謎の異空間
*
目が覚めたら、知らない場所にいた。
いや、俺はそこをよく知っていた。毎日それに乗って学校に向かっていたからだ。
走行中は固く閉ざされている自動ドア。柔らかく快適な座席。次の車両へと繋がる扉。
何度見回してみても、腐るほど目にしてきた電車の中だ。
しかし、よく馴染んだはずのその場所からは、安心感など微塵も感じ取れなかった。
実家のような安心感を覚えるには、あまりに異様な雰囲気に包まれていた。
まず乗客が誰もいない。次に窓の外が真っ暗で何も見えない。このことから今は深夜帯なのか? という考えが思い浮かぶが、俺はそんな時間帯に電車など乗らない。
そもそも電車は走行していなさそうなのだ。振動も物音も微塵も感じない。
停止した状態の誰もいない電車の中で、気づいた時にはただ一人通路に立ち尽くしていた——あまりに現実離れした状況に、金森銀次は思考がついていかなかった。
学生服を着た少年は、当てもなくただ混乱するしかなかった。
*
「銀次くん!?」
毎日欠かさず聞いている声。控えめに言って神と言うべき愛らしい声が自分の名前を呼んだので、銀次は弾かれたように振り向いた。
「先輩! なんで先輩がここに!?」
「こっちのセリフだよ! というかここはどこなの? 電車の中みたいだけど、駅に停まってるってわけじゃなさそうだし……」
銀次と同じ高校に通う青井海が、真っ黒な窓の外を怯えたように見ながら、銀次の元に駆け寄る。
「目が覚めたらこんな場所にいて……もう何がなんだかわからないよ。隣の車両に人がいるのが見えたから来てみたの。そしたら銀次くんだったんだもん」
海はブレザーの下の心臓を押さえて、銀次を見上げる。
突然、その大きな両目から涙が出てきた。
「良かった……銀次くんがいてくれて……」
「せっ、先輩!?」
憧れの先輩に抱き締められて、銀次の心臓が早鐘を打つ。
「私、不安でしょうがなかった。目が覚めたらわけわかんない場所にいて、周りに誰もいなくて……銀次くんの顔見た瞬間、安心して力抜けちゃった」
「あっ、あっ、あのっ、先輩! ち、近……!」
「銀次くん、すごい心臓ドキドキしてる……抱きしめられるくらいでこんなになっちゃうの? 私たち付き合ってるのに」
顔を赤くしてモジモジする銀次を、海は心から愛しいと思った。
「あのぉ〜」
あどけなさが残る声に、海は「ひゃっ!?」と飛び上がる。
「私たちもいるんですけど……」
「わっ!? ごめんごめん! 背中に隠れてて見えなかった……」
銀次の後ろからヒョッコリと姿を現したのは、制服を着て学校指定のリュックサックを背負った女子小学生と、Tシャツに半ズボンを身に纏った男子小学生だった。
焦げ茶色の長髪をツインテールにした女の子は、腰に手を当てて海を見上げている。
もう一人は、そんな少女の袖を掴んで怯えたような目で銀次と海の顔を交互に見ていた。気の強そうな女児とは対照的に、人見知りそうな男児だった。
「あれ? その制服、永礼小学校のだよね?」
海が少女を見て、自分の家からほど近い距離にある私立小学校の名前を挙げた。
「そうなんです。二人とも永礼小学校の六年生らしくて……君たちも気づいたらこの電車にいたんだよね?」
「うん。誰かいないかなーって車両を移動したら、お兄さんと座席で眠っている佐藤くんを見つけたの」
利発そうな少女がハキハキと説明する。こんな状況でも冷静さを失わないでいる小学生の女の子に、海は感心した。
「さっき自己紹介を終えたばかりなんです」
「そうなんだ。あっ、私は海っていうの。高校二年生。このお兄さんと同じで桑原高校に通ってるんだ」
「私は都っていうの。こっちの男子は同じクラスの佐藤くん」
「ど、どうも……」
男の子がおずおずと頭を下げる。
海は膝をつくと、彼を安心させるように頭を撫でた。
「何がなんだかわからなくて怖いよね。でも大丈夫だよ。きっとお家に帰れるからね」
「あ……」
佐藤少年が顔を赤らめる。
「あの……お姉さんひょっとして、」
「おい! なんなんだよお前ら!」
突如荒っぽい声が車内に響き渡り、四人はドキリとした。
振り向けば、一つ前の車両からやってきた男が、こっちに向かってズカズカと歩いてきている。
「うわっ!?」
「銀次くん!」
銀次の体が床に叩きつけられる。
めり込んだ拳が口の中を切って、口の端から血が一滴流れてきた。
銀次は、自分を殴ってきた男を見上げた。
大柄な大学生くらいの男だった。柔道部のようなガッチリとした体格で、逞しい胸筋に半袖の白シャツが悲鳴を上げている。固く握った拳にビキビキと筋ができているのを見て、銀次は咄嗟に殺される、と思った。
命乞いをするように顔を見上げると、恐ろしい形相に出会った。巨漢はこめかみに青筋を立てて、顔面全体に苛立ちを露わにしていた。
「王仁くん! なんで殴るの!?」
髪を後ろで三つ編みにした女性が巨漢の腕に縋り付く。
大きな体に隠れて見えなかったが、連れがいたのだ。ヤクザ顔の男と比べて、どこか儚げな小動物を連想させるような華奢な女性が、泣き出しそうな顔で男を止めている。
男は彼女の手をうるさそうに振り払うと、床に尻餅をつく銀次を睨みつけた。
「おい。お前らが俺たちを閉じ込めた犯人なんだろ? 何考えてんのか知らねえが、さっさとここから出さないとぶっ殺すぞ!」
「ええっ!? 違います違います! 俺たち、気がついたらここにいたんです! あなた方もそうなんですか……?」
何もわからないのに、ノータイムで殴りつけてきたのか……。怖すぎるだろ、この人……。
銀次は肉食動物に睨まれた草食動物のように縮こまる。
「うん……目が覚めたら誰もいない電車の中にいて——」
「勝手に喋るんじゃねえ」
三つ編みの女性が話し出すと、巨漢が圧のある口調で抑え込む。
「俺の許可なしに喋るな」
「なっ……」
銀次は絶句する。海と小学生たちもギョッとしていた。
この人暴君過ぎるだろ。二人がどういう関係かは知らないが、そんな横柄な態度は見かねる。
「うん。ごめんね王仁くん」
弾圧された女性はといえば、連れの理不尽な要求に意義を唱えることもなく、それどころか謝ってしまっている。
「あれ? 君たち——」
新しい声に、車両内の全員がそちらを見る。
向こう側の車両から、また新たな人物がやってきていた。
スラリとした手足の柔和な雰囲気の男性と、日本人形のように整った涼しげな顔立ちの女性が手を繋いで登場する。
その二人の後に、ゾロゾロと四人続いてやって来た。
「なんなんだよ……」
王仁が困惑を含んだうんざりした声でぼやく。
下着が見えそうなほどに短いスカート丈の女子高生。
長い前髪がすっぽりと目を覆い隠している男子高生。
20代半ばと思しきロングヘアーの女性。
いかにも人が良さそうなメガネをかけた男性。
皆一様にこの状況に戸惑っているようだった。
『全員揃ったみたいですね!』
その時、場違いなほど明るいアナウンスが車内に響いた。
まるで美少女アニメのキャラクターのような独特の可愛らしい声だった。これから最高に楽しいゲームでも始まるかのようにテンション高めの調子だった。
『全部で12人! よしよし。全員揃ったところで説明に入りましょうか!』
困惑している銀次たちを無視して、アナウンスは話を進めていく。
『皆さん、いきなりこんな場所に連れてこられてさぞかし混乱してると思うんですけど……』
「連れてこられて? ってことはお前が俺たちを閉じ込めた犯人だっつーことか!」
『そのとーり!』
王仁の圧力にも怯まずに、アナウンスの主は飄々と答える。
「ふざけんな! 早くここから出せ!」
『そんなにキャンキャン吠えなくても、出してあげますよーう。た、だ、し。それには条件がありまーす!』
くふふっ、という笑い声の後で、アナウンスの主はその"条件"を口にした。
『皆さんには、今から私が主催する"ゲーム"に参加してもらいます!』
「ゲーム……?」
嫌な予感を感じ取ったのか、海が震える指先で銀次の袖を掴む。
『そう。皆さんなんとなくお察ししてるみたいですね。デスゲームです! 生死をかけた最高で最低の遊戯です! 参加者である皆さんには、主催者である私が出した指示をクリアしてもらいます! ここでは私が神! 絶対の存在です! 皆さんの命は私が握っているのです!』
両手を広げて高らかに笑う姿が目に見えるようだ。狂気的な自称神の言動に、皆恐れを抱いていた。
『ところで皆さんには共通点があるのですが……はてさてそれはなんでしょう?』
その言葉に12人は自分以外の人間を見回して、共通点がないか探す。
銀次がスッと手を上げた。
『おっ、ではそこの平凡な男子高校生くん。回答をどうぞ』
「ここに集められた人たちは、みんなカップル……なのか?」
『おっ! 正解! やるね!』
「どうも。てか俺たちのこと"見えてる"んだな……」
銀次の言う通り、謎の声の主には銀次たちの動きが見えていた。
『そりゃ神ですし。ゲームの様子が見えなきゃ楽しくないですしねー』
「ごちゃごちゃうるせえんだよ」
王仁が再び口を挟んだ。
彼はズカズカと車掌室の方へ行く。
「王仁くん!? どうしたの——」
王仁の彼女と思しき女性が、彼のあとをついていく。
「ここにいるんだろうが。神だとかふざけたこと抜かしやがって。捕まえてボコれば解決だろ」
王仁の手が車掌室のドアにかかる。
その瞬間、王仁が後ろに倒れた。
「王仁くん! 大丈夫!?」
「は——なんだよこれ……」
王仁が半身を起こして、右手を驚愕の瞳で見つめている。
『乱暴な人ですねえ。車掌室には入れませんよーだ。次はピリピリするくらいじゃ済みませんよ?』
車掌室のドアを触った途端、電流が流れたのだ。
ぼんやりしていた皆の頭が、一気に恐怖の色に染まっていく。
これは冗談なんかじゃない。
それを理解して、誰も何も言えなくなってしまった。
『では静かになったところでルール説明といきますか』
天使のように可愛らしい声が、悪夢の始まりを告げる。
『皆さんには、これからこの電車の中で過ごしてもらいます。過ごし方については自由です。恋人と二人きりで身を寄せ合うもよし。大勢で固まってワイワイやるもよし。どうぞのんびりしてください』
まるで修学旅行の引率の先生のような口調だ。
『ゲームの開催期間は一週間。その間私は一日一回"指示"を出します。それをクリアできなかったら、"ペナルティ"が課せられる——王様ゲームみたいなものだと言えば、わかりやすいでしょうか』
指示やペナルティの内容は、どんな過酷なものなのだろう。今から色々想像してしまいそうになり、銀次は慌てて不穏な考えを打ち消した。
「一週間耐えればいいのか……一週間何とか乗り切れば……」
20代半ばに見えるメガネの男性が、ブツブツ呟く。彼は震える彼女の肩を抱き寄せて、安心させるように背中をさすっていた。
『ただじっとゲーム期間が明けるのを待つ。その選択も大いに結構ですが、それだとつまらないので、ゲームが"盛り上がる要素"を追加しました』
「盛り上がる要素……?」
『ええ。デスゲームと名のつくからには、殺し合いが起こらないとつまらないでしょう?』
恐ろしげな言葉に、銀次の袖を掴む海の手が震え出す。
『一週間までの間に生き残った"たった一組のカップル"には、神である私が何でも一つ願いを叶えてさしあげます』
願いを叶えてもらえるのは、たった一組のカップルのみ。
二組以上のカップルが生き残った場合、"ご褒美"はなしになる。
『その場合、ご褒美なしで普通に解放されて終わりです。まあ、"どうしても叶えたい願い"が皆さんにないんなら、それでもいいんじゃないですか?』
そんな平和でつまらない展開にはならないよな? とでも言いたげな意地の悪い口調で、主催者たる存在は言った。
何人かが固唾を飲んだ気配がした。
『最後に残った記念すべき一組は何でも一つ願いが叶う——あ、ちなみに片割れが死んだ場合、ご褒美はもらえませんから。必ず"カップル"でゴールインすること。いいですね?』
どうしても叶えたい願いがあるなら、恋人と共に生き残らなくてはいけないというわけだ。
しかも、他のカップルを蹴散らした上で。
「銀次くん——」
海が真っ青な顔で、銀次に寄りかかってくる。
銀次は下唇を噛むと、
「先輩。大丈夫ですから。俺がいますから安心してください」
と強がってみせた。
『"指示"は私の好きなタイミングで出します。じゃあ、また。各々自己紹介でもしててくださーい。あ、これは指示ではありませんからね』
その直後にブツッという音がして、謎の声の主は演説をやめたのだと理解できた。
「えっと……」
銀次は周囲を見回して、集められた者たちの顔を見る。
その時、静寂を暴力が切り裂いた。
「王仁くん!?」
王仁の彼女が口元を押さえる。
王仁は、30代前半ぐらいに見える柔和な雰囲気の男性の上に馬乗りになって、首に手をかけていた。
「何してるんですか! やめてください!」
長い前髪の男子高校生が、咄嗟に王仁を羽交締めにして止めた。力の強い王仁にすぐに吹っ飛ばされたが、その隙に男性は逃げ出せた。
小学生の佐藤を除く男性陣が一塊になり、王仁の前に立ち塞がる。
「どうして急に俺に襲いかかったんですか?」
先ほどまで馬乗りにされていた男性が、存外落ち着いた様子で尋ねる。
「この中だとあんたが一番強そうだからだよ」
強そう——それが何を指しているのか、銀次は察してしまっていた。
一番強そう=一番殺しづらそうだ。
「早い段階で排除しとくべきだと思ったんだが……そこのガキが邪魔するから」
止めに入った男子高校生を憎々しげに睨む王仁。
「排除なんて——馬鹿な真似はやめてください。主催者の言うことには一週間待てば解放されるんです。それまで平和に——」
「ハッ、そんなお利口な奴らばかりだと思うなよ」
王仁は自分を取り囲む男性陣の顔を、一人一人舐めるように見る。
「"ご褒美"が欲しい奴が俺以外にもいるだろ」
空気が凍りつく。
王仁は主催者の期待通り、殺し合いが起こると直感していた。
"願いを持つ者たち"は、一様に彼を警戒していた。
この男は危険だ。躊躇いなく人を殺せる男なのだ。野放しにしておけない。
皆の心が一つになったのを悟った王仁は、ハッ、と吐き捨てるような笑いをもらす。
「俺を拘束して隔離するしかない、って目だな」
考えを読まれた者たちの心臓がキュッと縮み上がる。
「いいよ。隔離されてやる。俺たちは一番奥の車両にいるからな」
「え……?」
「お前たちだけで殺し合って、最後の一組になったら来な。——ぶっ殺してやるから」
最後の部分に殺気を含ませると、王仁はおろおろしている三つ編みの女性に「おい綾子!」と怒鳴りつけた。
「当然お前もくるんだよ。さっさと歩け」
この女性は綾子というのか。王仁と同い年ぐらいに見える彼女は、なんとこの粗暴な男の恋人らしい。
銀次はよくこんな男と付き合ってられるな、という感想を抱いた。
「え、でも……」
「なんだよ。なんか文句でもあんのか」
「王仁くん、もっと友好的にいこうよ。そんな頭から拒絶することないじゃない。この人たちは何も悪いことしてないのに急に殴ったり……酷すぎると思——」
「うっせーな! お前は黙ってろ!」
そう怒鳴りつければ女が言うことを聞くとでも思っているのか、皆の見てる前で彼女を叱責する男に、銀次は嫌悪感が込み上げる。
「お前は黙って俺の言うこと聞いてればいいんだ! ごちゃごちゃ余計なこと考えてんじゃねえ!」
「……うん。そうだよね。ごめんね王仁くん」
綾子は諦めたように笑う。
乱暴な彼氏に怯えながらも従うしかない彼女を、皆気の毒そうに見送った。
「隔離って言っても……外からかけられる鍵とかもないし、あの人が私たちを殺しに来ないって保証はどこにもないよね?」
海が不安をたっぷり含ませた声色で言う。
『ノープロブレム!』
先刻の鼻につく声が響いて、車内の全員が身構える。
その瞬間、ドシンッ! という物凄い音が後方から聞こえてきた。
音がした方向へ全員で向かうと、一番後ろの車両、そこに通じる扉の前に、高さ三メートルほどのどっしりした本棚が立ち塞がるように置いてあった。
『これで隔離完了です。さすがにこれを持ち上げてどかすのは、いくら怪力といえど不可能でしょうねえ』
「なんでもありかよ……」
何もない空間から物を出してくるなど、魔法としか言いようがない。もっともこの状況自体あまりに現実離れしていて、今さら感は否めないのだが。
『そりゃあ神ですし』
主催者が得意げに言う。
『ま、そんなわけですので水や食料なんかも心配しないでいいですよー。ご飯は朝昼晩規則正しい時間に提供してあげます。あ、お水渡しときますねー。主に緊張で喉カラカラの人もいるでしょう』
ほいっ、という掛け声の後に、目の前の座席に500ミリリットルのペットボトルが10本現れる。
本棚に隠れて見えないが、向こうの車両にいるカップルも水を与えられたのだろうか。
またブツッという音がして、主催者が退散したのだとわかった。
「銀次くん……」
先輩が途方に暮れた顔で俺を見上げる。
俺は先輩にそこまて頼りにされるような男ではないのに……。
バクバクする心臓を押さえながら、銀次は「大丈夫ですから」と反射的に彼女を励ました。
こうしてゲームは始まった。
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