かれいなるミズアオイの絶望
とある事故。
悲惨な結果をも想起させる惨事により、水葉葵は入院する運びとなった。
水葉葵は美しかった。そつのない雰囲気、嫌味のない態度は、彼女の能力以上に彼女を素晴らしく見せていた。控えめで、いつも周りに不快感をもたらさない彼女は、周囲からは憧れや畏怖、ごくまれに嫉妬などの感情に囲まれていた。
また、その出で立ちは、ときに死人のようだと揶揄されることもあった。
そんな葵は、精神病院に運ばれた。
「なんなの、時成くん」
葵は病室にて顔をしかめた。時成と呼ばれた男は、紙を丸めたように笑った。時成は葵のおさななじみだった。幼少期より後は、あまり頻繁に遊ぶわけでもないまま、徐々に遠ざかりかけていた。
「そんな顔すんなって」
葵に差し出した花は、沢山の黄色い小花の集まったブーケ。
「ひなこが持ってけってうるさいからさ」
「ああ、ひなこが、ね」
葵は憂鬱そうにそれを受け取った。
「葵にちなんで、ミズアオイにしたかったらしいんだけど、そんな花は花屋にないらしくてさ。」
「いいって」
葵は無表情に言った。それから、病床に倒れ込んだ。
「あ、じゃ、俺はこれで」
「時成くん」
「あ?」
「ひなこに、お礼よろしくね」
うなずいた時成が退室すると、葵は目を閉じた。
その体は微動だにせず、何時間か過ぎた。
夕闇が病室を染めていた。
「水葉さん」
声がして、扉が開く。
「あらあら、電気もつけずに、暗いままで……水葉さん?」
人影は夕闇の部屋で慌ただしく動き回り、やがてつぶやく。
「まさか、どこへ……」
「何もわからなかった、この世界も、なにもかも」
葵は歩道橋の上にいた。しがみつくように手すりにもたれ、微動だにしない。ささやき声は、誰にも聞こえない。
「やっぱり、もうわたしは……」
「葵!」
叫びがして、人が駆けてくる。都会的な服装の女性が、血相変えて駆け上がってくる。
「ひなこ」
にじり下がり、葵は踵を返した。病院着にスリッパのまま駆け出す。
「どうやって出たの、みんな心配するから、待って!」
駆け出した葵は、死にものぐるいの様子で走り去る。ひなこはわざとらしく大声であたりを振り返らせながら、追う。
「待って!」
「きれい」
水葉葵はさらに高くに上っていた。
勝手に上ったであろう非常階段。十数階まであるその向こうは、フェンスで阻まれていた。暗い夜闇のなか、遠く遠くに星のような街灯。
「ぜんぶ、こうならいいのに。」
フェンスの隙間から指を入れて、葵はつぶやいた。涙のあふれるまま、わざと目にためて、目の中で涙を揺らしていた。
しばらく葵は呆然と、風景を眺めていた。
涙の粒が落ち、目の水分が減ると、葵はうつむいた。
しばらくして。
ひなこは自分の住むマンションの非常階段にいる葵を見つけた。葵は暗くなっても、ずっとそこにいた。
「現実は牢獄なの。本当の世界は淡い虹色で、自由に飛び回れる。どこまでも行ける。何も悩みなんかない。なのに……」
「あのさー」
ひなこは隣で呆れたように言った。葵は遮った。
「いいの、よくある綺麗事は。わたしはどうせたんぽぽの種ですよ。」
「芽を出さないくせに?」
「海に落ちるからね」
「やめてよ、趣味悪い」
ひなこは呆れたようにまた言った。缶ビールを開ける。葵はずっと無表情だった。
「飲みなさい、あんたも」
「むしろ病む」
「めんどくさ。」
ひなこはため息をついた。葵は下を見つめた。
「空は広いよね。わたしはあの空を埋め尽くす、巨大な何かになりたい」
「なれば?気持ちだけでも」
「そうよね」
フェンスと壁の隙間に足をかける葵を、ひなこはあわてて止めた。
「落ちたら、原型ないから!あんたどうせキレイに見せたいんでしょ!?」
「そんなの関係ない」
「やめて!わー!」
ひなこは葵を引っ張り、葵ごと後ろに倒れた。
「いたい」
「ごめんなさい……」
ひなこは小さく震えた。葵の顔は死人のように真っ白だった。
「やっぱり、わたしなんて」
「葵……」
葵はすると、ひなこのほうに倒れた。ひなこは葵を支えるしかなくなったが、そのさいにこぼした。
「ちょっと、重い……いや、軽い……軽すぎる!」
ひなこは葵の手首をとった。骨のようだった。
「そっか。自分を閉じ込めてたのは、自分だったんだ……。」
葵は飲みすぎて空になった薬瓶を見た。用法用量を守らないと、途端に危険になる薬は多い。周囲の注目にいつもさらされ、逃げ場すらなかった葵は、内面の自己批判に耐えられずにいた。そして、手っ取り早く評価されるために見た目にとらわれ、過剰な量のやせ薬に手を出していた。
かつて栄養失調になっていった葵は、思考力が落ち、あらゆることにおいて、常に自分を責めるようになってしまっていた。
「もっと、もっと……」
薬瓶は大量に空になり、部屋の隅に転がっていた。
そして、あの事故が起こった。 葵は倒れ、しばらく見つからないまま、数日自室に倒れていた。
病室に戻された葵は、かたくなに言った。
「でも、食べられません」
葵はあまり食べなかった。その骨のような手首を、やせこけた頬を、浮きすぎたアバラを、まったく気にもとめなった。
時成はそこへ差し入れをした。
「みろよ、アザラシなんて脂肪の塊だし、豚はきれい好きなだけで適正体重なんだ。太いほうがかわいいとされる地域にいけば、お前どうなると思う?」
「そんなこといわれても……」
葵はすると、時成に聞いた。
「あの、なんか臭わない?」
「あ、これ?さっき買ってきたカレーパン。新しくできた店がさ、すっごいうまそうな香りをさせてて、もう街中がカレー臭でさ」
「えー」
「じゃ、食べてみるか?」
「え」
葵はえぐれるほどに肉のない腹を押さえ、不安そうに時成を見た。時成はカレーパンのつつみ紙を剥いでいた。
「ほらほら」
「……油っこいよ、絶対」
「一口だけ、一口だけだから」
「…………じゃ、一口だけなら」
しばらくして。葵は退院した。ひなこは時成に聞き、叫ぶように聞いた。
「え、カレーパン!?なにそれ!」
「おかげで、葵はなんか丸くなってきた。もういつもほのかにカレーっぽい香りだ。でも、前よりはかなり元気そうだ。」
「……細かったもんね、あの子。骨格標本とか陰口してたやつもいたし……」
「なんだそれ」
さらにしばらくして。
時成とひなこは、電車に乗っていた。人混みのあふれる大きな駅には、染めたように青一色の人だかり。
「なんだかんだ、あの子はいつも私達を振り回すのね」
ひなこは笑った。
「わたし、星になる。この広い宇宙の、いっぱいの星の、いちばんおっきいのになる」
葵は笑った。マイク越しの声がホールじゅうにひびく。
「だからみんな、よろしくね」
ひなこと時成は手を振った。歓声の向こう、遠くに輝く星のようなアイドルに。
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