第8章 それが信頼の壊れる音、絶望の始まり
意識が、だんだん遠のいていく。
喉がカラカラで、指先がちょっと
強張ってる。
心臓が、なんかちょっと速く動いてる気がする。
……水、飲みに下に降りよう
か? いや、
もうベッドに入っちゃったんだから……このまま寝ちまおうか?
……うん。
意識がまた動き出す。
めっちゃ変な感覚だ。本能がベッドから離れろって警告してくる。血の中で何かがザワザワ動いて、筋肉が不自然に緩んで、ついには力が全部抜けた。
「……くそ、水飲んでから寝るか。」
ゆっくり起き上がる。足が床に触れた瞬間、膝から力が抜けて、危うく倒れそうに。慌てて壁に手をついて、一歩ずつ慎重に階段を下りる。
まだ一階に着く前、ぼんやりした頭で気づいた。ウル旅館の灯りはほとんど消えてて、カーテンも全部閉まってて、ロビーと二階がめっちゃ暗い。
……え? 旅館、もう片付けた? 客、追い出したのか?
ぼやけた目で館内を見回すと、ウルはもう元のキレイな状態に戻ってた。壁の燭火だけが、チラチラ揺れてる。
「もう二時間経った。準備、できてる?」
遠くから声が聞こえる。
「バッチリよ。買い手も準備オッケー~」
ゆっくり階段を下りる。
ダッ。壁に手をつきながら、一段ずつ降りて、ようやく一階に着いた。右前方の食堂まで、あと五歩。
「買い手は、夜明け前につければいいってさ。」
唇がカラカラ。頭がクラクラ。体がめっちゃ重い。思考がバラバラで、頭の中で声がグチャグチャ響いてた。
「ふふ、なら時間はたっぷりあるね。」
片足を食堂に踏み入れる。
「今夜は……めっちゃ楽しめそうだな。」
顔を押さえて、壁に手をついて角を曲がる。
「これだけ機嫌取ってやったんだから、当然でしょ。」
マリンの声、間違いない。
その瞬間、角を曲がった僕は、マリンとレン(レン)の姿を見た。
体が、まったく言うことを聞かず、その場に崩れ落ちた――
ドンッ! 膝が床にぶつかり、衝撃が骨を伝って全身に響く。頭の中で変なノイズが爆ぜて、痛みで顔が歪む。
……おかしい。マリン、今なんて言った?
頭のモヤがちょっと晴れる。代わりに、ゾッとするような違和感。胸が締め付けられる、本能的な恐怖。
「……おっと、ノアじゃん。」
見上げると、黒い手が差し出されてた。
マリンの手だ。
一瞬ボーッとしたけど、ようやく反応して、ゆっくりその手を握った。
今回は、マリンの手に異獣の血はついてなかった。
でも、僕、倒れた。
ドンッ! 手が滑り、何の準備もできずに頭を床に叩きつけた。
その瞬間、世界が急にクリアになった気がした。
「マ……リン?」
掠れた声が出る。
額からドロッとした液体が流れて、焼けるような痛みが昏さを吹き飛ばす。冷たい木の床に這う中、背中にゾクゾクッと寒気が走る。
「ノア、大丈夫?」
視界には、影に覆われた木の床だけ。マリンの軽い声が響く。首を動かせず、彼女の姿は見えない。
「……動、けない……!」
やっとのことで言葉を絞り出す。口の筋肉ももう、言うことを聞かない。レンの荒い息遣いに比べ、僕の声は蚊の鳴くようなもんだ。
「うそ、マジで? どうしちゃったの~?」
マリンがわざとらしく驚いてしゃがむ。血みたいな赤い髪が垂れ、右手が僕の髪をガッと掴んで乱暴に引き上げた。
目と目が合う。
きっと、僕の顔がめっちゃ苦しそうだったんだろう。マリンの顔に、なんとも言えない歪んだ笑みが浮かぶ。
ドンッ! 支えがなくなって、頭がまた床に叩きつけられる。
「ね、起きなよ、ノア。」
マリンはしゃがんだまま笑って、右手で僕の頭をそっと撫でる。
「マジで動けないの?」
パチッ……。軽く頭を叩く。まるで眠りから起こそうとするみたいに。
「ノア。」
パチッ! 力が増す。
「ノア。」
パチッ! 今度は裏で、ビシッと叩く。
「ノア……」
パチッ! マリンの手が大きく開き、容赦なく頭をぶつ。
マジで、痛え。体も、心も――
「ノア・ベレスク!」
パチン! パチン! パチン! パチン! パチン!
パチンパチンパチンパチンパチンパチンパチンパチンパチン!!
表、裏、表、裏! マリンはだるそうにしゃがんで、肘を膝に置いたまま、僕の頭をガンガン叩き続ける。
避けられない。ただ、体と心に傷が刻まれるだけ。
「マジで動けないなんて、残念。めっちゃ残念だよ、ノア。そう思わない?」
マリンの口角がグイッと上がる。昼に見たのと同じ顔のはずなのに、今はただ、ゾッとする恐怖しか感じねえ。
「マ、リン……!」
無様で、情けなくて、苦しげに叫ぶ。
体の細胞全部が震えてた。もう他のこと考えられず、頭が空回りして、心の奥で必死に祈る。
お願い……お願いだ、嘘だって言ってくれ。
「心配すんなよ、大丈夫だから。」
六角突の追っ手から逃げ切ったのに――
「お前はすっげえ大事な存在だ。世界で“唯一無二”の人間だぜ。」
四尾鳴狼の爪から生き延びたのに――
「私がいる限り、絶対お前を傷つけさせねえ。」
やっと信じられる奴に会えた、全部の警戒心を解いたのに――
「だって……俺の“五百万ゴールド”を傷つけるわけにはいかねえよな?」
その瞬間、音が聞こえた。
乾いた、壊れる音。
ああ、そうか――これが、信頼が砕ける音、絶望の始まりだ。
バシャッ! マリンが僕の右足を掴んで、地下室の奥へズルズル引きずる。レンはその後ろで、顔をちょっと赤くして僕をガン見してくる。
地下室に入った瞬間、鼻を突く血と腐臭。水音とキツい酒の匂いが胃をムカつかせる。
チラチラ揺れる火の光の中、マリンは笑ってた。
(今日はマジで疲れる一日だったな……)
客に半日ニコニコ対応して、残りの半日は外で、死のうが生きようがどうでもいい奴らを助ける。
クイントンは襲撃後のドタバタを片付けて、死んだ奴らの財産を回収。
でも、一番キツかったのは、たぶんレンとジャナだ。ムリヤリ笑顔作って、クソくらえな連中に包帯巻いて、優しく世話する。あの二人の性格じゃ、地獄より辛えだろ。
マジ、しんどい。ずっと“別の自分”を演じるなんて、こんな疲れるもんか。
ミシッ。マリンの右手が握り締められ、骨が砕ける音が地下室に響く。
そう――もう我慢の限界。今夜は、ガッツリ発散しなきゃ。
もちろん、僕よりずっと“発散”が必要な奴がいるってのも、分かってる。
*(※以下、残酷描写あり。注意)*
ドンッ!
鉄の柱の前に乱暴に投げ捨てられた。反応する前に、焼けるような痛みが頭を直撃。
「うあああああ――ッ!!」
苦しげに絶叫する。
レンは狂ったような笑みを浮かべて、僕の腹を容赦なく蹴りつけた。
「アハハ……ハハハハハ! めっちゃ気持ちいいっ!!」
ドン、ドン、ドン、ドン、ドン!
旅館のメイドなんてクソくらえとばかりに、レンは快楽に溺れて、ブーツを振り上げては僕を踏みつける。
今まで感じたことねえ痛みが、腹の奥から全身に広がる。
口の中に血の味が広がり、声にならねえ悲鳴が漏れる。
――息、できねえ!
肺が全部、叫んでる。四方八方から殴られ、腕も太ももも胴も血がバシャッと飛び散る。筋肉がビクビク痙攣する。体の自由はねえのに、痛みだけはガッツリ感じる。
バリッ! レンが手を振ると、血まみれの服と包帯がビリビリに裂けた。
揺れる火の光の中、白い肌が露わになる。内出血が神経を刺して、気が狂いそう。
痛みが麻痺しかけた瞬間、また焼けるような痛みが僕を現実に引き戻す。
「うあああああああああっ!!」
「うふふ、ちょっとやりすぎちゃったかな~」
また重い蹴りが飛んできて、何度目かの掠れた悲鳴を上げる。
「昼の、四尾鳴狼にも勝てねえクソ共のせいだ! あいつらの汚ねえ血が僕にかかった!? 許せねえ! 許せねえ許せねえ許せねえ!!」
レンはまるで正気を失ったみたいにキレて、拳を砲弾みてえに僕の肋骨にぶち込んできた。
「う……うあっ……!」
もう、まともな言葉も出ねえ。
「おいおい、やりすぎだろ。」
マリンが言う。
「壊したら、買い手が文句言うぜ?」
まるで“商品”の話でもしてるみたいな口調。
ズブッ! レンは笑いながら、指と爪を僕の傷口に突っ込んできた。
血管と筋肉がグチャグチャに掻き回され、頭が激痛で真っ白に。数秒、口から血とヨダレが垂れて、それをレンがペロッと舐める。
「んんっ……」
満足げな吐息。僕のボロボロな姿が、彼女には最高の幸せらしい。
――もう、痛みも感じねえ。
ああ……全部、どうでもよくなってきた。
「なんで……なんで、僕なんだ……」
ポツリと呟く。
久しぶりに聞く、自分の“声”。掠れて、苦しげで、訳分かんねえけど……どこか、すがるような響き。
獲物の悲鳴。弱者の嘆き。
遠くで歌を口ずさみながら、コートを脱いでたマリンが振り返る。いつもの笑顔が貼り付いてる。
「なんで? ハハ……面白い質問ね。」
マリンはニヤニヤしながら近づいてきて、レンを押しのけて僕の髪をガッと掴む。何本も抜けるくらいの力で引き上げられ、彼女の目の中の、ゾッとするような遊び心を見る。
その口は、まるで奈落。白い歯は死者の骨、蠢く赤い舌は燃える炎か、血の川みたい。
ペロリ。マリンは笑いながら、僕のまぶたを舐めた。まるで“料理”を味見するみたいに。
――試食、値付け、売り飛ばし。
「気づいてただろ、ノア? こんなの、めっちゃ分かりやすいじゃん。」
彼女の笑い声が、頭の中で響き続ける。
「だって――三億人に一人もいねえ“白子”なんだから。」
ドンッ!
マリンが僕の頭を床に叩きつける。その一撃で、心のどこかで否定してた“可能性”が、絶望的な“現実”に変わった。
「それだけで、五百万ゴールドなんだよ、ノア! お前を売れば、俺たち何年も豪遊できる! もうスラムのクソみたいな暮らしは終わり! 毎晩パーティーして、もっとマシな場所で、もっとマシな生活ができるんだ!」
マリンの叫びは狂気に満ち、顔はもう正気じゃねえ。
その言葉を聞いて、僕の力はどんどん抜けていった。
もう、何もできねえ。
なんで? なんで僕なんだ? なんでこんな目に遭うんだ?
なんで訳わかんねえ注目を浴びなきゃいけねえ? なんで無視され、拒絶され、求められ、売られ、弄ばれなきゃいけねえ?
なんで――白髪と赤い瞳ってだけで、こんなクソくらえな目に遭うんだよ……!
その時、頭の中で何かが壊れた。
溢れる怒りが、絶望の涙になって頬を濡らす。
知らないうちに、歯を食いしばってた。エナメル質が砕ける音がして、血が歯の隙間から流れ出す。
でも、もう……どうでもいい。
――誰も助けに来ねえ。
――もう、逃げられねえ。
ああ……マジで、悔しい……
でも……これで、全部終わりだろ……?
『カーン――』
体が、燃えるみたいに熱い。
痛みは涙と一緒に流れ、ただ狂気だけが残る。
ああ、そういや。もしもう日付が変わってたら……今日、僕の十五歳の誕生日だ。
『カーン――カーン――』
前は飛行機だった。今回は……まぁ、マシな方か。
『カーン――カーン――カーン――』
クソくらえな奴らばっかだ。こんな奴、何人も見てきたよな?
『カーン――カーン――カーン――カーン――』
『ノア、#$%^&*へ行け! 今、向かってる!』
昼に聞いた、ノイズ混じりの声が響く。でも、痛みの中で、すぐに消えた。
――誰か、僕を助けようとしてんのか?
苦笑する。もう……遅えよ。
失血で意識がぼやけ、ボロボロの筋肉に力が入らねえ。
でも、なんでだ?
体が……燃えるみたいに熱い。心臓が、めっちゃ強く鼓動してる。
潮騒、レンの息遣い、血の滴る音、全部が耳に押し寄せて、頭がグチャグチャ。
その瞬間、視界が血みたいに真っ赤に染まった。
『カーン――カーン――カーン――』
――まるで、僕が“僕じゃなくなった”みたい。
「……何?」
下品に笑いながら、僕のズボンを破ろうとしてたレンが動きを止める。
伝説。ただの噂。
十四歳から十五歳になるその日――一部の奴だけが、“鐘の音”を聞く。
『カーン――』
最低三回、最高十五回。
その音が多いほど、そいつの未来の“成り上がり”がデカくなる。
だって、鐘の音が全部鳴り終わった瞬間――
『カーーーンッ!』
そいつは、ほんとの「力」を手に入れる。
「……固有スキル《狂戦士の殤》、発動。」
「俺」が、本能で呟いた。
「何? 何だよって――」
ズバッ! 血が宙に舞い、レンが信じられないって顔で俺を見る。
その頬の紅潮は、俺と同じ、死にそうな白さに変わってた。
数歩後ずさって、自分の腹の深い傷を見つめる。
俺はゆっくり視線を下げ、指に付いた血をペロッと舐めた。
「ふん……」
首をかしげ、ちょっとがっかりした口調で言う。
「お前の血……思ったより美味くねえな。」
「くそっ……てめえ、何だよ――」
「黙れ。」
ギギギンッ!!
鎖が弾け飛び、レンの小柄な体が床に崩れ落ちる。
「……レン?」
その音に、マリンが振り返る。でも、振り返るべきじゃなかった。
「……何……?」
「よお、マリン姐さん。」
俺は手を振って、白子からの一番熱くて、一番美しい挨拶を贈る。
「今夜、最高の夜じゃね?」
ゴリッ!!
その瞬間、レンの硬い頭蓋が、俺の手の中で血の花火となって弾けた。
地下室は、異様な赤で染め上げられた。