不思議な出来事
列車の二等客室にて、あなたは窓の外を流れるのっぺりした暗闇をぼんやりと眺めていた。人家の絶えた郊外を奔っているらしく、空は星の見えない曇り空。座席から伝わる車輪の振動を除けば、列車に乗っているという実感さえいまいち掴みづらい。あなたは退屈を感じていた。急いでいたとはいえ、せめて駅で新聞か雑誌でも買っておけば良かったと後悔していた。
もう寝ようか。
全く眠くはないが、目を瞑っていればいずれは眠りが訪れるだろう。
そう思い、座席にもたれて瞼を閉じたとき、不意に誰かから肩を叩かれた。顔を向けると、背の高い男が通路に立っていた。
座っても良いですか? とあなたの向かいの空席を指さして男は尋ねた。あなたは彼に笑顔を向けて頷いた。
その男はのっぽで痩せていた。そして湿った森の木のような暗い褐色の肌と、凪いだ海のように静かで深い藍色の眼差しをしていた。歳の頃は四十に見える。彫の深い、何処となく厳めしい顔立ちだった。短い黒髪をきっちり整えており、髭は生やしていない。襟のピンと立った清潔なブラウンのトレンチコートを着ている。まるでビジネスマンのような立派な身なりだとあなたは思った。
出張ですか? とあなたが尋ねると、もう会社には勤めていないのだと男は笑った。人好きのする穏やかな笑い方だった。
五年前に仕事を辞めてからは各地を逍遥し、詩を書いているのです、と彼は言った。今も新しい旅の途中らしい。
それを聞いて、あなたは男の傍らの平たい焦げ茶色の鞄に目を留めた。中身を訊くとノートとペンだと教えてくれた。それに詩を書いているのですか? とあなたが尋ねると、男は何処となく困ったように微笑んだ。
是非作品を読ませてほしいと頼むと、男は少し躊躇うような素振りを見せたが、あなたが散々に食い下がったので、とうとう頷いて、鞄の中からノートを取り出し、はにかむような面持ちでそれをあなたに差し出した。あなたはそれを受け取ると、早速ページを開いた。
白紙だった。
顔を上げると、男は居なくなっていた。