第一章
1
私は一縷の望みをかけて、目の前の呼び鈴に手をかけた。
まず突然訪ねたお詫びをして、自己紹介、それからどうにか上の人に取り次いでもらえるようお願いを──
「こんにちは。ご用でも?」
脳内で順序立ててやりとりを考えていると突然背後から声をかけられた。
振り返るとそこには柔和な笑みを浮かべ、左腕に紙袋を抱えた男性が一人立っていた。黒いタートルネックに黒いスーツ、それに映える白い肌と金髪、紫色の瞳が印象的だ。
やや重たい瞼や鼻の形からして、顔立ちはあまりこの地域の人間ぽくはない……というと失礼かもしれないけれど。
「こんにちは。あの、アポも取らずにすみません。トスカーニに相談したいことがあって……」
「へえ、相談。──うちに?」
"トスカーニ"。
それはファミリーネームでもあり、この海沿いの街トリヴィエッツェ特有の組織、所謂<自警団>のことを指す。発足して三十年ほどの組織であり、その影響力はかなり大きい。街では『困った時のトスカーニ』なんていう合言葉が広がっているくらいだ。
噂によると政治家や警察とも懇意にしていて、意のままに操れるのだとか。
……どこまでが本当かは謎だ。
今日ここに来たのは、言わば最終手段のようなものだった。
「警察じゃ取り合ってくれなかったんです。でも私、あと一週間で国に帰らなくちゃいけないし、ここに来るしかなくて」
「……ボスは忙しいから必ず会えると保証はできないけど、待ってみる?」
「はい、待ちます。いくらでも!」
「そう。じゃあどうぞ」
私の返答に頷くと、男性はあっさりと門を開け私に入るよう促した。中には噴水でもありそうな大きな庭が広がっている。その石畳へ、恐る恐る一歩を踏み出した。
まさか単なる留学生に過ぎない自分がこんな豪邸に足を踏み入れる時が来るなんて。人生とは何があるかわからないものだ……とまで言うと大袈裟だろうか。
「僕はジャン・デ・キリコ。君は?」
「私はユキ・サワネ。日本からの留学生です」
「よろしくユキ。留学というと……トリヴィエッツェ大学かな。優秀だね」
「いえ、そんなことは──」
「ああ、それが日本人の<ケンソン>か」
「あ、はは、はい……」
どう返答すべきか思いつかず、結局私はザ・日本人らしく苦笑いで曖昧にごまかした。留学仲間には海外でその態度は良くないと口を酸っぱくして言われたけれど、今ばかりは許して欲しい。
ジャンは少し、いや正直かなり、見た目にそぐわず話しづらいタイプだった。声は柔らかいのに話し方がどうにもそっけなく、言ってしまえば私にさして興味がなさそうなのだ。
彼は歩みが速いため、庭の綺麗な花々を鑑賞する間もなく、その後を追うのに必死になっていた。この人の横を歩く女性はきっと苦労してきたに違いない。
玄関扉の前では体躯のいいスーツの男性たちが数人固まって話をしていたが、ジャンの姿を見ると一様に背筋を伸ばす。ジャンの方が若く見えるが、どうやら彼らが部下のようだ。
まるでマフィア映画に出てきそうな光景に、私はここに踏み込んでよかったのだろうかとやや不安になった。
いや、きっと大丈夫。彼らは自警団であり、正義の味方……のはずだ。
「ジャンさん、お疲れ様です」
「彼女を応接室に通す」
「わかりました」
散り散りになった彼らを横目に、ジャンは扉を開けると私を中へと招いた。
外からでも立派だった屋敷の中は、これまたたいそう豪華な装飾が施された空間だった。天井は高く、煌びやかなシャンデリアが吊り下げられている。三メートルはあるだろう絵画が飾られている壁面も壮観だ。繊細な柄の絨毯はいかにも高価そうで土足で踏むのも憚られたが、対してジャンはこれっぽっちも気にすることなく上を歩いた。彼にとっては単なる仕事場の床なのだろう。
「すごいですね」
「人目に触れるところはね。奥の私室や使用人の部屋なんかは意外と質素だよ」
「ここは古いお屋敷ですか? 装飾も立派……」
「そう。聞いた話だと、昔王室の親類が所有していたらしい」
「へえ」
私の暮らしている寮の私室が十何部屋は入るだろう広さ、それがまだ入り口すぐの広間に過ぎないというのだから驚きだ。社交界を彷彿とさせる。まあ私はささやかなホームパーティーにお呼ばれした経験しかないので想像に過ぎないけれど。
すぐ脇の部屋へと通される。落ち着いた雰囲気の調度品が飾られている応接室のようだ。私を座り心地のいいソファへと誘導し、ジャンは「それじゃあ」と部屋を出て行ってしまう。
……とにかく説明が少ないが、恐らくはここで待っていて良いということだろう。
間もなくメイド服姿の女性が現れ、良い香りのする紅茶を淹れてくれた。
*
お茶請けのお菓子を頂きつつ待つこと十五分ほど。ドアがノックされ、いよいよかと立ち上がり返事をする。
しかし今度現れたのは黒髪で無精髭の男性だった。
お洒落なスーツを着崩し、ニコニコと人当たりの良さそうな笑みを浮かべているが、近づくとかなり背が高いのがわかる。随分と足が長く、並んで立ったら腰の位置の差が恐ろしいことになりそうだ。
男性は「どうぞ座って」とこちらのソファを示しつつ自らも向かいに腰掛けた。
「初めまして、俺はアドルフォ。トスカーニの参謀だよ。ダンテに相談事があるんだって?」
テーブル越しに握手を求めて差し伸べられた手を慌てて握り返す。その彼の手もまた分厚く大きい。私の手はすっぽりと収まってしまった。
彼の言うダンテとは、このトスカーニのボスである<ダンテ・トスカーニ>をさしているのだろう。
彼の姪が有名なインフルエンサーであり、そこで先日彼女とダンテのツーショットが投稿されたが──初めて見たダンテは物憂げな眼差しが印象的な美丈夫だった──片目に眼帯を着けているミステリアスな出立ちも相まって相当な反響を呼んでいた。
先ほどのジャンも含め、系統は違えど目の保養になる人物ばかりの組織だと、全く関係のないことを考えつつ目の前のアドルフォを眺めた。
「私はユキ・サワネといいます」
「ごめんね、今ダンテは拘置所へ面会に行ってて……帰ってくるまでもう少し時間がかかると思う」
「拘置所?」
驚いて思わず聞き返してしまった。
「そう、ちょっと前に騒がれたオズヴァルド・レベッキの事件、知ってる?」
オズヴァルド・レベッキ──その名前は記憶に新しい。
この街に活気を与える一端を担った人物だったが、その実裏ではドラッグの売買を取り仕切っていたらしい。先日トスカーニが薬物取引を摘発する際、彼を捕まえたのだと新聞では報じられていた。
「最近逮捕された人ですよね。私の友達も、彼の経営していたクラブで遊んだことがあるって驚いてました」
「ああ、だろうね。そのオズヴァルドの裁判が今度あるんだけど──ダンテは意見陳述で反省の弁を述べるよう説得に行ってるんだ」
「え……でも、薬物をこの街に持ち込むってかなり重罪ですよね?」
この街では薬物の売買を相当な厳しさで取り締まっていると聞く。海外ドラマなんかでよく見るような裏取引を、警察だけでなくトスカーニも率先して取り締まっているらしい。そういった治安の良さも、ここが留学先として人気があるポイントだった。
「オズヴァルドは、刷り込まれてたっていうのかな……そんな感じの事情もあってさ。そこら辺がかなり量刑に響きそうなんだ。あいつはプライド高いから弱みを見せたがらないんだけど、そんなこと言ってる場合じゃないしね」
「なぜダンテさんが、わざわざその人を気にかけているんですか?」
「……人間ってさ、単純にいい奴、悪い奴って振り分けるのは難しいでしょ? ダンテにとってオズヴァルドは悪いばかりじゃなかったのさ。俺も、昔はイジリがいのある兄さんだと思ってたんだけどなー……」
アドルフォはそう言ってため息をつくと、長い足を組み視線を落とす。少し考え込んでいる様子だったが、私が見つめていることに気づくと慌てて取り繕うように笑顔を見せた。
「ああ……ごめんごめん。ユキちゃんが話しやすくてつい関係ないこと言っちゃったな。ダンテが来るまで代わりに用件を聞いておこうと思ったんだ」
軟派な物言いに思わず「はあ、」と間の抜けた返事をしてしまったが、アドルフォは気にしていない様子だ。この国の男性は往々にしてそういうところがあるのであまり本気にしてはいけない。
「よかったら話してもらえるかな」
彼はじっと真剣な顔でこちらを伺う。どうやら親身になって話を聞いてくれそうだ。私はようやく、事の経緯を語ることにした。
「私はトリヴィエッツェ大学に留学していたんですが、あと一週間で日本に帰らなくちゃいけないんです。でも五日前から突然彼氏と連絡が取れなくなってしまって」
「彼はこっちの人?」
「はい。同じ大学のカルロ・ドナーティといいます。同居している弟のピエトロに聞いても、帰ってきてないって」
「捜索願いは?」
「私は出して欲しかったんですけど、ピエトロはそのうち帰ってくるって聞いてくれなくて。でも私たち、付き合ってからは毎日途切れることなく連絡を取り合っていたんです」
「うん」
「──婚約だって、してたのに……」
思わず涙が溢れてくる。
どうしてこんなことになってしまったんだろう。
私がここに留学してはや二年。あと一週間で滞在期間は終わり、日本へと帰国することになる。
この街での暮らしは刺激に溢れていた。勿論語学の勉強にもなったし、生活様式や人の在り方、考え方までなにもかもが母国とは違う。
──そしてなにより、この留学における一番の宝物と言えばカルロとの出会いだ。
異国の地で怖気付いていた私に気さくに話しかけ、周囲に溶け込めるよう計らってくれた。私は彼のおかげで変わることが出来たのだ。
帰国して無事に大学を卒業したら、トリヴィエッツェに戻って就職し、ゆくゆくは彼と結婚するつもりだった。その約束もしていたのに。
左手の薬指にはめた指輪を撫でると、彼の顔が思い浮かんだ。
……果たしてここに来たのは正解だったんだろうか。
「──悪いんだけど、少なくともその彼氏が事件に巻き込まれたって確証でもないと、組織を動かすことは出来そうにないな」
「そんな……」
警察と全く同じ物言いだった。ここでも駄目なのか。周囲が不審に思うまで、さらに待つしかないのだろうか。
「でも、俺は君を助けたい」
その言葉に顔を上げると、エメラルドのような瞳がじっとこちらを向いていた。
「知り合いの情報屋がいるんだ、彼らに連絡してみるよ。きっとすぐに手かがりを見つけてくれるはず」
「情報屋? でも私、あんまり持ち合わせが……」
「そこは気にしないでいいから。ね? ああ、勿論ダンテの耳にもこの件は入れておくから、安心して」
「すみません。何から何まで」
「大丈夫、力になりたいんだ。可愛い女の子が困ってるのを見捨てられないよ」
目の前の伊達男はこちらにウインクすると、スマホでメッセージを打ち始めた。本当に情報屋とやらに連絡してくれているらしい。
すぐに話がついたのか「これから来てくれるって」と言われ、驚いてしまった。
「三十分くらいかな。話でもして待っていようか」
「あの、でも、お邪魔にならないですか?」
「まさか、こういうのも仕事のうちだよ。書類に向かってるよりずっと楽しいし気にしないで。あ、ねえ俺、日本の文化って好きなんだ。日本食とか、サムライとか、話聞かせてくれない?」
「……あんまり詳しくないですけど、そんなのでよければ」
私の気を紛らわせるように彼はあえて事件から離れた話題を振ってくれているようだ。その優しげな眼差しから、気遣ってくれているのがわかる。私はそれに甘えることにした。
*
それからしばらく、昔受けた歴史の授業を思い浮かべなんとか知識を捻り出していると、部屋が再びノックされた。こちらが返事をする前に素早く扉を開き、顔を出したのは最初に出会ったジャンだ。
「ちょっとアドルフォ、引き止めてくれなかったの?」
「ああ、ジャンおかえりー」
アドルフォは座ったまま、不機嫌そうな彼に対してヒラヒラと片手を振った。そのラフな様子から、どうやら彼らは対等な関係らしいとわかる。
「昼食を買いに行ってる間に、まさかボスに置いていかれるなんて……」
「わざとじゃない? ジャンがいるとオズヴァルドを視線で射殺しそうで落ち着いて話もできないとかさ」
「べつにそんなことない」
「それよりなぁ、お前ユキちゃんを放っておくなんて」
「放っておいてないよ。ちゃんとここまで案内したじゃないか」
「案内ったって部屋に一人じゃ困っちゃうだろ」
会話を噛み砕くに、どうやら最初に会った時にジャンが抱えていた紙袋はボスの昼食だったが、行き違いになったらしい。テンポのいいやりとりを一生懸命聞き取っていると──二年間で完璧にヒアリングが出来るようになったかというと、残念ながらそうでもないのだ──不意にジャンはこちらへ顔を向けた。
「相談は出来た?」
「あ……はい。アドルフォさんにお話を」
「そう。解決?」
「いーや、これから少年たちが来るから」
それを聞いて彼はとたんに顔を曇らせた。
「またあの二人?」
「なんだよーいいだろ? ダンテもお気に入りなんだし」
「……それが困るんだよ」
少年たち、というのは先ほど話にあった情報屋のことだろう。どうやらジャンは彼らを歓迎していないらしい。
「あんまり馴れ合うとそのうち始末しにくく──」
「こらこら、物騒なこと言わない! というかそんなことさせないし」
私に続きを聞かせまいとしたのかアドルフォが勢いよくジャンの口を塞ぐ。大きな手に阻まれ、彼は不満そうにむぐむぐと呻き声を上げた。
……不穏な気配がしたが、恐らく気のせいではないだろう。
「ごめん、ジャンのことは気にしないで」
「はあ」
カラン、と突然金属音がした。アドルフォから逃れようともがいているうちにジャンの背広から何かが落ちたようだ。
拾ってあげるべきかと床に目をやると、そこにあったのが鈍く光る見たことのない形状のナイフだったため、私は屈もうとした動きを止めた。
「あ、あーこれも気にしないでいいから」
「ハイ……」
アドルフォがパッと手を離し、ジャンは軽く息をつく。何事もなかったかのように危険物は彼のジャケットの内側へと消えていった。
「僕はボスの護衛だからね。武器は大事でしょ」
ジャンはそう言って微かに口の端を上げる。
「おっしゃる通りです」
「変な同意しなくていいよユキちゃん……。ほら、ジャンはどっかいってて」
「そうするよ」
普通護衛が所持しているのは銃器で、ナイフは滅多にないような気もするが……彼の笑顔を見て頷かないわけにはいかなかった。空気の読める日本人である私は、彼の目の奥が笑っていないことを容易に理解したのだ。
ジャンが部屋を後にしようとドアに手をかけた瞬間、本日三度目のノックが鳴り響いた。