第5章 暗流
哨所の中でノアがベリナへと足を踏み入れるのを見送った後、テイラは再び哨所へ戻った。
扉を開けると、ソファに寝転がってお菓子を頬張るエヴリンとリリアンの姿が目に飛び込んできた。その瞬間、テイラの額に一本、怒りの血管が浮かび上がった。
「……あんたたち……」
テイラは引きつった笑みを浮かべながら、目は笑っていないまま二人を睨みつけた。
「いや〜、これはこれは哨長殿じゃありませんか。お久しぶり〜?」
エヴリンはクッキーをかじりながら手をひらひら振って言った。「はいはい、もう自分の仕事に戻っていいよ?」
「おい緑頭、上司ってもんを教えてやろうか?」
血管、二本目。
「まぁまぁ、そんなに怒らないでよ~。さっきまで六角突に追い回されてたんだよ? 戻ってすぐ働けってのは無茶ってもんでしょ?」
リリアンは立ち上がり、のんびりとテイラの肩を叩いた……油まみれの右手で。そして「たまたま」「うっかり」「悪気なく」、ぬるりと二回なでた。
血管、三本目。ビンゴ!
「……スキル《止まらぬ連――》」
「ちょ、ちょ、ちょっと待って! 悪かったから落ち着いて、マジで落ち着いて!」
二人はようやくテイラの怒りを察して、慌ててお茶を差し出した。テイラはそれに目をやるも一口も飲まず、ただ静かにソファへと腰を下ろした。
一息ついた後、陰りのある表情で口を開いた。
「さっき聞いた。ノアは幹線道路沿いの森で六角突を発見したらしい。」
その言葉を聞いた瞬間、二人の笑顔はピタリと止まり、眉がかすかにひそめられた。
「……計画的な配置、ってこと?」
エヴリンが訊く。
「ありえる。」
「……」
リリアンは何も言わず、自主的に鎧を着込み、冷えた表情で哨所の鉄扉を押し開けた。
「様子を見てくる。位置は?」
「正確じゃないけど、ノアの話ではここからおよそ四キロ。通信魔石は必ず持っていって、何か見つけたら即時報告。勇者の行進に支障を出すわけにはいかない。」
「了解。」
リリアンは軽く膝を曲げると、次の瞬間、足元に蒼い魔力が集まった。
脚を蹴り出し、砲弾のような勢いで哨所の南西へと飛び出していった。
同時に、エヴリンは棚からベリナの地図を引っ張り出し、机の上に広げた。
ベリナ――アレシ王国の政治と経済の中心。
国内でもっとも整った交通網を持ち、最も堅牢な守備を誇る。丘陵に築かれ、近隣の平原を流れる三日月型の川を天然の堀とし、橋には常に兵が配置されていた。
しかし勇者の行進の開催により、主要な交通路はすでに混雑し、警備兵の多くも市内に移動してしまっていた。
その影響で橋周辺の守備兵はほぼ半減し、城外を巡回していた部隊も完全に引き上げられている。
現在哨所に残っているのは、哨長、副哨長など全体を指揮できる者か、入城手続きを得意とする兵士だけ。正直、人員は非常に不足していた。
「本当に面倒ね……」
エヴリンはぼやきつつも、色ペンを手に取り地図へと印をつけていった。
ベリナ全体はおおよそ凧型の形をしており、鋭角は北西に位置し、中央広場はその対角線の交差点にあたる。
広場の北側にはアレシ王家の住まう「白の居城」がある。まるで城の中にもう一つの城を作ったような構造は、南北大陸で最も堅牢な城とまで言われている。
北西の三角地帯は連合学苑の領地で、他国の優秀な学生も多数在籍しているため、通行証がなければ足を踏み入れることもできない。
ベリナを囲う四方の城門――東西南北の各門もエヴリンはしっかりと丸で囲んだ。
その上で、先ほどテイラが言及した地点も加えつつ、地形情報を照らし合わせて更なる印をつけていった。
堀が流れる東門と北門の印は、川の対岸にある大規模な水田の中にある。そこは等高線も密集していた。
南門はノアが言っていた幹線道路沿い、丘陵地帯の森林に接している。人通りの少ない西門も同様に森林の中に印がつけられた。
「よし、だいたいこのあたりね。」
「ついでに異獣の異常行動に関する報告書も持ってきて。」
「了解。」
テイラは姿勢を正し、エヴリンがつけた印を一つずつ確認していった。
――やはり、性格と態度に多少問題はあるが、魔法戦と情報解析に関しては文句なしの逸材だった。
……もうしばらく副哨長を続けさせてあげよう。
今までのバカ行動をすべて忘れることにして、テイラはそう決めた。
(でも……これは困ったわね。)
彼女は地図を見つめた。
印の数は十箇所近く、一つ一つ調べるには人員が足りなさすぎる。人工的な罠が他にもあれば、なおさらだ。
テイラは頭の中で残存兵力と印の位置を計算し、ざっくりとした巡回ルートを決定した。
何事も、最悪の事態を想定して動かなければならない。
この時期に、しかも勇者の行進を前にして近郊に六角突が現れた?
偶然かもしれない。でも、もし偶然じゃないとしたら――
たった一体でも幹線に出現し、城門を突破されれば、千人単位の死傷者が出る可能性がある。
平原で全力疾走する六角突は、それほどまでに危険な存在だった。
「ノアがあの時、木々の障害物の多い森へ逃げたのは正しい判断だった。もし平原だったら……いや、もし私たちがノアを救えなかったら、今ごろ状況は全く違っていただろう。」
テイラは珍しく焦りの色を見せた。
異獣の報告書を受け取ると、さらに険しい顔になり、小さな顔には深い憂いが広がっていた。
(まさか、自分がアレシの心配をする日が来るなんてね……笑えるわ。)
――ブゥゥゥン。
哨所の通信魔石が鳴った瞬間、テイラはすぐに応答した。
「リリアン? 状況は?」
「……あまりよくない。情報通り六角突の巣を発見した。でも、それだけじゃなかった。」
「!」
「私の判断だけど、あれは眠りの魔法陣と簡易の《影隠し》魔法陣だったと思う。
おそらくノアが不意に魔法陣を踏んでしまい、眠っていた六角突が目覚めて襲いかかってきた。」
「……他には?」
「あるわ。」
通信の向こう、リリアンは地面に膝をつき、剣だこに覆われた指先で草地をなぞりながら冷えた眼差しで語る。
「この陣……素人が作れるものじゃない。土と落ち葉を用いて地面に自然と溶け込ませた、環境に寄り添うような自然魔法陣だった。ノアはもちろん、私でさえ気を抜けば踏みかねない。」
「……わかった。これから指示を出す。さっき印をつけたすべての場所に、六角突がいると思って行動して。」
「それはさすがに――」
と、口では否定しながらも、リリアンはそれが十分に現実的な可能性であると理解していた。
「はぁ……見つけたら別方向に誘導して、行進が終わった後に処理する。」
「それが最善ね。」
テイラは小さく息を吐き、これからリリアンに指示を出そうとした――その時、
――パアアアアアアン!!!
耳をつんざくような喇叭の音がベリナ全体に鳴り響き、荘厳な楽章が奏でられる。
豪華絢爛な馬車の列が東門から次々と進入し、城内は一気に歓喜の渦に包まれた。
「くっそ、もう始まったの!?」
テイラはすぐに通信魔石を取り上げ、他の城門の哨長にも連絡を取った。
「全ての衛兵部隊に告ぐ。私は南門の哨長、テイラ・アンマリー。現在、行進中に大規模なテロ行為が計画されている可能性がある。これより私の指示に従って行動せよ。」
その後の対応は迅速だった。テイラはすぐに冷静さを取り戻し、故郷で磨き抜いた指揮能力を発揮して、現在の状況を分析し始めた。
同時に、他の哨長・副哨長たちもその重大性を悟り、緊迫した表情のまま動員を開始した。
この危機の最中、どんな小さな判断ミスも重大な被害に繋がりかねない。
そして――勇者の行進が正式に始まったその瞬間、
かつて終わりを迎えなかった戦いの残響が、再び動き出した。
新たな血によって、未来の物語が刻まれようとしている。
全ては、ここから始まる――
***
三十分前――
僕、ベレスク・ノアは正式にベリナへと足を踏み入れた。
城門を出た瞬間、七色の紙吹雪と喧騒が一気に僕を包み込んできた。
勇者の行進を祝う祭りの雰囲気はすでに街中に満ちており、大理石で舗装された幹線道路は果てしなく続いていた。
道には豪華で派手な装飾を施した馬車が何台も行き交い、人々とスペースを争っていた。中央の並木やベンチはすでに疲れた観光客たちで埋め尽くされている。
見渡す限り、まるで夜市のように様々な屋台が並び、串焼き、グリル、ジュースなどあらゆる料理が揃っていた。
売り声が人混みの中を響き渡り、時折近所の人々が集まって、面白い噂話に花を咲かせる様子も耳に入った。
通りの両側、建物の屋根には色とりどりの布が掛けられていて、空には数こそ少ないがとても美しい紙飾りが風に乗って舞っていた。
だが不思議なことに、それらの紙片は一枚たりとも人の頭上に落ちることはなく、風の流れに乗ってふわりと漂うだけだった。
そんな景色の中、僕はしばらくベリナの街をぶらついた。
まるで中世ヨーロッパを思わせる美しい街並みに、思わず見惚れてしまう。
できることなら、一日かけてこの街をくまなく歩いてみたい、そう思った。
――でも、そんなことを言っていられる状況でもない。
何よりもまず、宿を見つけなければ。
本当に運が悪いとしか言いようがない。
よりによって行進の直前、こんなタイミングでベリナに入ってしまったせいで……
十五分ほど人混みに揉まれた末、僕は四方の宿がすべて満室だという現実をようやく受け入れた。
南区を探し尽くした僕は、最後の望みをかけて中央広場を目指すことにした。
その道中でも、幹線道路沿いにある店をチェックしながら、運良く空室のある宿を見つけようと望みをつなぐ。
……もっとも、その確率はガチャで最高レアを引くより低い気がするけど。
そんなことを考えながら歩いていると、ふと目に留まった宿があった。
「ウル旅館」と共通語で書かれた木製の看板が、四階建ての建物の前に掲げられている。
人々の視線を集めるように、目立つ位置に立っていた。
この旅館は木材で組まれていて、壁は石造り。梁の突き出た場所にはいくつかのランプが吊り下げられていた。
外壁は清潔に保たれ、木造の切妻屋根にも腐食の跡は一切ない。
……が、僕はその横に立てられた看板に目を向ける。
『本宿は満室となっております。あしからずご了承ください。』
「やっぱりダメか……」
くそっ、もし泊まれたらかなりラッキーだったのにな。
僕はため息をつきながら、その場を後にしようとする。
去り際に未練がましく受付の方を見たら――
偶然にも、一人の女性と目が合った。
赤い髪に小麦色の肌。体格の良い、まさに「強そう」な女性だった。
「うわ、ガタイ……」
失礼がないように、僕は慌てて視線を逸らして早歩きで立ち去る。
視界の端で、あの女性の口元がわずかに笑っていた気がしたが、特に気にせず人波に流されるまま中心部へと向かった。
さらに十分以上歩き続けて、ようやく中央広場に辿り着いた。
広場は非常に広く、その外縁には緑豊かな樹木がぐるりと取り囲んでいる。
中央には偉人の像が立っており、その手から絶え間なく清らかな水が噴き出して下の願いの泉に流れ込んでいた。
晴天、雲一つない空。街中は人の声で溢れている。
僕は木陰に立ち、半ば山の中腹にある広場から、見渡す限りのベリナの街並みを眺めた。
祝祭のような喧騒に包まれたその光景は、繁栄と活気に満ち、シャングリラでは決して味わえない美しさがあった。
――なんて、平和なんだろう。
ふとそんなことを考える。
……いっそ、今夜はこの広場で野宿してしまおうか?
――パアアアアアアン!!!
その瞬間、鼓膜を突き破るような喇叭の音がベリナ中に鳴り響いた。
壮大な楽章が空中に響き渡り、青空の下でその旋律が反響する。
まるで世界が一瞬、静止したかのようだった。
すべての音が止まり、人々のざわめきも消え失せた――
……だが、それは本当に一瞬のことだった。
次の瞬間、狂気のような歓声が津波のように街全体を飲み込んだ。
喜び、崇拝、畏怖――
勇者に対するあらゆる感情が爆発し、叫びとなって僕の耳に押し寄せてくる。
「「「「「勇者さまああああああああ!!!!!」」」」」
「「「「《星塵の剣》アヴァロンさま~~~!!!!!」」」」
「「「「勇者さま、どうか私を踏んでください~~❤️!!!!!」」」」
……って、いやいやいやいや、どうかしてるって!!!