第4章 約束
再び目を覚ましたとき、僕はもう森の中ではなかった。
約十五分ほど前、僕はベリナの南門哨所にある医療室で意識を取り戻した。
ゆっくりと目を開けると、腹部にあった六角突の尾角による傷は薄いピンク色の痕になって残っていたが、それ以外の切り傷や擦り傷はすべてきれいに治っていた。
服やズボンまで新しいものに替えられていたけど……うん、誰が替えたかなんて、知らないほうが幸せなこともあるよね。
その後、僕を助けてくれた三人に直接お礼を言いに行った。
何て言えばいいか……めっちゃ個性的な人たちだった。
最初に僕を救ってくれた緑髪の女性の名前はエヴリン。風属性魔法が得意で、南門哨所で二番目に強い魔導士。リリアンと同じ副哨長でもある。
性格は……くそっ、見た目があの甘くて可愛らしい感じと同じだったら最高なのに。残念ながら、彼女はめっちゃ忘れっぽい(例えば、僕を「運ぶ」時に風圧を防ぐのを忘れて、マジで死にかけたんだから)し、態度も超テキトーだ。
医療室から出て最初に見た光景は、エヴリンが髪をボサボサにし、服も乱れてリリアンと取っ組み合いのケンカをしてる場面だった。
で、ここでまた青髪のリリアンについて触れなきゃな。
彼女はまるで異獣並みの身体能力を持つ戦士で、脚力だけでエヴリンの全力疾走を数百メートルも耐え抜き、一人で六角突を指定地点まで誘導した猛者だ。
スタイルも抜群で、僕より十センチ近く背が高くて、エヴリンよりは大人っぽい雰囲気がある……はずなのに、二人が顔を合わせるとすぐに口論が始まり、時には急に取っ組み合いまで始める。哨所の備品はしょっちゅう破壊される(例えば僕。これもまたマジで死にかけた)。
でも、もし僕が一番尊敬する人を挙げるなら、やっぱり赤髪の哨長、テイラ・アンマリーだ。
なにせ――
「魔法《縛煌鎖》。」
彼女がいなければ、南門はあの二人に壊されていたかもしれない。
「てめえら、ふざけんな! 一日でもトラブル起こさないと死ぬのか!」
哨所中に怒号が響き、テイラの額に青筋が浮かぶ。
今、僕はぐちゃぐちゃになった応接室のソファに縮こまりながら、リリアンとエヴリンが互いの服を引っ張り合い、床を転がり回っているのを見ていた。
アンマリー哨長はというと、束縛魔法を次々と放って、壁や机、ソファ、僕まで壊した二人を必死で押さえ込んでいる。
この二人、ほんとに賄賂で副哨長になったんじゃないだろうな? ……いや、二人が一日で与える財政被害のほうが賄賂よりよっぽど高くつくだろうから、それはないか。
「ちょ、待って、僕は残――」
バン! アンマリー哨長が応接室の扉を思いっきり閉めて、二人を外に閉じ込めた。
このバカげた光景を見て、ようやく分かった。……ああ、この世界にも変な奴はたくさんいるんだな、と。
「アハハ……お見苦しいところを。」
「いえ、まったくそんなことありません。むしろ、助けてくれたこと、本当に感謝してます。あのままだったら、また死ぬところでした……」
正直言って、さっきの追撃戦を思い出すと、まだ心臓がバクバクしてる。
「それより、敬語はやめようよ? 私そんな立派な人間じゃないし、名前で呼んでくれていいよ~」
テイラは丁寧な呼ばれ方があまり好きじゃないらしく、手を軽く振ってめんどくさそうに言った。
「じゃあ……テイラ?」と、僕は遠慮がちに呼びかける。
すると、テイラは満足そうに笑った。
「いいね、じゃあ私もノアって呼ぶね。」
……なんだか、それが彼女の本当の目的だった気がするんだけど。
彼女は軽やかにガラスの陳列棚に歩み寄り、戸を開けて二つのティーカップを取り出した。
「どう? 本題に入る前に、ちょっとお茶でもどう?」
そう言って、にっこり笑いながらティーカップを揺らす。
その一言で、僕の目が一気に輝いた。うなずきながら、思わず小さく息をつく。
そういえば、ちゃんとした飲み物なんてもう長いこと飲んでなかったな……
この一か月、ずっと移動続きで、食事だって物理的に胃に入れただけ。はっきり言って、今にも倒れそうなレベルだ。
「何か入れる?」「うーん……やっぱり僕が淹れるよ。命を救ってくれたお礼に、ちょっとだけサービスさせて?」
テイラは少し驚いたように目を見開いたが、僕が手際よく茶器を扱い始めると、そのまま黙って見守っていた。
この世界で一般的に飲まれているのは、ハーブティーが主流だ。
カモミール、ラベンダー、その他この異世界特有の植物を組み合わせて淹れたもので、ほんのりとした香りと喉に優しい効果があることが多い。
テイラの好みを簡単に聞いた後、僕は哨所に常備されていた茶葉を陶器のティーポットに入れ、彼女が準備してくれた熱湯をゆっくりと注いだ。
蓋をして蒸らす間に、温水でカップを軽く洗い、あらかじめ僕のカップには小さなミントの葉を一枚入れておいた。こうすることで、飲んだときの味がよりすっきりとするんだ。
数分も経たないうちに、ふんわりとした香りが漂い始める。僕はゆっくりと二人分のカップにお茶を注いだ。
そのあと、テイラのカップには小さなタイムの葉をひとつまみ加えて、彼女が求めていた少しピリッとした風味を添えた。
僕のカップには、蜂蜜を少し垂らし、さらにレモン汁を数滴加える。そうすると、この一杯はさっぱりとした味わいの中に、ほのかな渋みと甘さが感じられる、飲みやすいものになる。
「ノア……いつもこんなふうにお茶を淹れてるの?」
突然、テイラの震えるような声が聞こえてきた。
「……まあ、そうだね。」
「味の好みは? 誰かを真似してるわけじゃないの?」
「いや、自分の好みでやってるだけだよ。どうかした?」
「……ううん、なんでもないよ。」
テイラはバツが悪そうに笑って、首を振った。
……どう見ても「なんでもない」って顔じゃなかったけどな。
ちょっと心配だったけど、僕はそれ以上は聞かずに、黙ってカップを持ってソファへと戻った。
しばしの沈黙のあと、テイラがまた口を開いた。
「そういえば、ノアはどこで生まれたの?」
会話の切り出し方としては完璧だ。
会話が苦手な僕は、心の中で彼女に親指を立ててみせた。
「西方の辺境にある小さな村、シャングリラってところ。」
(シャングリラ……? 地図にはそんな名前なかったはず……)
テイラは一瞬驚いた表情を見せた。
厄介なことに、南門哨長としての責務上、彼女はアレシ王国全体の地図を丸暗記しており、どんな小さな村の名前でも把握しているはずだった。
まあ、そこまで大きな問題でもない。後で地図をもう一度確認してみよう。
「でも、西の辺境か……一人でそこからここまで来たなんて、大したもんだよ。」
「いやあ、道中は妙に順調でさ。これなら人生初のまともな旅ができるかもって思ってたら……最後の最後で六角突が飛び出してきてさ。油断してた。」
「ところで、ノアはどうやって六角突と遭遇したの?」
「……幹道のすぐ横の林で出くわしたんだ。」
「……!」
たぶん、僕たち二人は同時に、その情報の重大さに気づいたんだろう。
同時に背筋を伸ばして、真剣な表情になる。
「うん、最初はちょっと道に迷ってさ。幹道を逸れて、小さな林のほうに入っちゃったんだ。でも……幹道に戻るまであと百メートルもないってときに、急に奴が現れた。」
今思い返しても、あいつがどうやって現れたのか、僕には全然わからない。
ただ歩いていて、茂みを抜けた瞬間、視界いっぱいにあの巨大な身体が広がっていたんだ。
「最初は幹道まで走って助けを呼ぼうと思ったけど……そうしたら他の人も巻き込まれちゃうと思って。だから、腹をくくって森の中に逃げたんだ。」
「……」テイラは険しい顔で眉をひそめた。まさか、こんな展開になるとは思っていなかったのだろう。
「まあ、最終的には生き延びたしね~。おかげでテイラとも出会えたし(残りの二人は……まあ置いといて)、ハッピーエンドってやつだよ。」
テイラの周囲に重苦しい空気が漂ってきたのを感じて、僕は慌てて話題を変える。
「そういえば、今日ってどうしてこんなに城外に人が多いの?」
僕は好奇心に駆られて訊ねた。
哨所の窓の外を見てみると、数百メートルにもわたる長蛇の列ができていて、数十人の哨兵たちが右往左往している。
まるで百貨店の周年セールでも始まるんじゃないかって勢いだ。
「今日は『勇者パレード』が開催される日だからね。それで大勢の人がベリナに押し寄せてるんだと思う。」
初めて聞く言葉に、僕はぽかんとしてしまう。テイラは僕の様子を見て、さらに説明を続けた。
「勇者って聞いたことある?」
僕は頷く。テイラはさらに話を進める。
「長年にわたり軍を率い、魔族と戦ってきた最高指揮官として、彼は数週間前に南進を成功させ、魔王が占領していた重要な要塞を奪還した。勇者の功績を宣伝するため、アレシ王国は一応伝統と呼べる『勇者パレード』を開催したんだ。」
「なるほど……だから、あんなに人が多いのか。」
いや、それにしても多すぎだろう。
「でも、ノアがベリナに来たのって、そのパレードが目当てじゃなかったの?」
「いや、うちの村じゃそんな話一切聞かなかったよ。僕は商学院に通うために来たんだ。」
「……なんて?」テイラが目を瞬かせる。「もう一回言って?」
「だから、僕は商学院に行くために――」
「商学院? それって、連合学苑にある、あの商学院のこと?」
「そうだよ……」
「……『入学特許証』は持ってるの?」
「父さんが入学証明書を渡してくれたよ。」
「見せて! 早く!」
僕が取り戻した荷物の中から、その「証明書」を取り出すや否や、テイラはそれをひったくるようにして読み始めた。
だが読み進めるにつれ、彼女の額に冷や汗がにじみ始め、ちらちらと僕のほうに視線を送ってくる。
「ノア……これ……」
「……どうしたの? 何かおかしい?」
大丈夫、大丈夫だ。そう自分に言い聞かせるしかない。
多少の問題なら、きっと何とかなる。そう思いたかった――
「この書類、全部偽物だよ。」
「……」
いや、まさか、そんなはずは――!
「本当だってば。っていうか、連合学苑にこんなフォーマットの書類自体存在しないから。
これを偽造した人は、二、三十年前の情報で止まってるか、あるいは最初から騙す気がなかったかのどっちかだよ。」
その瞬間、僕は震える手で荷物から「魔石」を取り出した。
父さんと通信するための連絡用の魔道具だ。
魔法陣が展開され、父さんの声が石から響いてくる。
『ノアか。久しぶりだな。』
「……あのさ、商学院の入学証明書のことだけど……」
『うん?』
「ほら、父さんが僕に渡したやつ、あれ……どうもおかしいみたいで……」
『ああ、あれね? 嘘だよ。気にするな。』
「???」
『ほら、考えてみろよ。もし君をそのまま外に放り出したら、絶対家に居座るだろ? だから適当に理由を作ってさ……あ、これ言っちゃダメだったか? まあいいか。』
「いや、そこじゃないだろ!」
『うん、まあ君にいろいろ経験してほしかったんだ。修行ってやつ? ……そうだな、外で働いて村の発展費用でも稼いできてくれよ。』
「……いくら?」
『お、聞いてくれてよかった。無理は言わん。そうだな、五百万ゴールドくらい稼げば、すぐ迎えに行ってやるよ。』
ふざけんな。
『ちなみに、それ以下の金額で帰って来ようとしたら、海に放り投げるからな。じゃあな。』
ブツッ。
反論する間もなく、通信は一方的に切られた。
僕はただ呆然とその場に立ち尽くす。
「……これ……」テイラはこの想定外の展開に面食らったのか、僕を心配そうに見つめる。「大丈夫……?」
大丈夫、か。
もちろん、大丈夫さ。見てわかんない? 僕、今めっちゃ元気だよ。
異世界で社畜生活して、五百万ゴールド稼げるって考えただけで……もう涙が出そうになるくらい嬉しいよ。ははは……
「ノ、ノア!? 目から光が消えてるけど!? おーい!!」
明らかに僕の壊れかけた様子に焦ったテイラは、急いで僕の腕をつかんで哨所の外へと引っ張り出す。
その先には、何メートルもある分厚い石造りの城門が広がっていた。
「ノア、とりあえず今日は嫌なことは全部忘れて、ベリナの街をゆっくり見て回ろう。いい? 悩み事は明日に持ち越せばいい!」
「……そうだね。」僕は苦笑しながら頷く。「テイラの言う通りだ。今日は思いっきりリフレッシュしてくるよ。」
「それとね……」そのとき、テイラの表情が凍りついたようにぴたりと止まる。
「お願い。絶対に、絶っっっ対に、そのマントをちゃんと被ってて。」
「えっ、でもこの天気じゃちょっと暑――」「いいから。」
僕が抵抗する間もなく、彼女は右手で僕のフードを引っ張り、顔の半分以上を覆ってしまう。
一瞬戸惑ってテイラの目を見た時、彼女の視線が僕の髪に向いたのを見て、ようやく僕は全てを理解した。
――ああ、そういうことか。
「ノアには分からない……あの貴族たちがどれほどのことをしでかすか、どれだけの代償を払ってでも『白子』を手に入れようとするのか……」
「……」
言葉が喉まで出かかったけれど、僕は何も言えなかった。
ただ、かすかに笑って、黙ってうなずくしかなかった。
そうだね。
結局、また「白子」に話が戻ってくるんだね。
アルビノ。
前世では十五万人に一人の確率だったこの病が、転生後の人生にもつきまとっていた。
まるで運命が悪趣味な冗談を仕掛けてきたかのように。
メラニンが不足しているこの体では、陽の下で生きていくことが何よりも難しい。
農作業なんてできるわけがないし、旅の途中では朝夕しか移動できない。
太陽が少しでも強ければ、すぐに皮膚が焼けるように赤く腫れてしまう。
道中で誰かと目が合うたび、彼らの驚きや好奇の視線を感じた。
まるで見世物小屋の動物にでもなったかのような視線――
悪意のあるものも、無意識のものも、あらゆる種類の目が、僕をどこにいても見つけ出す。
……ただ、それだけ。
僕がほんの少し「普通」と違うってだけのことなのに。
まあ……こんなふうに言うのは、ちょっと被害妄想かもしれないね。
僕はそっと拳を握っては開く動作を繰り返す。
手のひらの温度を確かめるようにして、背筋の冷たい感覚を払いのけたかった。
大丈夫、大丈夫。
僕は何百キロも歩いて、ここまで来れたじゃないか。
だから心配しないで、テイラ。
「……じゃあさ、明日、ノアの誕生日だったよね?」テイラはふと思い出したように、入城時の資料を見て言った。「明日は哨所に来て。絶対、盛大に祝ってあげるから!」
「そう? じゃあ、楽しみにしてるよ。」
僕はにっこりと笑ってテイラに返す。彼女も少し不安げな笑みを浮かべてから、哨所の中へと戻っていった。
テイラの背中が門の向こうに消えていくのを見届けたあと、僕はゆっくりと振り返り、目の前に広がる騒がしいベリナの街へと目を向けた。
「ふぅ……」
胸の中の不安と期待をなんとか抑え込みながら、僕はついに、この栄華の王都へと足を踏み出した。