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第五章

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 潮風が髪をさらって気持ちがいい。朝は波が高かったが昼頃になるとやや落ち着いた。空が青々としていて岩場の影は濃く、こんな日でもなければ海岸沿いの散歩でもしようと思えたはずだ。


 私が駆け込んでも相手にしなかった警察も、どうやらトスカーニが間に挟まると違うらしい。警察官や複数のボート、ダイバーが派遣され、物々しい雰囲気で海蝕洞の調査は始まった。それを見守る私の側には、アドルフォ、ルカとイヴァーノ、そしてピエトロがいる。

 今回の捜索範囲からして、一時間もあれば作業は終わるだろうと言われていた。隣に立つピエトロは、こんな時だというのに相変わらずの無表情だ。何を考えているのかもわからない様子に失礼ながら少しだけ不気味さも感じた。


「お二人さん、岩場で立ってるの疲れない? 向こうのベンチにでも座っていなよ」


 アドルフォは私たちの方を向いてそう促した。

 あの海蝕洞には私の彼氏──そしてピエトロの兄弟がいるかもしれないのだから、より気を遣ってくれているのだろう。


「ピエトロ、行こう」

「そうだな」


 二人で海を背にするように設置されたベンチへと向かう。すれ違いざまイヴァーノは何か言いたげに口を開いたが、結局声にならないままそれは閉じられた。


 遠目にボートが海蝕洞へと接近していくのを見守る。

 あのボートにはジャンが乗り込んでいるらしい。この件にあまり乗り気でなさそうな彼があそこにいるかと思うと、何だか少し意外に感じた。


 ボートが完全に姿が見えなくなったところで、私たちに近づいてくる誰かの気配に姿勢を正す。それはルカだった。


「向こうはしばらく時間がかかるだろうし、ちょっと話を聞いて欲しい」

「話?」

「そう。全ての情報を集約して推測した、僕なりのまとめだよ」


 そうして彼は、まるで推理ショーをする手持ち無沙汰な探偵の如く、辺りをうろうろと歩き始めた。


「僕は最初、カルロ・ドナーティは事故に合った可能性が高いと考えていた。普通の大学生だし、そこまで素行に問題があったわけでもなかったからね。で、昨日も言った通り彼のSNSを辿って──もしかしたら趣味の釣りに出て、川に落下した可能性があるんじゃないかと思った。だからまず、夜勤明けのイヴァーノを現地に向かわせてある程度の範囲を探索した。事故なら釣り道具なんかはそのまま残っているはずだから、何かしらの痕跡(こんせき)は見つかるかと思ったんだ」


 私が顔を上げると、ルカは「バイトのヘルプの話は嘘だよ」と少しばつが悪そうに言った。側で成り行きを見守っているアドルフォは、何を言うでもなく指先で無精髭の生えた顎を撫でている。


「結局川べりでは何も見つけられなかった。予想が外れたかと思ったけど、カルロ・ドナーティの机の周辺を漁ってて出てきたのがこの書類」


 そう言って彼が差し出してきた紙を受け取る。その書面を見て、私は思わず「あっ」と声を上げてしまった。


「カルロ・ドナーティは生命保険に入っていた。受取人はユキさん」

「これは……」

「正式なものだってのは、昨日イヴァーノに保険会社へ行かせたから間違いない」

 ルカの言葉にイヴァーノは頷く。


「失踪じゃダメだって。遺体が見つかって、なおかつ受取人との間に事件性がないと確認されないと保険金は下りないって言ってた」

「これを発見した時点で、僕は保険金殺人の可能性を思い付いた」


 私の震える手からルカは書類を取り上げた。

「もちろん、これだけで決めつけたりはしないよ。話したいことはある?」


 緊張からか、ルカの声が膜を隔てたように遠くなる。頭が真っ白になる中、私が絞り出した声は震えて情けないものだった。


「……付き合って二ヶ月で婚約の話をされて、私は軽く流してたの。そうしたらカルロが本気だって証としてこれを」

「……そっか」

 歯切れの悪いルカの返事に私が次の言葉を選んでいると、次に話し出したのはピエトロだった。


「カルロはそういう奴なんだ。恋人には一直線。依存まではいかないけど、下手したら引かれそうな事までしてしまうっていうか……まあそんな感じ。ユキの嘘じゃないだろう」

「あ、ありがとう……」

「別に」

 私のフォローをしてくれたのだろう。お礼を言うと、彼はそっけなく顔を背けた。


「隠してたわけじゃないけど、言わなかったのはごめんなさい。怪しまれて当然だと思う。でも私はお金のためにカルロを殺したりなんかしないから!」


 私は少しでも誠意が伝わればいいと必死でルカの瞳を見つめる。するとそんな私に落ち着けとでもいうように、彼は手のひらをこちらに向けた。


「そうだね、確かにユキさんはお金のために恋人を殺すようなタイプには見えない。……でもじゃあ恋人から、自分を守る為に口裏を合わせてほしいと言われたら?」


 しばらくの沈黙の末、不意に私の横に座っている彼が微かに鼻で笑った。


「つまり、お前が言いたいのは俺が──」


 その時、タイミングがいいのか悪いのか、彼の言葉を遮るようにザザザ、と機械音が響いた。

 それはアドルフォの右手に握られていた無線からだ。無線のもう一方はボートに乗っているジャンが持っていると説明を受けている。

 無線機越しの乱れた声だったが、聞き取るには十分だった。


『アドルフォ、遺体が見つかった』


 息を飲んだのは私とルカ、イヴァーノだけで、この場にいるあとの二人はやけに冷静だ。アドルフォは焦らすように緩慢(かんまん)な動作で無線機を口元へ近づけた。

 ……いや、そう感じたのは私が焦っているからだろうか。


「顔の判別はつく?」

『ちょっと酷いけど、探してた彼だろうね。黒髪、茶色のジャケットにジーンズ』


 二、三言交わすと、アドルフォは通信をやめて無線機を切った。


 その場に聞こえるのは波の音、少し遠い街の雑踏のざわめき、それだけだ。どうやら私たちが話し出すのをじっと待っているようだった。


「──もうやめよう、無理だよ」


 私がそう切り出すと、隣に座っていた彼はやや不服そうに深く鼻から息を吐き、ただベンチの背もたれに背中を預けた。私はそれを了承の意ととり口を開く。視界がぼやけるのは、涙腺が緩んでいるからだろう。

 それは"ピエトロ"の死をようやく自覚したからなのか、大変なことをしてしまったという後悔からか。いや、きっと全てだ。


「私たちは嘘をつきました。遺体はピエトロ。カルロは今、ピエトロのふりをしてる」

 カルロは相変わらず黙ったままだった。


「川で言い合いになって、揉みあってるうちにピエトロが足を取られて転んで、岩場で頭を打ったって……体は川に流されたってカルロから連絡がきたの。すぐに探そうって言ったけど」

「──保険金?」

「自分が死んだことにすれば大金が手に入るって。……でもそれよりなにより、下手したらカルロが捕まるかも、そう考えたら──」

 私はルカの真っ直ぐな視線に耐えきれず手のひらで顔を覆った。


「そしてトスカーニを頼ったんだね。自分達で通報すれば、まず警察に疑われる。誰かに見つけてもらうことが重要だった」

「……早く引き上げてあげたかった。いつまでも水の中なんて……。こんな仕打ちをしておいて、って思われるかもしれないけど」

「……たとえ本当に事故だったとしても、その後の行動に関しては複数の罪に問われる可能性が高いよ。ユキさん、それからあんた」

 ルカはカルロの方を向き顎をしゃくりながら言った。





 私たちは拘束される様子もなく、そのままベンチに座ったままだった。彼らのぽつぽつとした会話からして、ジャンが合流するのを待っているらしい。

 この後はどうなるのだろう。いや、考えなくてもわかる。警察に突き出されるのだ。どうせこの計画がうまくいったとして、私とカルロの関係が破綻(はたん)するのはわかっていた。

 ピエトロの死を利用しようとした──その罪悪感は日に日に増すばかりで、常に不安が付き(まと)った。

 こうしてルカに罪が暴かれた今、ある意味では解放されたような気分だった。今夜はきっと、悪夢を見る間も無く深く眠りにつけるのかもしれない。


 ベンチにだらりと投げ出されたカルロの手を見つめた。腕時計が鈍い色で反射している。

 そういえば、この腕時計は確かにピエトロのものだ。いつも肌身離さず身につけていたもの。きっと"あの日、あの時"だって彼が着けていたはずだ。

 ……それなのに何故、カルロはこれを持っているんだろう?

 思考することを拒否するように、私はぼんやりと疑問だけを脳裏に浮かべていた。



「殺人だよ」


 足音も気配もなかった。

 ベンチの背後から現れたジャンは、唐突にそう投げかけた。その声色はこちらを責める様子もなく、ただ単に事実を述べるのみだ。


「遺体の擦過傷(さっかしょう)なんかは流されるうちに生じたとしても、恐らく致命傷だろう頭部にあった複数の傷は明らかに打撲によるもの。通常、転んで頭を打ち付けたなら前頭部、後頭部もしくは側頭部につくことが多い。でもあの遺体の傷は頭頂部付近にあった。なにかを振り上げて殴られたような位置だ」

「え? ちょっと待って……」

 私は背後のジャンに向き直った。


「正確な死因については司法解剖を待ってみないとわからないけど、あの傷に殺意があったことだけは確実と言える」


 ジャンは背もたれに手をかけると、背後から私の顔を覗き込む。太陽を背にする形の彼の顔は影がかかり、瞳だけがどこか怪しく反射していた。


「君の隣にいる男は──殺人の容疑者だ」


 思わず反射的に立ち上がった。ベンチに座っているカルロは俯いていて表情が見えない。彼は祈るかのように両手の指を組んでいた。

 まさか、彼は本当に意図的にピエトロを──。


「ごめんねユキ」

「え?」

「思ったより遺体が見つかるのが早かった。もう少し損傷が激しければバレないかと思ったんだけど……」

「……カルロ?」


 いつもと変わりのない声色にゾッとしたものを感じた。持ち上げられた手は涙を拭うのかと思いきや、眼鏡を持ち上げるに止まる。伏せられた顔に後悔の色は果たしてあるのだろうか。

 彼に向かって手を伸ばしたけれど、それが届く前に背後から両肩を引かれ、私たちは距離を取ることになった。肩を包む大きな手はずっと静観していたアドルフォのものだ。

 アドルフォは正面からカルロを見つめた。


「保険なんてどうだってよかったんじゃないの? 君の目的は別にあったんだ」

 その言葉を受けてルカがゆっくりと歩み寄ると、私とカルロの間に立つ。


「──あんたさ、本当にカルロ・ドナーティ?」


 彼の言葉を上手く理解することが出来ず、私は情けなく口を開いたまま固まった。


「あんたは家でフランス語でレポートを書いていた。授業を受けていたのはピエトロ・ドナーティだ、当然あんたがフランス語を出来てもおかしくない。けどユキさんは何故かやたらと驚いていた。それは、ユキさんがあんたがピエトロ・ドナーティになりすましたカルロ・ドナーティだとわかっていたから。──いや、そう思っていたからだよ」


 ルカは横へと顔を向けた。その先にいるのはイヴァーノだ。彼は悲しそうに眉尻を下げたまま、訥々(とつとつ)と語り始めた。


「昨日、俺は保険会社に行った後、ピエトロさんのことを色々聞き回ったんだ。ルカがSNSを辿ってリストアップした人に会いに行ったり、連絡をもらってバイト先も探した。みんな何も変わらずいつも通りだったって言ってたよ。バイトの業務も何も問題はなかったって」


 ルカがそれを引き継ぐ。

「いくら顔が同じでなりすますにしたって、全くボロが出ないなんてありえない。授業も、仕事も、人間関係も」

 彼が大きな身振り手振りを交えてそう言ったが、私は首を横に振った。


「……嘘だよ。そんなの」

「信じられない気持ちはわかるけど、彼ら兄弟は距離を取ってたんでしょ。なのにどうやって、カルロ・ドナーティはピエトロ・ドナーティの近況を知り得たの?」

「……それはスマホとか、パソコンの中身で大体わかったって。ピエトロは親しい人もいなかったしなんとかなるって……」

「その理屈で行けば、逆にピエトロ・ドナーティがユキさんとカルロ・ドナーティのやりとりを見ることだって出来たよね」

「私が気づかなかったって言うの? 恋人が別人だってことを」

 意図せず声が荒々しくなったがしかし、ルカは私の言葉を押し戻した。


「ユキさんだって本当はわかってたんじゃない? 違和感があったはずだ。本屋のバイトのこと知らなかったんでしょ。たとえ仕事先を知ってたって普通初見でソツなくこなせる? あり得ないよね」


 そうしてついにルカは、その人差し指をベンチに座る彼へと向けた。


「この人が"ふり"なんかでなく、見た通り"ピエトロ・ドナーティその人"だったら、全てに説明がつくんだよ」


 "彼"は勿体ぶったように眼鏡を外し服の裾でレンズを拭うと、それを掛け直した。その顔には薄らと自嘲した笑みが張り付いている。


「──流石にバレるか」


 私は彼に詰め寄ろうとしたが、未だアドルフォの手に掴まれたままで叶わなかった。その場で地団駄を踏む。


「そ、そんなはずない! だって私が間違えるなんて、そんな……」

「名演技だったろ? 落ち込むことはないさ。親でさえ見分けがつかない顔だ」


 その皮肉げな仕草、表情、声、全てが物語っていた。


「……本当にピエトロなの……?」

 私のぽつりとした呼びかけに、目の前の男性は返事をせず、ゆっくりと目を細めるに留まった。


「じゃあ、じゃああの遺体は」

「……カルロ君だろうね」

 脱力し岩場にへたり込む私を支えながら、アドルフォは苦虫を潰したような顔でそう言った。


 ──私はずっと、恋人を殺した男性に協力していたということ?

 いや、そもそも──私は恋人とその双子を、見分けることすらできなかったというの?


 ジャンは私の横に立つとそっとしゃがみ込み、私の背に手をやる。まるで慰めるかのような仕草だったが、私の耳元に唇を寄せると囁くように言った。


「<彼ら>は並ぶと本当にそっくりだね。僕でも見分けがつかないくらいに」


 その言葉の意味するところがわかって、私は唇を震わせてジャンを見た。そして彼の視線の先を追う。


 ベンチでは逃げる様子もなくただ海風に吹かれ座っている彼がいた。じっと私を見つめている。何を弁解するでもなく、否定するでもなくそこにいる。どこか穏やかな表情に感じるのは何故だろう。


「ユキ、俺をよく見て」

「え……?」

「──俺は俺だよ」


 私は未だに、目の前の彼がピエトロだと、信じられずにいた。

 その(はしばみ)色の瞳は、確かにずっと私と共にあったはずだったのに。




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