前編
前編一万字、後編一万字程度の短編です。
秋の涼し気な風が窓にかかったカーテンをパタパタと弄ぶような気持ちの良い気候の日、俺は実家で荷物を漁っていた。
俺自身は数年前に実家を出て一人暮らしをしていたので、ここにあるのは「子供の頃の思い出」ともいえるものがあるだけなのだが……。
「捨てる物は捨てて、要る物は自分の家に全部持って帰ってしまいなさいよー! 別の家に住んでいるのに、もう大人にもなった息子の荷物をいつまでも母さん達が持っているのも色々と困るんだから。片付かないし、掃除はできないし、部屋は埋まったままだし……。あんた、この家に放置しているクセに大事な物なんだとか言って私が勝手にいじると怒るじゃない。」
と、台所でカチャカチャと洗い終わった食器を食器棚に片づけながら、母さんはブチブチと俺に文句を垂れていた。
大学進学の為にと俺が家を出てから数年後、妹も就職を機に実家を出てから俺たち兄妹二人は今回久しぶりに実家に帰省していた。
聞くところによると就職と一人暮らしという人生における大きな変化が一度に訪れたことで自分のことだけでいっぱいいっぱいといった感じで暮らしており、出てから一年半以上経った最近になって妹はやっと仕事も生活も落ち着いてきて実家をみる余裕が少しできたといった所らしいのだ。
俺は俺で――まぁ、なんていうか……遊べるのは今だけだからと実家の事なんか頭からすっぽりと抜けて遊び惚けていただけという所で………。
つまりは仕事だけではなく、色々と忙しかったということだ。
そして実家を出る時には狭く感じていたこの家も、両親二人きりになった今となっては俺たち兄妹二人が置いて行った荷物が無駄に場所を取っているだけで暮らすには広すぎるらしく……。
まだ余力のあるうちにリフォーム計画を立てるなり、手狭な家に引っ越しなりをしておきたいというのが母さんの言い分というわけで、早々と老後の生活を心配している様だ。
ということでまずはもう既に住んではいない俺と妹の荷物を片付ける所からスタートしようって話なのだった。
もう住んではいないが子供部屋をそのまま放置するわけにはいかず、母さんが定期的に窓を開けて換気をしたり軽く埃を払う程度ではあるが掃除をしたりしていたらしく、先日俺が棚に置いておいたオモチャが床に落ちていてうっかりと躓いて転んだらしい。
――ってことがあったので、それが久しぶりの帰省をした理由が自分の部屋の片付けをする為にとなったまでの経緯である。
確かにこの先、俺が実家に帰ってきて住むことはないだろうし妹もおそらくはないだろう。
今はいいとしても、年を取って衰えていく両親の未来を思うとこのままでは何があるか分からない。
今回はちょっと転んだ程度で怪我もなく済んだが、これから先は………。
「俺もこうやって実家の片付けに帰るなんてできるのは今だからかもだし、そろそろ時間的余裕がなぁ……。仕事もだし、彼女が―――。」
「えぇーーー!? お兄に彼女なんていたの~?」
少し開いた俺の部屋のドアの向こうで、紙屑の入ったゴミ袋を抱えて通っていく妹がクスクスと笑いながら俺の独り言を茶化してきた。
「うるっせーなぁ! お前は知らないだろうが、俺はこれでもモテるんだよ。」
そうは言ってみたが嘘だというのはバレバレの様で――彼女がいたことはあるのだが『モテていた』とまで言うのは些か誇張が過ぎたみたいだった。
「今更妹にそんな見栄を張らなくってもいいんだよ、お兄。」
「ウッ――! 嘘じゃないからな。モテてはいたし、彼女だっていたし……。」
「ハイ、ハイ。そういうことにしておいてあげるよ。」
久しぶりに顔を合わせて話をしているというのに妹はケラケラと笑い、相変わらず俺に対して生意気な口ぶりなのは変わってはいない。
実際、長年付き合った彼女に振られて今はフリーなのだし、付き合ったことにある女の数もその彼女一人きりなのだから当たらずも遠からずといったところではあるが……。
とはいえ一応世間的には俺に『モテている』という状況はあったにはあったし、相手が妹であるからこそこういう事に対しては強気でありたいと思うのが兄としてのプライドというわけで……。
しかしながらモテていたのが彼女と付き合い始めた時から振られた辺りまでといった嬉しくない期間限定であったが故に、当時彼女しか見えていなかった俺は言い寄ってくる女らに対して何も―――できなかったのだ。
彼女以外の女とは友達以上の付き合いはしなかったし、指一本すら触れてはいない。
初めてできた彼女を大切にしたかったし、彼女一筋だったからだけど……惜しい事をしたなと今では思う――。
―――思っているだけだよ?
兎も角、妹や母さんに茶々を入れられたり入れつつも片付けは進み、半分ぐらいは終わった時だった。
「おっ! 懐かしいなぁ……。」
ガチャガチャと雑多にガラクタが入れられたランドセルぐらいの大きさの箱の中から小学生の時に使っていたリコーダーが出てきた。
子供の頃に作った所謂俺専用の『宝物箱』というやつだ。
俺は懐かしさから片づけをしていた手を止め、何気なしにそれを吹いてみた。
「音楽の時間、課題曲じゃなくてふざけてチャルメラを吹いたりしてよく先生に怒られたっけ……。まだ吹けるもんだなぁ。簡単な曲しか覚えてないけど――。」
俺は当時の様にチャルメラを吹いていると小学生の時みたいな気持ちに返って楽しくなり、ピーヒョロヒョロロと曲とも言えないが何とはなしにいい感じに聞こえる音を適当に奏でていた。
と、―――。
「えっ? なにっ!?」
前置きも無しにいきなり強烈な眩暈に襲われて視界がグニャリと歪み、俺はそのまま前に突っ伏した。
暫くした後に俺が目を覚ますと―――。
「あの……大丈夫ですか?」
目の前には心配そうに倒れている俺の顔をしゃがみ込んで覗き込む美女の顔があった。
―――へっ?
突然のことに俺はパニックとなり、鯉の様に口をパクパクと開いたり閉じたりをするだけで声が出ていなかった。
「あの……??」
返事もせずにおかしな行動をする俺の事を美女は訝しげに思ったらしく再び声を掛けられ、その表情にハッとして慌てて返事をした。
「あっ――! だっ、大丈夫ですっ!!」
「こんな所で何をしてるんですか? あなたはまさか……一般人ってことはないですよね?」
「―――はい?」
この美女に言われたことに訳も分からず俺の口から出た言葉が肯定の返事だと聞こえたらしく、俺は腕をグイッと引っ張られた。
腕を引っ張り上げられて起こされた俺の目に入ったものは――木……木……木……。
自分の周囲をグルリとどこを見回してみても360度、木しか目に入らなかった。
「ここは一体……。」
俺は混乱した。
さっきまでは実家にある自分部屋で片付けをしていたはずで、リコーダーを吹いていたら気絶したところまでは憶えているのだが………。
「ん? どうしたの?」
「えっと………。」
あまりに突飛な状況に何を聞いたらいいかも分からず俺は口篭もってしまった。
「あなた――名前は?」
「タっ、タケル! 堂林タケル!」
「了解! タケルさんね。所属は分かるかしら?」
「所属?」
―――この美女は一体何を言っているのだ?
俺はキョトンとした目でアホ面を晒して聞き返した。
「あらっ? もしかして空から落ちちゃって頭を打ったとかで記憶が飛んじゃってるのかな?」
「えぇ、っと―――。」
何を聞かれているのかすら分からない俺には答えようもなく、人間が空から落ちてくることなんか――ましてや空から落ちて五体満足で怪我もせずに生きているとかありえないからと心の中で一人ツッコミをし、ハハッと笑って誤魔化すしかなかった。
「まぁ、戦闘員にはたまにあることだから気にせずに元気出して!」
何か知らないが……なんでか俺が元気づけられたのだが美女にされたのでなんか嬉しい。
それにしても戦闘員?――とは一体??
「アリサー! バトルが終わったからってこんな場所に長居していると危ないわよ~。」
頭の上の方から、おそらく俺を助けてくれたこの美女にと思われる親し気に話しかける若い女の声が聞こえてきた。
「あっ! ごめ~ん、ユーリ。この人の意識確認をしていたんだけど、どうやら飛んじゃってるみたいでさ~。」
この美女――アリサさんと言うらしい女は上を見上げて話しかけられてきた声に返事をし、俺もそれに釣られて上を見る。
見た俺は驚きのあまりに声も無く驚き、目が点になった。
人が……人が空をプカプカと浮いている。
木の高さをほんの少し上回る程度といった決して高くはない高度ではあるが、ポニーテールをなびかせた黒髪の美しい女が目線の先に浮いていた。
「『人がっ――!』っていきなりアリサ一人で下に降りていったかと思ったら……要救助者が居たわけか。まさかっ! ――『違放者』じゃないわよねぇ?」
「それは―――無いと思うわ。どうやらこの人、戦闘員みたいだし。気絶してる時に服も捲って調べてみたけど体にタトゥーがあったり、探知機でも違反チップが埋め込まれている形跡は見付からなかったわ。」
―――いやん、エッチ!
「そう……。ならいいけど。そろそろ街に戻るわよ。残るは私とアリサだけなんだから。」
「了解! でも、この人がいてもう飛べそうにないから下に降りてきてもらってもいい?」
「――分かったわよ。」
この距離だと表情は見えないが、ユーリと呼ばれていたポニーテール女はどう聞いても面倒くさいなといった雰囲気が感じ取れる返事だった。
そしてサァーっと俺の目の前に降りてきたのは二十代前半と思われる目は少々キツめだが可愛らしい顔をした女だった。
「全く……この人がもし『違放者』だったり罠だったらどうするのよ。アリサ、世話焼きも大概にしなさいよ。もう一人で勝手に動かないでちょうだいな。」
ユーリはそれだけ言うと呆れ顔でフゥと大きく息を吐いた。
「ご、ごめん。次からはちゃんと皆に話して相談してからにするね。」
アリサはシュンと落ち込んだ表情をして項垂れ、それを見たユーリによしよしと頭を撫でられていた。
「――で? あなた、名前は何?」
二人のやり取りをジッと見ていた俺の方へユーリがクルリと向き、突然こちらに話しかけられたのでビクッと体が震えた。
「な……名前は、堂林タケルです。二十四歳―――。」
「私よりも一つ下って事か~。」
「ってことは二十五歳?」
「そうね。まぁ、話は歩きながらってことで……。」
ユーリはそう言って先頭を歩き始めた。
「この子はね、私のチームメンバーで幼馴染の智永アリサ。年は私よりも五つ下なんだ~。」
「あぁ、それで……仲良さそうって感じですよね~。」
「まぁね。で……私が御園ユーリ、ね。よろしく。」
「よろしくお願いします。」
快活に淡々と喋るユーリはサバサバ系といった雰囲気で、俺はとても話しやすいなといった好印象を受けた。
「それで……タケルだっけ? あなたは自分の所属とか、飛んじゃってて憶えてないんだっけ?」
「―――らしいです。」
もうここはそういう事にして怪しまれない様にと注意を払いつつ、二人に色々と質問してみることにした。
「名前と年齢ぐらいしか思い出せないのでさっきから言っている話もよく分からず……。なので、『所属』とか『違放者』とか『違反チップ』とか―――『バトル』ってのが何なのか教えてくれませんか?」
「な・る・ほ・ど……。ほぼ全部が飛んじゃったわけか。」
ユーリはウーンと唸りながら後ろにいる俺をチラ見し、足先から頭の天辺まで舐める様に視線を走らせた。
「それだけ記憶が無ければ親兄弟も分からないだろうし、今夜寝る家もどこに帰ったらいいのかも分からないで不安だろうねぇ。でもまぁ、なる様になるよ。」
「もうっ! ユーリってばそんな根拠もない希望をっ! あとで落ち込むことになるかもしれないのはタケルさんなんだからね。」
俺とユーリの話をずっと聞いていただけだったアリサが、ユーリのあっけらかんとした俺への言い方が気になったらしく口を開いた。
「ごめんね、タケルさん。別に不安を煽るつもりはないんだけど……下手に希望を抱いておくと後で悲しむのはタケルさんだと思って……。だから適当な事は言いたくなかったの。」
「うん。ありがとう。」
「まっ……アリサが思う程、心配はそんなにいらないんじゃない? とりあえず仕事には困らないと思うし―――。」
離しながらユーリは俺の右手を指さした。
―――??
何を言っているのやら分からず、俺は右手を目の前まで持ってきた。
―――っ!!!
なんと、俺の右手は無意識にあのリコーダーを今の今まで落とすことも無く握り締めていた。
………で?
だからそれがどうだっていうんだ?
更に俺は訳が分からなくなり、指し示されたリコーダーを不思議な思いでジーっと見つめた。
「それを持っているって事はさタケル、妖術師の資質があるってことだろう? たぶん記憶をなくす前は妖術師として働いてたってことだろうし……。 ――ってことは、ちょこっと訓練を受けて感覚を取り戻しさえすれば、以前の記憶がなくったって扱う事はすぐにできるようになるだろうし、数日中には仕事をすることぐらいはできるようになるよ。きっとね。」
「……妖術師って、何?」
「そうだった! 記憶が無いからこう言っても分からないんだったね。『妖術師』って言うのはね、『杖』とも言われる楽器を使って魔法を操り、この世に神の御業の断片とも言われる力を自然から借りて奇跡を起こさせることのできる職業の人のことを言うのさ。」
―――オォーー………魔法? 何それ?
「更に妖術師はソーサラーだったりサモナーだったりエンチャンターって呼ばれるクラスに細かく分類してて……武器使いと共に数人のチームを組んでこの地球を日々守っているのよ―――。」
気になる言葉に俺はピタリと歩みを止め、説明してくれていたユーリの眼前に詰め寄った。
「ちょ、ちょ、ちょっと待って! ここが地球だって!?」
「ええ、そうよ。なに? 突然慌てふためいたりして……。」
俺はゴクリと唾を飲み込んだ。
「この国の……名前は? 地名ここの地名は何?」
ユーリとアリサに向かって質問しながら、俺は緊張と焦りから心臓の鼓動がドッドッドッと駆け足に早くなっていくのを感じる。
「ここは日本。で――街から外れた森の中だから細かい地名は無いけど確かカンサイって呼ばれるエリアに入る場所らしいわ。」
俺はその返答に言葉を失った。
なんとなくの雰囲気的に、俺はてっきり妙な力に導かれて異世界にでも紛れ込んだのかと思っていたのだが……。
「それで……話を続けてもいいかな? それになるべく足を止めずに早く街へ向かいたいんだけど……。」
どう見ても様子がおかしいと取れる俺の言動にアリサは一先ず落ち着かせようとしたのか俺の手を黙って握ってきた。
「あっ、あぁ……。ごめん。話を続けてくれ。」
本当ならこんな美女に手を握られるなんて煩いぐらい心臓がドキドキして高揚するはずのシチュエーションなのだが……今の俺にとっては肌に直接人の温もりを感じ、それによって心を落ち着かせる手段でしかなかった。
アリサのお陰で平静をなんとか取り戻し、俺は深呼吸をして再び歩みを進めた。
それに合わせて二人もまた歩くのを再開し、ユーリもさっきの話を続けた。
「えーっと……あっ! そうそう! チームを組んで地球を守っているって話だったわね。それで何から守っているかって言うと――なんと異界人。この地球と同じく魔力を持つ惑星で生まれた私たちとは似て非なる存在であり、幾つかの種族が来ているんだけど総称してモンスターという別名のある醜い侵略者たちから地球を守っているのよ。」
ちょっと頭が痛くなってきた……。
「あとで街に帰った時に写真を見せるけど、そいつらの見た目は西洋の伝承にある―――といってもゲームなんかでよく見る有名なやつなんだけど、ゴブリンやオーガといった空想上の生物によく似ているそうよ。」
―――えっ?
「その他にもさっき言った『違放者』ってのが街の外に居てね。これは窃盗や殺人といった重犯罪を犯したり、税金滞納し過ぎて多重債務者に陥って街を追い出された犯罪者のことを指して言うんだけど……この人たちを街に入れない為の警固活動も併せて私たちがやっているのよ。」
「重犯罪者は分かるけど、税金滞納者まで追い出されるの?」
「そりゃあね。街の維持だけでなく、税金を使って一つの街に住んでる人全体に行き渡る様に食料や物資を調達したりするのもそれぞれの街に設けられた中央機関の仕事だもの。決して安くない税金を無駄にはできないわ。」
「――街を追い出された人はどうなるの?」
俺は少し怖い話が待ち構えている気がして聞くのを躊躇ったが、知らないままの方がもっと怖いと勇気を出して尋ねた。
「それはね―――。」
その俺の質問には俺の手を握って横を歩いていたアリサが答えてくれた。
「まず追い出される前に、街に住んでいる住人なら必ず生まれた時に手の甲に埋め込まれているチップを外されるの。このチップさえあれば街の入り口のドアは開くし、様々な支払いもピッと読み込ませるだけで手早く済むからね。なければ街での暮らしは送る事ができなくなるから……これが街には二度と帰ってこれないという戒めになるわけなの。これが昔は絶対に消えないっていう特殊なタトゥーを体に刻んでいたらしいんだけど……。コストなんかの問題から、私が幼い頃に廃止になったわ。でも……近頃は『違放者』たちが街にある物資を奪う為に違法に手に入れたチップを体に埋め込んで街に入り込もうとしていたりする事件がおきたりしているから、パッと見ですぐ『違放者』だと分かるタトゥーって方法がまた見直されているのよね~。」
「そうそう。おかげで私たちの仕事が増えていくばっかり。」
アリサの話にユーリが力強く頷いていた。
「――で、街を追い出された人たちのその先なんだけど……。この危険な地上世界の片隅で、スラムを作って小さく生きているらしいわ。街の中央機関も、さらにそれらを束ねる政府も街に住んでない人たちは死んだ存在として扱っているから安全な食料を確保するのも困難で、まず一日でも生き残る事が大変らしいわよ~。」
どうやらここでは『街の外=死』という図式が常識らしく、この事に関してはアリサもユーリもとても渋い表情をして話していた。
「街の外に放り出された人間のだいたいが、異界人どもが放ったあっちの惑星の獣に捕まって餌にされるか、異界人どもが奴隷にするだか食べるだとかの為に拉致されているらしいけど………。でも、それと同じぐらい多いのが同じ『違放者』によって暴行されたり殺害されたりするってパターンね……。」
ユーリの説明にアリサは俯いて目を伏せ、俺に聞こえるか聞こえないかぐらいの小さな声で一言呟いた。
「『違放者』のほぼ100%が頭が空っぽの快楽主義者だから―――。」
――と、その時っ!!
「ユーリ!!! アリサ!!!」
俺の目の前を歩いていたユーリを呼んでいる叫ぶような声がどこからともなく聞こえてきた。
また何かあるのかと俺はキョロキョロとその声の発生源を探して視線を動かした。
しかしユーリとアリサはその声にビクリと反応して急に緊張感を滲ませ、二人ともが俺を守る様に戦闘態勢をとって注意深く周りの様子を探っている。
「あの……なにか―――。」
俺は漂ってくるその緊張感から唾をゴクリと呑み、恐る恐るアリサに話しかけるが手の平で口を押さえられて黙らされてしまった。
「シッ! ―――あっ! あっちよ!!」
そう目の前を茂る木々の向こうをアリサは指さし、先頭を歩くユーリと共に俺はアリサに速足で連れられて引っ張られていった。
俺はと言えばこの先に何が待ち受けているのか想像もできないので不安になり、ただ黙って付いて行くしかなかったのだった。
「ヒナタ!」
何かを目指していたと思われる場所に近付いていくと激しく動く二つの影が目に入り、せめぎ合う度に響く金属音が聞こえ、ユーリが誰かの名前をそれに向かって叫んだ。
それからかなり近付いていくと正体が俺にも漸く分かり、その影の片方が二人の接し様から親しい間柄の人物で俺よりも少し年下らしき剣使いの男だと判明した。
「すまん! 助力を頼む!!」
「何言ってんの! 仲間、でしょ!」
そうユーリは男を励ます様に答え、もう一方の影であった明らかに俺が見たこともないライオンの二倍ぐらいは優にあろうかという大きさの、金属の鎖を首に巻き低く唸りをあげて牙をむく狼の目の前に槍を構えて男と共に対峙した。
しかも今この時、目の前で死闘を繰り広げようとしているそのことよりも、俺の目を奪うことが――雷に打たれたかの様な衝撃に出くわした。
「ヒナタ――?」
俺の実家の隣の家に住んでいた幼馴染にそっくりな顔が、その男の顔がこちらに向いてハッキリと確認できた瞬間に俺の視界に飛び込んできたのだ。
―――どうしてここに……?
「ヒナタ」という名前を聞いてアイツと同じ名前だなとぼんやりと頭を掠めてはいたが……まさか本人だとは思わず、俺の口は仰天したあまりにポカンと開いたままだった。
「――ケルさん! タケル!」
少しばかし思考停止して硬直させていた俺の体を揺さぶってアリサが焦った様に声をかけてきた。
「な、なに?」
俺はワタワタと狼狽えて返事をした。
「私のボーガンじゃ木が邪魔してここじゃ使えないの! 何とか……何とかタケルが攻撃して助けてくれない? その武器で!」
「………武器?」
「そう! タケルさんのその手に持っているリコーダーってやつで!」
―――いや、何を言っているんだ??
こんなものでどうやってと顔をしかめて耳を疑った。
「記憶はなくともタケルさんなら……きっと! 助けたいという思いを乗せて奏でれば神は――世界は答えてくれるはずです!」
そういえばと先程聞いた話を思い出した。
いや、まさか本当に俺にできるだなんてことは思ってはいない。
いないが………恐ろしい姿をした巨大な狼を目の前にし、余裕とは言えない戦いを続けているユーリとヒナタの奮闘を見てもしかしたら――と、本当に俺の中には助けになれる様な力があるのかもしれないという信じる心が芽生えた。
「でもどうやって………俺は何も『分からない』んだ―――。」
「わたしも妖術師のことは詳しく分からないんだけど……タケルの思うままに。直感でやってみて! 感性がものをいうって言われているぐらいの職業だし、やっていたら分かるかも! 私もどうにか援護できないかタケルさんから離れてやってみるから! 二人のことをお願い!」
返答も聞かずにそれだけ言い放つと俺から離れ、アリサは直線上に木が邪魔しない場所を探してちょこまかと動いた。
―――感性? 直感? ええいどうとでもなれ!!
どうしたらいいのかちゃんとした説明もされずに放り出され、俺は諦めにも似た感じで思い切ってデタラメにリコーダーを吹き鳴らした。
ピヒョ~ロロピッピピ~と人工的な高い音が辺りに鳴り響く。
俺は二人を助けたい、あの巨大な狼をどうにか大人しく降参させたいという思いを詰め込んで祈る様な気持ちでリコーダーを吹いていた。
暫く吹き鳴らすが何も起こらない――。
やはり俺には何もすることができないのかとリコーダーを口から放しかけたその瞬間!
自らの足元からモクモクと白い煙が立ち上り、ボワンとシャボン玉でも弾ける様に俺の視界を奪うが如く煙は拡散した。
―――エァ?
急激に湧き出してきたこの煙は一体何なのかと手で振り払っていると、拡散したそばからスーッと晴れてゆき、中から人が現れた。
―――人? 何で人が? 誰?
自分の思ったような結果が生み出せずに何かを呼んでしまったのかと慌てふためき、下を向いて頭を抱えてしまっていた俺に更に更に意表を突く出来事が起こった。
「――あれっ? タケル?」
目の前から聞こえてきた声は幼いころから耳馴染の深いあの声。
俺は「いや、まさか……」と思いつつもそーっと視線を足元から上にあげると――。
目の前に居たのはなんと、俺の母さんだった!
「――えっ? 何で母さんが……?」
「知らないわよ。 えっ? ここどこよ………?」
俺がこの世界に来て目覚めたばかりの時と同じように状況を理解できない母さんはキョロキョロと周りを見渡した。
背後から聞こえる金属のぶつかり合う音と不穏な空気が気になったらしく、せっかく見えない様にと隠れていた木の後ろ側からあの巨大な狼がいる方へと数歩近寄ってしまった。
「母さん!」
ハッと気が付いて俺が声をかけた時にはもう遅かった……。
―――あぁ、母さんが……あの巨大な狼に食べられてしまうっ!!!
と、俺は死を覚悟して思わず視線を逸らし、その恐怖から肩をすぼめて目をグッと瞑った。
―――ごめん、母さん………!
ところがどっこい!
「おすわりっ!」
―――えっ??
母さんが発した思いもよらない言葉の後には何の音も聞こえなくなり、俺は不思議に思ってソーっとビクビクしながらも目を開けて何があったのかとその光景を確認した。
―――…………。
なんとっ!
そこに見えたものは――さっきまで唸ったり吠えたりと人間に激しく威嚇し、爪や牙を向けて殺そうと攻撃してきていたあの巨大な狼が嘘の様に可愛らしいイヌの如く、大人しくチョコンとお座りをしている姿だった。
―――いや……んなアホな。