこに居合わせた銀次だった。
海の尻を触っていた男が、急にうめき声をもらした。海が振り返ると、そこには男の腕を掴んで捻ろうとしている男子高生の姿。
痴漢は銀次の腕を振り解くと、開いたドアから飛び出して、さっさと退散してしまった。
「あっ……! クソッ……!」
銀次は痴漢を追いかけて、下車してしまった。おかげで海はお礼を言う機会を失った。
しかし、銀次の着ている制服から、どこの学校の生徒なのかはわかった。
「私、銀次くんを追いかけて転校してきたんだよ」
銀次は目を見開く。
「じゃあ、もしかして"あの出会い"も——」
「うん。わざとだよ」
彼を追いかけて転校してきた海は、銀次との運命的な再会を演出するために策を練った。
また彼は私を守ってくれるだろうか。彼をヒーローだと思ったあの時の私は正しかったんだろうか。
それを確かめる意味合いも込めて、海は男子生徒何人かに芝居を打ってもらうことにした。銀次が通りがかるのを見計らって絡んでいるふりをしてもらった。
「銀次くんはまた私を助けてくれた——あの日私は、銀次くんを最初で最後の恋人にしようと思ったの。だからね」
海は、心を冷ややかな目つきで一瞥する。
「銀次くんの童貞をもらった人間が、私以外にこの世に存在しちゃいけないの」
溢れ出る殺気に銀次の手を繋いでいた都は、そっとその手をほどき、一歩後ずさる。
先輩は本当に百合野さんを殺すだろう。
「先輩! 待って——」
銀次が手を伸ばした時、
「やめろ!」
と低い男の声が轟いた。
真島さんだ、と銀次が思う間もなく、誠士郎は海の横腹を蹴って吹っ飛ばす。
「うっ……!」
「心さん! しっかりして!」
「誠士郎さん……」
肩を揺さぶられた心が目を覚ます。彼女は壮絶な痛みとショックに気絶していたようだ。
「来てくれると、信じていました……」
そう言うと、百合野さんは真島さんの手を握って、安堵の吐息をこぼしたように思えた。
「ごめん……来るのが遅くなってごめん……もう誰にも心さんをこんな目に遭わせないって、約束したはずなのに……」
「でも来てくれたじゃないですか……約束守ってくれて、私——私、は……う」
「心さん!」
言葉の途中で、心は覚醒したばかりの意識を手放した。
銀次は海のそばに駆け寄ると、彼女の近くに転がっていたナイフを拾った。