氷の令嬢と優しげな従者
「クレア・ヴァレンズ! 君との婚約は破棄させてもらうっ‼」
多くの学生がいる図書館に響き渡る宣言。それまで目の前の友人と話をしたり、本を片手に勉強をしていた貴族の令息令嬢たちの視線が一斉に一組の男女へと集まる。
婚約破棄を言い渡したグレイブはこのガブス皇国の第三皇太子で、普段はまるで本から飛び出てきたような王子様然とした柔らかい顔をしているのだが、今こうして私の視線の先で多くの従者に止められている彼の少し赤くなった顔は、年相応の子供のようにしか映らなかった。
婚約破棄を言われた公爵令嬢、つまり私の主人であるクレアはというと、グレイブの発言などまるで意に介していないかのように澄ました顔で、両腕を体の前で組んだ。
「あらあら。口で勝てないからと言って、ご自身の地位を振りかざすのはお止めになった方がよろしいですわよ?
お父上であらせられるガブス皇帝の威を借りる愚か者、と陰口を言われたくなければの話ですけれど」
「クレアだって自分の方が年上だからと散々威張ってくるじゃないか! たったの一つしか歳が離れていないのに!」
「クレアだなんて馴れ馴れしくお呼びになるのはお止めくださいまし。貴方様が高らかに命じた通り、私はもう貴方様の許嫁ではございません。ヴァレンズ公爵令嬢とお呼びください。
許嫁ではありませんので、これ以上お話する必要がございませんよね?
私も公爵家の娘として忙しい身。用事がなければ失礼させていただきますわ」
頭に浮かんだ言葉を言語化出来ずにまごついているグレイブをその場に残し、クレアは後ろを振り返って図書館の出口に向かって悠然と歩き出した。従者である私は主人に先んじて扉の前に立つと、出口のそばにいた学生に会釈をしながらドアを押し開けて、クレアが通りすぎるのを待った。
クレアが廊下へ出てそのままどこかへと向かおうとしている。扉をそっと閉めてすぐに追いつこうとしたが、彼女が図書館から出ていったのを皮切りに学生たちが一斉におしゃべりを再開した。
「アレが公爵家の末娘?」
「なんだか鼻持ちならない性格してるね」
「皇族に対してあの慇懃無礼な態度、ヤバすぎるでしょ?」
「よっぽど甘やかされて育ってきたんじゃないか?」
「よくグレイブ様も我慢してたよ」
「いや、噂によると実はこれまでも何回か破談の話はあったらしいぜ」
「それなのに未だに婚約が解消されていないの?」
「多分、あのワガママな令嬢がヴァレンズ公爵に泣きついて事態を収めているんだろうよ」
「なにそれ。最低じゃん」
「あんな主人に従わなきゃならないなんて、ユノ先輩可哀想」
自分の名前が出てきたのでつい扉を閉めるのを途中で止めて、振り返って背後にいる女生徒へ声をかけた。
「失礼します。今、私の名前を呼びませんでしたか?」
まさか反応するとは思っていなかったのか、それとも私に話しかけられて緊張しているのか、その女生徒と周囲の友人たちは一瞬固い表情をしたが、すぐにそれを軟化させ、まるで媚びを売るかのように笑顔で答えた。
「あ、聞こえちゃいました? 実は前々から思ってたんですよ? ユノ先輩大変そうだなって?
ここだけの話、あんな無愛想で可愛げのない、親の権力を笠に着ている十五の小娘の相手なんて辛くないですか?」
「主従関係において、そのような個人的感情は必要ありません。主人の為に尽くすのが我々従者の役目であると、幼い時から言いつけられておりますので、
それと、クレアお嬢様の年齢は十五ではなく十六ですよ?」
「でもでも、実際のところはどうなんですか? うんざりしません?
もし、ユノ先輩さえ良ければあんなヤツじゃなくて私の従者に……」
「それ以上の発言はお気をつけになられた方が良いですよ。ヴァレンズ公爵家がこのガブス皇国に置いてどれだけの地位を得ているのか、ご存知ない訳ではないでしょう?
従者とは主人の所有物。ヴァレンズ公爵家の所有物を奪おうとするなんて、どんな報復が与えられるのか分かったものではありませんよ」
私の発言にその女生徒と取り巻きの顔から血の気が引いた。少し脅しすぎてしまっただろうか。溜飲は下がったが、あまり主人の家名に悪評を広げるような真似は良くなかった。
反省した私は彼女たちへまがい物の笑みを浮かべながら落ち着かせる。
「まぁ、私ごときにそんな価値は一切ありませんがね。いくら公爵家といえども、従者の譲渡程度で権力を振りかざすなんて下品な行いはしませんよ。
それに、私がクレアお嬢様に仕えているのは単に祖父の代からヴァレンズ公爵家に忠誠を誓っているからだけではありません。私自身がお嬢様を主として認めているからこそ、お側にお仕えしているのです。
従者の仕事はただ主人の命に従うだけではなく、いざという時に主人の過ちを正し導くこと。クレアお嬢様にはまだ私が必要なのです。
貴方からの申し出には大変感謝しておりますが、そのお心遣いだけで私には充分なのですよ」
感謝の言葉が効果的だったようで、女生徒たちはややうっとりとした表情で満足したかのように頷いた。
私は頭を下げると図書館から廊下へと出た。既にクレアの姿はどこにもなかった。
クレアの姿を見失った私は歩くスピードを少し早めながら校舎から出ると、裏庭にある今は使用されていない旧校舎を目指した。途中何名かに話かけられたが、先を急いでいる旨を伝えて丁重にお断りさせてもらった。
迷路のような背の高い生け垣を抜けると、まるで魔法使いが気まぐれにこの場所へ召喚したかのように、この学園の似つかわしくない少し黒ずんだ外壁の寂れた建物が突如として目の前に現れた。
一言で旧校舎を表すならば幽霊屋敷だ。外装もさることながら、その建物から醸し出されるオーラが以前にこの校舎の中で何やら恐ろしい事件が起きたと近づいた人全員に感じさせる。最近では誰もいないはずの旧校舎から女性の泣き声が聞こえてくるそうだ。学生はおろか教師陣も誰一人としてこんな建物に好きこのんで入りたくはないだろう。
私はそんな曰くつきの旧校舎へなんの躊躇もなく足を踏み入れると、足元が軋む階段を昇っていき、二階のある教室の前に立った。耳を済ませると、中から啜り泣くような声が聞こえる。
扉の前で一度ため息をつくと、私は覚悟を決めてドアを軽くノックした。ドアに嵌った曇り硝子がガタガタと音を立てる。泣き声が止む。
「ユノです。入りますよ?」
数拍待つが教室の中からは何も音は聞こえてこない。拒否されている訳ではないと判断し、私は引き戸を開けると、目の前には一人の女子生徒が立っていた。
「わっ⁉
……びっくりしましたよ。心臓に悪いから人を驚かせる行為は止めてください。聞いてますか?」
音もなくドアの前に立っていた我が主に注意をするが、私の顔を見上げたクレアの潤んだ瞳を見る限り、どうやらそれを聞き入れる余裕はないようだ。
主人の醜態を他の誰かに見られる前に私は後ろ手にドアを閉めた。見計らった訳ではないだろうが、私の動作と連動してクレアが唇を震わせながら泣きついてきた。
「うわぁぁああぁぁぁん‼ またやっちゃったよぉぉ‼
どどどどうしようユノォ? 私嫌われちゃったぁぁ‼」
「そうですねぇ。嫌われましたねぇ。今月に入って三回目の婚約破棄ですねぇ。今年からだと何十回目でしょうねぇ。付き合うこちら側も疲れたので、いい加減本当に破談になってくれると嬉しいんですが」
「なぁぁんでぇそんなことぉ言うのぉぉぉおおぉっ⁉
ユノ君なんか嫌いっ‼ だいっきらいだからっ‼」
そう言いながらもクレアは俺に抱きついて離れようとはしない。本気で思ってもいない事をすぐに口走るのは辞めた方が良いと小さい時から何度も注意しているのに、この歳になっても感情の振れ幅が大きくなるとついその癖が出てしまうのだ。
私が慰めるように背中をさすってあげると、少し落ち着いたのかクレアの泣き声が数オクターブ小さくなった。
「グレイブ様にもこうして弱みを見せてあげた方が良いと私は常々思っているんですよ。お姉さんぶって無理に冷静な態度を取り繕うから、冷徹な人間だと周囲に間違った印象を持たれてしまうんです」
「で、でもぉ、私はヴァレンズ公爵家の人間だしぃ。グレイブ様と結婚する為にも、もっと威厳のあって気品あふれる淑女にならないとぉ……」
「威厳や気品という物は経験や年齢を重ねる事で自然と身についていく物です。十代そこそこのガキが身につけようと思って簡単に身につけられるものじゃありませんよ。
それに、今この姿の何処に威厳や気品がありますか? まるで友達と喧嘩した子供じゃありませんか?
いえ、親でもない従者に泣きつく辺り、幼児レベルかも知れませんね」
私に責められて一瞬更に泣き出しそうになったが、子供以下と言われたのがよっぽど堪えたらしく、うぅと言いながらもようやく泣くのを止めた。俺の腰にしがみついていたクレアの腕が離れる。
私はせっかく泣き止んだばかりだというのに目の前にいるクレアを煽った。
「やっと落ち着きましたか。
どれどれ? どんな情けない顔をしているのか私に見せてもらいましょうか……って、うわぁっ‼」
俺がクレアの顔を覗き込もうと中腰になると、今度は首に両腕を回して強く抱きついてきた。
私の言葉に腹がたったのか、涙で汚れた顔を見られたくなかったのか、それとも泣くのを我慢する為なのかは不明だが、あまりに強く抱きしめてくるので首が締まり、息が苦しくなる。
俺は歯を食いしばって我慢をしながら、右肩に顔を埋めているクレアに話しかけた。
「クレアさん? 心臓の音、聞こえてる? お兄ちゃん、首が苦しくて死にそうなの。ほんのちょっとで良いから、腕の力を弱めてくれると助かるんだけどなぁ」
「……私の事をイジメるからヤダ」
「イジメてないイジメてない!
妹みたいなクレアをイジメる訳がない!」
「……普段は主人を馬鹿にする癖に、都合の悪い時ばっかり妹扱いするの、ホントに性格悪いよ」
俺の胸の中でそう毒づきながらも、クレアは腕の力をほんの少し弱めてくれた。
私はこのまま中腰だと疲れてしまいそうなので、抱きついている主人に一声かけた。右の方からくぐもった唸り声が聞こえた気がしたが、首に回っている腕は解かれていないので同意したとみなし、右腕でクレアの腰を、左腕でクレアの両脚を支えると、そのまま抱きかかえて近くの机に腰掛けた。
まるで小さな子供のように抱きかかえられている主人は、ようやく顔をあげると不服そうにしかめっ面で私を見上げた。
「どうしました? 何かご不満でも?」
「別に。ただ、なんか腹立っただけ」
「腹が立つようなことなんてありましたか? 今は私、何も言っていませんよ?」
「自分が人を怒らせる発言をしている自覚はあったんだ。
いやね。きっと、この学園でユノ君を狙っている人たちは皆こうやってお姫様抱っこをしてもらいたいんだろうなって思って。そう思ってちょっと優越感が出た自分に腹が立ったの。
ユノ君もさ。私なんかに気を使わずに自分の事をもっと考えても良いと思うのだけど?
高等部の女子生徒のほとんどがユノ君に夢中だって、中等部でも話題になってるよ?」
思わず舌打ちが出そうになった。
思春期真っ盛りで異性に興味を持つのは構わないが、この学園の令息や令嬢たちはなぜよく知りもしない相手にそこまでの好意を抱けるのだろうか。興味も無い相手から向けられる愛の言葉ほど虫酸が走る物はない。
俺の好きな色や食べ物、嫌いな人間なども知らず、普段俺がどんな言葉を紡ぎ、心を動かされるのかも理解していないのに、よくも俺を好きだと言えた物だ。
妄想の中の俺を愛でるのは勝手だが、迷惑だからそれを現実にまで持ち出さないでほしい。
負の感情が顔ににじみ出てきてしまったのか、クレアの目に戸惑いの色が浮かんだ。
「大丈夫? どうしたの? 何か怒らせるような事でも言っちゃった?」
私は顔を大きく左右に振りながら、煮えたぎっていたその感情に蓋をした。
「いいえ。ただ、私がついていないとクレアが心配だなと思っただけですよ。こうして素を出せる相手が私以外にはご両親とお姉さましかおらず、この学園でも友人が片手で数えられるほどしかいないではありませんか。
それなのに、ほぼ毎日のように口喧嘩をしているグレイブ様への悩みを一体誰に吐き出すと言うのですか?」
その言葉でクレアは現実に引き戻されたらしく、また瞳が潤みだした。
抱きつかれるのは別に構わないが、他の男を想って流れた涙を見るのは少し癪に触るので、俺は、私は励ましの言葉を送る。
「大丈夫ですよ。グレイブ様も口喧嘩の延長であんな事を言ってしまっただけで、本気でお嬢様を嫌っている訳ではありません。現に何度も婚約破棄を宣言されていらっしゃいますが、翌日には普段通り話しかけてくるではありませんか?
好きな相手に素直に応対する事が出来ないだけですよ。まるで似たもの同士。お似合いのカップルですね」
「そ、そうかなぁ〜? え、えへへっ。ありがとう、ユノ君。
やっぱり、なんだかんだ言ってもユノ君は優しいお兄ちゃんだね」
無垢な笑顔を向けるクレアを、その顔が苦痛で歪むほど強く抱きしめたいという衝動に駆られる。
面倒見の良い兄を演じ続けるのも限界に近づいている気がした。
小さい頃から俺の気持ちにこれっぽっちも気付かずにこうして抱きついてくる、無警戒なこの可憐な少女をグズグズに甘やかして、ズタズタに愛を思い知らせてやりたい。
きっと、優しいこの娘はこんな異常な俺を受け入れてくれるだろう。
だが、そうして俺の事を受け入れてくれた少女は、果たして俺が壊したいくらいに愛している少女と同じ人物のままだろうか。
俺の一瞬の欲求のせいで、この娘の顔から輝くような笑顔が消えてしまうかもしれないと思うと恐ろしくなって躊躇してしまう。
結局、俺はいつものように黒く汚れた想いを胸の奥底に沈めて、ぎこちない笑顔で主人をからかうのだった。
「ま、こうして甘えられるようになるのはまだまだ当分先でしょうけどね。
もしかしたら、イメージと違っていてドン引きされてしまうかもしれませんよ?」
「せっかく褒めたのに、すぐ、そうやって意地悪言う!
本当にユノ君なんか嫌いっ‼」
抱きつきながらそんな事を言っているクレアを見て私は笑った。
いつまでこうして笑っていられるかは分からない。グレイブと真剣な付き合いが始まったら嫉妬に狂ってしまうかもしれない。
けれど、今はこうして笑っていよう。
可能な限り良い兄として振る舞える事を祈って。
先月の短編集で令嬢物を書いていた時に思いついた話をまとめてみました
いやぁ、ハッピーエンド?で良かったですね
他にもいくつか考えた話があるので、長編を投稿しながらポツポツと書いていこうと思います