第3章 背後討ちは恥ずかしい
頭がぼんやりしている。
冷たい液体が周囲を渦巻き、わずかに残った体温を奪おうとするかのように、傷口や皮膚を鋭く刺してくる。
真っ暗だ。ここはどこだ? いま、自分は……何をしている?
考えることすらできないまま、意識の深淵に沈んでいく。
――ああ、このまま眠ってしまおう。
「ごほっ……ッ、ごほっ……!」
体が完全に弛緩したその瞬間、鼻腔に冷たい湖水が一気に入り込み、半ば意識を失っていた僕を現実へと無理やり引き戻した!
くそっ、ここはどこだ……! まさか湖に沈んだのか!?
わずかに残っていた酸素を頼りに、必死にもがきながら水面を目指して泳ぐ。
水中で目を開けると涙腺が刺激され、腹部から広がる鮮紅の血が湖水を淡く染めていた。
痛みをこらえながらも、意識を保つため、岸へ戻るために両脚を動かし続ける。
あと少し、もう少し、耐えろ……!
視界が徐々に暗くなっていく中、右手がようやく水面を破った。
残る力を振り絞り、犬かきにも似ない奇妙な泳ぎで岸へと向かう。
五秒、十秒、どれほど経ったのか。
ついに、僕は湖岸の砂地に這い上がった。荒い息を吐きながら、まるでそれが人生最後の呼吸であるかのように、酸素をむさぼった。
「はぁぁぁ……!」
体裁も忘れて砂の上に仰向けに倒れ、大きく息をついた。
鼻腔に入った水をすべて吐き出してようやく、生き延びた実感が湧いてきた。
そのまま五分ほど横たわり、ようやく体を引きずって近くの岩に背を預け、座り込む。
……前世で災厄から逃げていた時の癖なのか、ふと傷の確認を始めていた。
盛夏のこの季節、多くの庶民は膝までの短いズボンを履いていて、僕も例外ではなかった。
しかし、それが仇となった。
布の保護がないせいで、蒼白の脛には小枝による切り傷が無数に走り、木の皮や岩肌で擦れた箇所には酷い擦過傷もできていた。
腹部を見ると、長く走る傷跡から今もなお鮮血が流れ続けていた。
もし本能的に腹筋を引き締め、角の直撃を浅く留めていなければ、さっき湖底で暴れた時点で、星湖の水面には僕の内臓が浮いていたに違いない。
とはいえ……正直、今の状況も大してマシとは言えなかった。
体はバラバラになりそうなくらいに力が入らず、骨は軋み、四肢も胴体も少し動かすだけで心が折れそうになる。
ましてや、ここからおよそ一キロ先にあるベリナの街へ歩いて助けを求めに行くなど、到底無理な話だった。
「これ、どうすりゃいいんだよ……」
逃走中に荷物はすべて失い、今となっては道具も、通信魔石のような機器も一切手元にない。
いや、そもそも全部あの六角突のせいだ。
本来は平原に生息しているはずのあいつが、なぜ森の中で、しかも主要道路のすぐそばで寝ていたんだ?
もしあれに出くわしたのが僕ではなく、もっと規模の大きい隊だったら、被害は何十倍にも膨れ上がっていただろう。
そう考えると、何かおかしいという感覚が沸き上がってきた。
僕はすぐさま周囲を見回し、六角突の死骸を探した。
案の定、一秒も経たないうちに、遠くにまだ砂塵が漂っている小さな空き地を見つけた。
周囲の青々とした景観の中で、そこだけが異様に浮いている。
よく見ると、まるで隕石でも落ちたかのような大穴が草地の中心にぽっかりと口を開けており、そばには血に染まった折れた角も転がっていた。
僕はただ黙ってその灰色に煙る空間を見つめ、何度も口を開こうとしたが、声は出なかった。
ただ背筋を這い上がる、骨まで冷えるような寒気だけが確かにそこにあった。
でもさ……ああ、本当に、よかったなって思った。
僕の計画どおりに六角突は地面に叩きつけられ、あの百本の木を貫通できるほどの角も折れた。
あいつの尾角に弾き飛ばされ、百メートル近く墜落した僕が、こうして座っていられるのは奇跡のようなものだ。
どう考えても、これはハッピーエンド……そう、六角突さえ本当に死んでいれば、完璧なハッピーエンドだった。
「グオォォォォォォォォッ!」
背後から大地を震わせるような怒号が響いた。
ゆっくりと首を回すと、血まみれの六角突が、いつの間にか僕の背後に回り込んでおり、血走った赤い目で僕を睨みつけていた。
……くそっ。
もっと早く、こいつが生きていると分かっていたら、湖の真ん中に漂っている選択をしていた。
あの図体じゃ水に浮けないだろうし、出血多量で沈むまでの時間くらいは稼げたはずだ。
でも……誰が想像するんだよ。
あの平原の覇者とまで呼ばれた化け物が、背後を取るなんていう卑怯な戦術を使うなんて――!
ドン!
六角突が地面を蹴り、湖畔の空き地から猛然と突進してきた。
脳内に微細なノイズのような音が鳴り響き、遠くから何かが近づいてくる危機を警告していた。
だけど、それを感じ取ったところで、今の僕にはどうすることもできない。
空気さえも揺れ始め、六角突の姿はまるでレーシングカーのように、数秒でトップスピードへと達し、一直線に僕へと向かってきた。
風が唸る。
全身の空気が身体を押し上げようとしているように感じる――そのとき、僕はある違和感に気づいた。
おかしい……風圧が、思ったよりも弱い。
六角突が全力で突っ込んでるんだから、もっと凄まじい風が吹いてくるはずだろ……って、うわあああああああっ!?
「な、なんだ!?」
突如として、足元の空気が激しく逆巻き、穏やかだった風が一瞬にして暴風へと変わり、僕の身体を空へと押し上げた!
その瞬間、六角突の稲妻のような巨体が僕の真下を掠めて通り過ぎていった――もう少し遅れていたら、確実に轢き殺されていただろう。
「ギリッギリだったな~」
「だから言ったでしょ? 見張り所でグズグズしてるからこうなるのよ!」
この状況にまったくそぐわない、軽やかな二つの声が風に乗って聞こえてきた。
振り返ると、ベリナの方角から続く道の曲がり角に、二人の人影が現れた。
一人はすらりと背が高く、もう一人は……んん? ちょっと低いけど、それでも十分に背が高い。
いや、何言ってんだ僕は。出血しすぎて、言語能力まで死んだか?
背の高い青髪の女性は、銀白色の胸当てと籠手を身に着け、背中には二メートルはあろうかという巨大な剣を背負って、まるで散歩でもするかのように歩いてきた。
もう一人の緑髪の女性はやや幼さが残る印象で、金属製の鎧ではなく、いくつかの軽装のレザーアーマーを身につけていた。
手には杖のような木の棒を持ち、その先端にはほのかに緑色の光が宿っていた……って、それ、本物の魔法の杖か?
「こっちに来て!」
緑髪の彼女が杖を軽く振ると、周囲の空気が渦を巻いた。
次の瞬間、僕の身体はふわりと宙に浮かび、そのまま二人の方へと引き寄せられていく。
お、おい……まさか、これって魔法か?
空を飛ぶ僕を見て、後ろの六角突も一瞬呆然としたようだった。
だがすぐに我に返ると、標的を切り替えて二人の女性に向かって突進していった!
青髪の彼女はすかさず反応し、隣の緑髪の少女を軽々と肩に担ぎ上げると、そのままベリナの方向へ向けて全速力で走り出した!
ビュオォォォォォッ!
凄まじい風が顔を叩き、目を開けていられない。涙が溢れ、耳には風の唸りしか聞こえない。
緑髪の子は、後ろに遅れがちな僕に気づくと、どうやら本気を出したらしい。
両手を掲げて片手で杖を強く握り、もう一方の手を添える。
緑光がまた一閃したかと思うと――
……加速した!
さらに加速した! 頬の肉が風圧で波打ち、呼吸すらできなくなった!
「ねえ、エヴリン、この子この速度に耐えられるの? こっちは全力疾走してるんだけど?」
青髪の女性が、肩に担いでいるエヴリンに驚いた様子で話しかけた。
「ごめん、忘れてた」
エヴリンは笑って手を叩いた。
いやいや、そういうのって忘れるようなことかよ!
エヴリンが再び指を動かすと、前方から押し寄せていた風が二手に分かれ、まるで道を開くかのように穏やかになっていく。
ようやく、僕も息を整えることができた。
「ゴホッ、ゴホッ……」
エヴリンが軽く咳払いをして、名乗り始めた。
「初めまして。私はベリナ城南門哨所の副哨長、エヴリン。そして、こっちにいるのが同じく副哨長のリリアン。
六角突に追われてた哀れな子猫ちゃん、もう大丈夫よ。どうしてかって? それは、私が来たから!」
「何言ってんのよ! 今、実際に走ってるのは私でしょうが!」
リリアンが会話に割って入り、エヴリンと喧嘩を始める。
「はぁ? 風を操ってこの子を救ったのは私だけど?」「あんた、さっき殺しかけてたじゃないのよ!」「はぁ!? 誤解しないでくれる!?」「事実を隠そうったって無駄よ!」
……
命からがら逃げてる最中だってのに、こいつら本気で口喧嘩してる。
そのやり取りは、まるで舞台でやる即興漫才のようだった。
マジで大丈夫かこの二人……?
どこかズレた会話を聞きながら、僕の胸には一抹の不安がよぎった。
ドスン、ドスン、ドスン……!
地響きのような足音が聞こえ、僕が振り返ると六角突がすぐそこまで迫っていた。
怒声をあげて突進してくる。
おい、本当に逃げ切れるのか!? そう思って口を開こうとした、そのとき――
「到達、定点」
リリアンが不意に口にした言葉と共に、今までの軽快な雰囲気が一変し、ピンと張りつめた緊張が走った。
「……は?」
何が起きるのか分からずに呆けていると、バシュッ!
リリアンが踵を返し、左足を大地に深く踏み込んだ。軍靴が土に食い込み、三人の動きがピタリと止まった。
エヴリンは巧みに杖を操り、僕を草地へと優しく落とすと、再び両手を高く掲げた。
杖の先からは、まばゆい緑光が爆発するように放たれる。
その瞬間――
彼女たちの目から、鋭い殺気が溢れ出した。
「スキル――《イシキロスの風壁》!」
ゴオオオオ……!
エヴリンの前方に、目には見えない暴風が集まり、空間に風の壁を構築する。
ドガァンッ!
六角突がその風壁に激突し、苦しげに低く唸るも、なおも前進をやめない。
エヴリンは両手を挙げたまま、口から鮮血を吐いた。
風の壁と共に数メートルほど後退してしまう。
「耐えてよねー!」
リリアンが叫びながら背中の大剣を一手で振り回し、ぐるりと回って六角突の背に重い一撃を叩き込んだ!
「ガオオオオオオッ!」
六角突は痛みで叫び声をあげ、その場で地面を踏み鳴らして悩んでいるようだ。
このまま風壁を突破するか、それともリリアンを先に潰すか――
……だが、選択肢を吟味する時間はなかった。
「おい、そっちで自分たちを守ってて。大技いくよ?」
怒気も威圧もない、けれども強大な存在感を放つ声が響いた。
同時に――
空を赤く染めるほどの火光が広がった。
紅い長髪をなびかせた、華奢なシルエットの女性が空中に現れた。
僕たちをちらりと一瞥したあと、掌を広げて炎を練り始める。
だが……その手から溢れる火は、「大きい」なんて言葉では到底足りなかった。
「魔法――《天火降》!」
ゴゴゴゴゴゴゴゴ……!!!
空から降り注いだのは、熾烈を極める炎の柱。
数十メートル四方の範囲を瞬く間に包み込む、文字通り天からの裁きだった。
だが意外なことに、彼女が手加減したのか、あるいは六角突が異常なほど頑丈なのか――
火炎の中から、黒い影が突き抜けてきた!
――それは、全ての攻撃を正面から受けきり、なお生き延びていた六角突だった!
「ガ……オオ……」
逃げる際、そいつはちらりと僕を振り返り、明らかに怒りを込めた目で睨みつけた。
そしてついに、情けも誇りもかなぐり捨てたように、反対方向へと逃げ込んだ。
いやいや、追われてるの俺の方だろ!?
何でお前が俺を逆恨みしてんだよ!
逃げていく六角突の背を見送りながら、赤髪の女性はふとベリナの方を見やって、深いため息をついた。
どうやら追撃を諦めたようだ。
「ふぅ、お疲れさま」
彼女は空からふわりと着地し、リリアンとエヴリンに声をかける。
そして、僕の方へと歩いてきた。
「……ねえ、大丈夫?」
僕と目が合った瞬間、彼女は一瞬驚いたような表情を浮かべた。
何かやらかしたかと思った次の瞬間、彼女は小刻みに震えながら僕のところまで歩いてくると、あちこちを撫で回し始めた。
全身を触診された僕は、彼女の顔がどんどん青ざめていくのを見て、心底恐ろしくなった。
「お前……人間なの?」
「……え?」
いきなりの発言に戸惑いながら問い返すと、彼女はハッとして態度を戻す。
「あっ、いや……なんでもない。ちょっと……傷がひどいのに、まだ生きてるからさ、びっくりしただけ」
「……?」
戸惑う僕に、彼女は気まずそうにお腹を指さす。
見下ろしてみれば、下半身が赤黒く染まり、すでに血でぐっしょり濡れていた。
べっとりと、全てが。
「……あ」
彼女の言葉を受けて、僕はようやく自分がもう座っていられないほど衰弱していたことに悟った。
まるで糸が切れたように、全身の力が抜け、そのまま後ろへ倒れ込んだ。