第四章
4
私の住む寮から大学までも徒歩圏内だが、この家はさらに近くてさんざん羨んだものだ。
トリヴィエッツェ大学は市街地に大学の建物が点在している作りになっている。
その中でも一層古い歴史を持つ建物へと向かうと、中では多くの学生や市民がこぞって机に向かっていた。ここは誰でも利用可能な図書館だ。試験期間中は特に学生の数も増え、空いた椅子が取り合いになるくらいだった。
この利用者の中から知り合いを見つけるというのもなかなか難しい。友人たちの試験に関連しそうな本の並ぶエリアまで来ると、その場にいる人々をくまなく確認していく。
そうしてようやく覚えのある姿を見つけ、私は駆け寄った。
「カタリナ!」
「あら、ユキ」
カタリナと私は特別仲がいいというわけではないが、カルロに昔馴染みだと紹介されたことをきっかけにして少しは話す仲になっていた。
ブラウンヘアーを高い位置でお団子にまとめ、薄手のシャツにジーパンとカジュアルな装いだが、長い手足が際立っている。長テーブルに座っていた彼女はノートから顔を上げると、カップのコーヒーに口をつける。
「ねえ、もしかしてまだカルロを探してる?」
「もちろん」
「実は私も二日前にメッセージを送ったんだけど返事がなくて……流石にちょっと心配になってきたかも」
「そうだよね!」
彼女の言葉に飛びつく。彼女のようにみんながおかしいと思えば、警察も動いてくれるのではないだろうか? そんな淡い期待を抱いた。
カタリナは私の後ろにいるルカが私の連れだとわかると「この子は?」と聞いた。
「ルカ君。情報屋だよ」
「情報屋? ……ちょっと大丈夫なのユキ、騙されてない?」
「あはは、そんなことないよ」
小声だったが、ルカにもカタリナの声が聞こえたのだろう。反論こそしないがやや不満そうに唇にきゅっと力が入った。
「トスカーニの紹介なの」
「トスカーニ? あなたトスカーニの屋敷へ行ったの?」
「え? うん。警察じゃ話にならなかったから」
「あんなマフィアみたいな連中のところによく乗り込んだわね」
カタリナは呆れた様子だ。華やかな顔立ちの彼女が眉間に皺を寄せると、それだけで少し迫力がある。しかしその言い草には耐えきれなかったのか、負けじとルカが口を開いた。
「トスカーニは街の安全のためにあるんだ。マフィアなんかと一緒にしないで」
「残念だけど私は反対派なの。あんなスーツ着て銃ぶら下げてる奴らが街中を歩いている方が危険を感じるわよ」
「だからそれが色んな牽制になっているんだってば。街中のカメラだってそうでしょ?」
「どうだか。それこそ悪用されてないか不安よ」
「えーっと、いい人たちっぽかったよ! ……多分」
脳裏に武器を構えるジャンの姿が浮かんだが、頭を振ってそれを追い出しフォローを入れる。
確かに私も最初は危ない組織かと思ったが、彼らと話しているうちにそうではないと理解したのだ。
「ああそうだ。でもダンテ・トスカーニはイケてるわよね。会えたの?」
カタリナは表情を明るくした。例の話題になったSNSの投稿を思い出したのだろう。
「ううん。留守だったから」
「ええー残念。あ、じゃあ彼……なんだったかな、確かもう一人結構有名な人がいたはず。アデルモじゃなくて……」
「もしかしてアドルフォさんじゃない?」
そんな私たちの間に痺れを切らしたようにルカの赤毛がずいと割り込んだ。
「ねえ、そろそろいい? 聞きたいことがあるんだ」
*
「前にユキにも話したけど、カルロがいなくなった心当たりならないわよ」
こちらが質問をする前に、カタリナはまず両手を挙げた。ルカはそれは承知していると言わんばかりに一度頷く。
「まず、カルロ・ドナーティとピエトロ・ドナーティってどんな人間なの?」
今さらなぜ彼らの人となりを?
疑問から思わず「え?」と声が漏れたが、慌てて口を噤む。ここはルカに任せるべきなのだろう。
カタリナも予想外だったのかぱちぱちと瞬きをし、髪を撫で付けた。
「そんな一口に語れるものじゃないけど……明るくて優しいのがカルロね。ユキの彼氏。ピエトロは眼鏡をかけた一匹狼。私は二人のことを小学生の頃から知ってる」
「兄弟仲が良くないんだって?」
「ええ、今はね」
「今はってことは……」
「小さい頃は『シャイニング』の双子なんか目じゃないくらいそっくりで、いつも一緒にいたもの」
私も初耳で「そうだったんだ」と驚いた。
彼らはどう見たってタイプが違っている。けれど、まあ成長過程で趣味嗜好が変わるなんてことはよくあるだろう。
「中学に上がると同時に突然二分したっていうか──それぞれ見た目も性格も趣味もガラッと変わったわ。きっかけは彼らの両親も知らないみたいで、不思議そうにしてたけどね」
「そんなことってあるの?」
ルカは眉を顰めた。
「聞かれても私はわかんない。実際そうだったんだから」
「というか、仲が良くないっていう割には同居してるよね?」
「ああ、それは両親の希望だそうよ。一人で住むには広すぎるし、親戚の家なのに下手に他人に貸すわけにはいかないじゃない。大学も近いからちょうどいいし」
「別に兄弟でいがみ合ってるわけじゃないんだよ。なんていうか……相性が悪いんだって。だからなるべく干渉しないようにしてたんだと思う」
カタリナの言葉に私は簡単に補足した。
「ふぅん」
納得したのかしていないのか、読み取れない表情でルカは俯きトントンと指で机を叩く。
カタリナの様子を見ると、彼女は私に向けて、考え込むルカを揶揄うように悪戯な笑顔で首を振った。
「情報屋っていうよりまるで小さな探偵ね。それで、あとは何が聞きたいの?」
「……SNSなんかで見たけど、彼らってすごく似てるよね?」
「そう?」
「印象の話じゃなく顔の造形の話だよ。髪の色や瞳の色、鼻や唇の形も似てるし」
「まあ、そうね。一卵性双生児だし。言ったでしょ、昔はほんとにそっくりで──」
「入れ替わってもわからないくらい?」
カタリナは目を見開くと、大袈裟にパチンと指を鳴らした。
「すごい、よくわかるわね。さすが探偵?」
「探偵じゃない。情報屋」
「昔はそうやってよくいたずらをしてたわ。『僕がカルロだよ』『違う、僕がカルロだよ』ってね。誰も見分けがつかなくて……。唯一両親だけはコツを知っていたみたいだけど」
「それってなに?」
「残念ながら私は知らないわよ」
ルカは落胆した様子で机に頬をべたりとつけた。カタリナはそんな彼になぜか勝ち誇った表情でカップに口をつけ傾ける。そして私を見て「そういえば」と声をあげると、おもむろに隣の鞄を探り始めた。
「ピエトロに会う予定ある? これ返しておいてくれない?」
そうカタリナが私に持たせたのは二十ユーロ札だった。返す、ということはどこかでお金を借りたのだろうか?
「駅前の本屋で欲しかった本を見つけたんだけど、カード決済に対応してなくって、また来ようと諦めかけたらピエトロが立て替えてくれたのよ。彼、そこでバイトしてるらしくて。呆れた顔されたけど、意外と優しいとこもあるわよね」
「バイト……? それっていつ?」
「昨日。予定がないなら次に授業で会う時返すけど」
ピエトロがバイトをしているなんて初耳だった。
カルロは長期休みに短期で働くか、お小遣いの範疇でやりくりをしていた。てっきりピエトロもそうなのかと思っていたが……。
私が手の中のお札に視線を落とすと、ルカは上体を起こし「だから昨日は家にいなかったんだね」と腕を組んだ。
「それじゃあ最後の質問、いい?」
ルカは勿体ぶって一度言葉を止めると、ちらりと横目で私の様子を伺った。
「カルロ・ドナーティはフランス語が話せる?」
……ルカの質問にはどのような意図があるのだろう。
失踪というより、もっと奥の、なにか核心を暴こうとしているかのような、そんな感覚になる。
カタリナはあからさまに意味がわからないとでも言いたげな顔をしたが、上げた肩を下ろしながらため息をついた。
「そんな話は聞いたことないし……話せないんじゃない? ピエトロなら私と同じフランス語の授業を受けてるけどね」
*
大学を出てからというもの、ルカは私の一歩後ろを歩きながら黙りこくってずっと考えごとをしているようだ。足取りがふらふらとして危なっかしい。
地下鉄の駅を目の前にしてもぼうっと立ったままなので、流石にその肩を叩いた。
「えっなに」
「なにって、駅に着いたけどルカ君は地下鉄? バスで来た? ずっとぼんやりしてたね」
「ああ……ごめん。色々整理してたんだ」
「整理するような発見出来たかな?」
私の問いかけに肩をすくめると、彼は通行人の邪魔にならない様に横のシャッターの降りた店の軒先へと移動した。私もその隣に並ぶ。
「ねえ、正直に答えてほしい。ユキさんは……カルロ・ドナーティは生きてると思う?」
「え?」
「事件、事故、自殺、家出──可能性は色々あると思う。アドルフォさんは多分今ごろ、身元不明の遺体を洗ってるはずだ。ユキさんはどう思うの?」
──ルカの問いかけに、緊張から私の心臓はドクドクと激しく音を立てた。
彼はなにか、真相に近づくヒントを得たのだろうか?
「勿論生きてるって思ってる。自殺なんて、そんな兆候はなかったし」
「本当に?」
「……でも、事件に巻き込まれたとか、そういう可能性は、あるよね」
ルカは私の回答を聞くと、そっと目を伏せた。
「昨日カルロ・ドナーティのSNSを一通り漁ったんだけど、定期的にこの──写真のところに釣りに行ってるよね」
見せられたスマホの画面には、釣り竿片手に笑顔のカルロが写っている。私が頷くと、彼は今度は地図を表示した。そこはカルロの家から程近い、裏の林を抜けた先を指しているようだ。
「ここで合ってる? カルロ・ドナーティのパソコンにあった他の写真とも見比べて、間違いないと思うんだけど」
「あ……わからない。私、釣りには着いて行ったことがなくて」
一度躊躇う様に唇を噛むと、ルカは深くため息をついて頭を振った。そしてようやく、私に目線を合わせる。
「たとえばこの川で何かしらのアクシデントがあったとして……流されて海に出たとしたら、おそらく行き着く先は海蝕洞なんだ。──以前にもそこで遺体があがったことがある」
「──え?」
「明日波が落ち着くようなら捜索出来ると思うんだけど……ユキさんは来る?」
深海のような青い目は、力強く私を捉えていた。瞳に映る私はまるで今にも溺れそうだ。
緊張から口の中がカラカラに渇いていてどうにも不快だったが、それでも唾を飲み込むと何とか頭を縦に振った。
彼の捜索を頼んだ私には──見届ける義務があるはずだ。
「……わかった。でもまだそうと決まったわけじゃない、僕の予想の一つに過ぎないから、あまり気に病まないで」
ルカは声を落としてそう言ったが、私は「うん」と微かに返事をするしか出来なかった。
「僕は用事があるからちょっと歩くよ。後でまた連絡するから」
「うん……またね」
私は服が汚れることも気にせずシャッターへともたれかかった。やがてルカは雑踏の中に消えていく。
もし、ついに明日彼が見つかって、そうしたら私は……。
ルカの歩いて行った先へ顔を向けると、特徴的な明るい髪色をした広い背中──イヴァーノに似た人物が見えた気がしたが、それもすぐに見失ってしまった。
彼はカフェでバイトだと言っていたしきっと気のせいだろう。
*
私は踵を返し、ふらふらと家までの道のりを歩いていた。
夕飯を調達しにスーパーに寄ろうか──あまりそんな気分にもなれないけれど。
何となく視線をさまよわせた道の反対側に見覚えのある人物を見つけ、私は歩みを止めた。
薄手の黒いコートに黒いスーツ、艶やかな金髪。路地の前に立っているのはジャンだ。彼がここにいるのははたして偶然なのだろうか?
ジャンはしばらくじっと路地の奥を見つめていたが、やがて首を動かしたかと思えば真っ直ぐに私の方を向いた。まさか気づかれているとは思わず顎を引く。
流石に視線がかち合っておいて知らぬふりをするべきではないだろう。
挨拶のつもりで片手を上げるも、ジャンは特に反応を示さない。私は迷った末に彼の元へと歩み寄った。
「こ、こんにちは」
「やあユキ」
「私になにか?」
「え? ……ああ、君の家この辺なのか。僕は別のお使いでちょっとね」
「そうでしたか」
私と二、三言会話すると、ジャンはまたすい、と視線を横へやる。
「猫でもいました?」
「なにが?」
「いえその、ずっと路地を気にしているから」
「猫なんて可愛いものならいいけど」
ということはネズミとか? 私も同じように覗き込んだが、残念ながら何も見あたらない。
けれどジャンの迷いのない紫の瞳は明確に何かを捉えているようだった。それは地面でなく、正面を向いている。まるで同じくらいの背丈の人物と相対しているかのように──。
「もしかして幽霊だったりとか」
勿論冗談半分の発言だったのだが、その言葉に彼は何も言わず私の顔を見下ろした。熱のこもっていない目線は、どことなく棘のように鋭い。
「──幽霊か、あるいは僕の妄想か、幻覚か」
「え?」
「昔からなんとなくいるのはわかっていたけど、一度死にかけてからははっきり視認出来るようになってね」
「……本当に見えちゃうんですね」
「信じるの?」
「なんとなく、ジャンさんは良くも悪くも嘘をつかない人だと思ったので」
「そう」と相槌を打つと、彼は首元のチェーンを指先で弄った。胸元の大ぶりのロザリオが揺れる。最初にそれを見た時はずいぶん熱心な信者なのだと思っていたが……。
「だから首からロザリオをかけてるんですか? 魔除け、じゃないですけど」
「いや別に。僕はそもそも無神論者だし」
間髪入れずにズバリとその憶測をぶった斬ると、ジャンは微かに鼻で笑った。
「これは昔ボスに貰ったから着けているだけ。信仰の証じゃない」
「そ、そうでしたか」
「僕が神に縋るように見える?」
「正直言うと見えないです」
「だろう。僕に赦しを与えたのは神なんかじゃなかった」
なにかを思い出しているのか、ジャンは唇の端を薄らと持ち上げた。
私にはわかる。九割九分彼にそのロザリオを与えたという<ボス>に関係することだろう。
トスカーニのボスであるダンテ・トスカーニという人物にはまだ会えていない。今後直接会うことが出来るのかもわからないが、なんとなくいい人なのだろうということはわかる。少なくともルカやジャンは彼に対して明らかに強い信頼があるようだ。
これだけの大きな組織をまとめる威厳を持ち、部下に強く信頼され──または憧れられ、豪邸に住み、加えてあの容姿。まるで出来すぎたフィクションのような人物である。きっと誰もが放っておかないのだろう。
私がそんな俗っぽいことを考えていると知ってか知らずか、隣から意味深な視線が送られてきたので、私は慌てて話題を変えることにした。
「えっと……あっ、そうだ。私の側になにかいたりしますか?」
「幽霊みたいなもの? 僕には特に見えないかな」
その返答にほっと胸を撫で下ろす。もしもここで『君の彼氏が見える』なんて言われたら冗談じゃなく崩れ落ちていたところだ。彼には気遣いというものがないと理解したので、これも嘘ということはないだろう。
「こんな話、アドルフォにしかしたことがないな。ボスも知らないよ」
「視えることを?」
「そう。部下に『何もないところをじっと見ないでほしい』って気味悪がられたことはあるけどね」
「逆にどうして他の人には明かさないんです?」
「わざわざ話す必要がないしね。そこに頭を撃ち抜かれた男がじっと立ってるなんて、君も言われなきゃわからないだろ」
ジャンはゆっくりと先ほどの路地の奥を指差した。
「……それは聞きたくなかったですけど」
「だろうね」
「その人は知り合いですか?」
その私の質問に、ジャンは答えることはなかった。ただ一言、ポツリと呟く。
「いつも僕を呼んでる」
*
「ねえ、大丈夫? 聞いてる?」
しばらくの沈黙の後、ようやく通話越しのくぐもった声が返ってきた。
『──うん、聞いてるよ』
「だから私、その海蝕洞に行くことにしたの。そっちは……」
『俺も行くよ』
「……怖いな」
『大丈夫さ。きっとね』
彼の声は、凪の様に穏やかだった。
──どこか違和感を覚えるほどに。