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月色の瞳の乙女  作者: 蜜柑桜
第七章 風と呼応
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(五)

 風が頭を覆う布を押す。耳に圧がかかり、絶え間なく続いているはずの豪雨のうねりがどこか遠くで鳴るようだ。叩きつける水飛沫のせいで地面が隠され、眼前に伸びる道はぼんやりとした太い筋にしか見えない。

 馬の足をあらん限りの速度で駆けさせているせいで、向かい風と共に降りかかる粒が余計に勢いを増して身を打つ。

 まるで礫が地に叩きつけるようだ。振動が痛覚となって体に走る。絶え間ない衝撃に瞼を閉じそうになる。だが、逆にそれを喝と読み替え目を見開いた。

 衣を纏わぬ馬の方が、いくら毛があるといっても自分よりずっと辛いだろう。それに、本来ならセレンを襲う雨露の苛烈さはこんなものではないはずだ。

 ——少しは効いているのか……

 寒さで麻痺してきた手を胸元にやり、そこに在る物を握った。触れた肌が冷感で痛みを訴える。だがそれも一瞬で、すぐに体の熱が指先の刺激を和らげた。

 指を閉じればその中にすっぽりおさまる丸みを帯びた玉は、衣の合わせから入り込む雨露にもかかわらず、湿り気すらない。

 水の方が自ら玉を避けている。

 手のひらに受ける硬い感覚に安堵を覚えるのは、それが神の恩寵だからか、それとも先ほどまでクルサートルが身につけていたものだからか。

 ——これを預けるから、必ず戻れ。

「言われなくても……」

 ふと笑みが漏れる。ああいう言い方をするあたりがずるい。相変わらず人に素直な優しさを見せない人間である。

 走り始めてもうしばらく経つ。左右の建物がまばらになってきた。そろそろのはずだ。

 すると案の定、道の先に色の異なる部分が現れた。下手をすれば雫が眼に入り込みそうではっきりとは見えないが、恐らく間違いない。目を細めれば、狭くなった視界の中、無数に落ちる雨の線を超えた先に目的の物が浮かび上がる——橋だ。

 ——あの先か。

 修道院は川を超えたらさほど遠くないと聞いた。セレンはひと声上げて馬に覇気を与え、脚を速めさせる。もうわずかもすれば橋へ踏み込む——そう確信した時である。

 急に思わぬ方向へ手が引っ張られ、体が大きく傾いだ。馬が勢いよく首を振ったのだ。反射的に手綱を握りしめるとけたたましい(いなな)きが上がり、騎乗したセレンもろとも馬の身が大きく踊った。落とされまいと必死で手綱を操るが、セレン自身も鼓動が早鐘を打つのを無視できない。目の前に予期せぬ惨状が現れたのである。

 あるはずの橋が無いのだ。

 岸に接した橋台の上部には、上向きにやや傾斜した橋の面と防護柵が残っている。だから遠目からは確かに橋が向こう岸へかかっていると錯覚したのだ。しかし不鮮明な視界の中で向こうまで伸びているように見えた橋は、木板の継ぎ目部分で見事に途絶えていた。強風の揺れを受け続け、耐えられなくなったのだろう。

 もはや残骸に等しい橋の下では激流が飛沫を上げているのが否応なく目に入る。そこまで水嵩が増しているということだ。

 川はとても馬で飛び越えられる幅ではない。濁流を前に蹄は止まり、今にも手綱を振り切って踵を返してしまいそうだ。

「大丈夫。落ち着いて。何とか渡れる場所を……」

 心にもない励ましを喉から搾り出しながら川の上流へ首を回す。そして再び視線を正面に戻した時、今度は別の理由でセレンの心臓が大きく打った。

 壊れた橋を超えて川向こうに現れた姿はまだ記憶に新しい。騎乗していても分かる長身に、被り物から溢れる短髪、そして何よりこちらを見据える飴色の瞳。

 ——メリーノ……!

 途端に蓋をしていた感覚が蘇り、濡れた肌に手指が素早く這うような不快さが走る。

 なぜこんなところへという疑問が一瞬浮かんだが、先ほどクルサートルたちと修道院への道を確認した際、確かに地図上の対岸には国境へ抜ける道があった。

 他に人影は見えない。単独なのか、それとも後ろから供の者が現れるのか。恐らく向こうもこちらに立つのが誰か分かっただろう。今のセレンは変装も何もしていないのだ。それなら川を隔てているからといって、あのメリーノが何もせずにいるはずがない。

 仕掛けてくるとしたら矢か。対岸から目を離さぬまま頭の中で退路を描く。この暴風雨の中では動きが限られる。次の一手を誤ったら命取りになりかねない。馬が下手に動かないよう背にそっと手を置いて落ち着かせ、自らも震えを殺そうと唇を噛む。

 そう経っていない。不意にメリーノの腕が振れ、咄嗟にセレンは腕を掲げた。

 だが縮こまらせた身体に覚悟していた衝撃は無く、飛翔物が空気を震わす気配もない。五感が覚えるのは先ほどから変わらぬ調子で降り注ぐ雨風のみである。

 ——何が?

 肩透かしを喰らい警戒が疑問に差し代わるまま、頭を庇った腕をずらす。袖の向こうに垣間見えたのは、全く予測しない姿だった。

 こちらを向いたままのメリーノの右腕は、武具を構えるのではなく水平に掲げられている。そしてセレンを見つめる瞳が強く訴えていた。「見ろ」と。

 メリーノから目を逸らした隙に仕掛けやしないかという警戒が無かったわけではない。しかし同時に、そんな疑念は他人事のように捉える稀有な感情が生まれる。

 自分の中にもう一人別人がいて、その者が操っているのだろうか。セレンは半ば茫然とメリーノの指先を追っていた。飛沫を上げる川面は遠くに行くほどに両側の石壁との境が分からなくなる。

 だがぼやけた輪郭ばかりの中に、宙にはっきりと浮かび上がる濃い色の曲線があった。いや、宙にあるのではない。薄灰色の両端が陸や石壁と同化してそう見えるに過ぎず、一本の線でもなく格子のようだ。茶に近い臙脂の線と思われるそれは、橋だ。

 ――あそこを渡れと?

 まさか、という思いしか浮かばず即座にメリーノを見返すが、先方は再び目が合うと深く頷いた。まるでセレンが橋を認めたのを確認するように。

「何を考えている」

 口をついて出た問いが聞こえるはずもない。しかしその次にはメリーノの唇がはっきりと動いた。

 ――行け。

 そう告げるや馬の腹に蹴りを入れると、橋とは逆側へ走り出した。

「待っ……」

 メリーノを乗せた馬が止まる気配はない。セレンは思わず発した呼び止めを切り、自分も馬に喝を入れた。

 疑念で止まっている時間は無いのだ。それよりもやるべきことがある。

 豪雨で掻き消されているはずなのに、遠のく蹄の音を背後に聴く錯覚に戸惑いを覚える。思考のぶれを消そうと、次第に明瞭になる橋の姿に意識を集中させた。

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