雨食
「はぁ……」
俺は何もする気になれず、ぼんやりと月の様に浮かぶ目玉を眺めていた。
もう、ほとんどの小蜘蛛は溶けてしまって、今は数匹の掠れた泣き声だけが虚空に響いている。
あれで良かったのだろうか?
いや、後悔はしていない。ただ、別の可能性に思いを馳せているだけだ。
そう、例えば、どんな未来が、そうだな…………ああ、駄目だ。
振ってくれと言われたら、俺は絶対に振っていた。
結局、なるべくして今の様になったのだ。
残り一匹になった小蜘蛛は、まだ泣いている。
さっきまで快晴の様に真っ青だった虚空も、次第に紫がかってきた。
無限に張り巡らされていた蜘蛛の糸も、もう随分と薄くなっている。
この後は、夕日が沈んだ空の様に真っ暗になって、それで終わりなのだろう。
終わったら俺は死ぬのか?
それとも、柚子から解放されて現実に戻るのか?
重要な事だろうし、よく考えた方が良いのだろう。
だが、どうにもそんな気になれない。
俺は大の字に寝転んで、泣き続けている小蜘蛛を手に乗せた。
『愛して……』
小蜘蛛が泣く。
……これが、柚子の本音だったんだろうな。
「俺って、これからも大切な人に殺して欲しいって言われたら殺すのかな?」
返事は無いと知りながら、俺は小蜘蛛に話しかける。
『愛して……』
小蜘蛛は、泣いている。
「やっぱ、本当に相手の為を思うなら、相手の言う事を聞くしかないのかな?」
ずっとそう思っていたけれど、分からなくなった。
きっと、愛して欲しいというのは柚子の本音で、振って欲しいと言うのも柚子の本音なのだ。
『愛して……』
小蜘蛛は、泣いている。
「相手が好きだから、死にたい相手に生きてくれって言うのは、やっぱりエゴだよな……」
指先で、軽く小蜘蛛に触れる。
『愛してる』
小蜘蛛は、泡の様に割れて溶けた。
掌の上から、小蜘蛛だった液体がゆっくりと零れ始める。
俺は手に唇を添え、柚子の涙を呑んだ。
流れ込んできた柚子の心は歪だったけれど、やっぱり愛だった。
「…………愛してる……なんて」
口に広がったのは、柑橘類の様な甘さだった。
俺は立ち上がり、どこまでも続く虚空を眺める。
最後の小蜘蛛が溶けたのを皮切りに、幽かに残っていた糸は一斉に途切れ始めていた。
雲が流れるように、どんどん蜘蛛の巣が崩れ去る。
……もう、終わりなんだな。
最後の糸が切れる。
俺の体は宙を舞った。
とても大きく見えていた目玉が、次第に小さくなっていく。
虚空は、すっかり黒に染まったいる。
遠くで煌びやかに輝く星々も月と同じように、近くで見たら目玉なのだろうか?
幻想的にグロテスクな夜空を眺め、俺は落ち続ける。
月のような目が、いよいよ本当の三日月にしか見えなくなった時、俺の落下は唐突に終わりを告げた。
何かに受け止められたのだ。
俺は顔を上げ、自分を受け止めた相手を確認する。
「……よう、久しぶりだな」
俺をお姫様抱っこで受け止めるのは、上梨だった。
「そこまで久しぶりでもないでしょう。それとも、昨日遊園地に行った事も忘れてしまったの?」
普通の声音でそう告げる彼女の表情は、暗くて良く見えない。
昨日、か。感覚的には一週間くらい前の出来事だが、俺の脳にはしっかりと上梨の告白が記憶されている。
柚子の死は、やっぱり飲み込めない。
でも、上梨の好意とちゃんと向き合えるのは良かった。
……なんか、柚子の死に理由を付けるみたいで嫌だな。
ただ、それ以上に俺は生きていて良かったと思えている。
今は、それで良しとする。
「まあ、あれだよ、昨日なんて言うと全然時間が経ってないみたいに感じる。だが、よく考えてみろ。昨日お前と別れたのが午後六時、今は大体正午だろ? つまり十八時間も……うお!」
上梨が、俺の指を口に咥える。
「は……あ、お、え」
「……何?」
上梨は俺の指を舐りながら、おぼつかない活舌で問う。
「いや、何? じゃなくてな、指を舐めるなよ」
「……貴方が、知らない相手と魂を混ぜられそうになったのよ? 来てみたら貴方は無事だったけれど、それでも少しくらいは落ち着く時間が欲しいのよ」
そう言って、上梨は俺の指を舐め続ける。
前に舐めてきた時は少し言えば正気に戻ったが、今回はそうも行かないようだ。
「ちょっ……と、あの、上梨さん?」
上梨の顔が、俺の首筋に近づく。
「ねえ、貴方から柑橘系の香りがするわ……」
俺の喉仏に沿って、上梨の舌が蠢く。
「え? あ、え、へえ、そう? か」
上梨の舌が、俺の顎の淵をなぞる。
「……ねえ、私の事は好き?」
「ん、ああ、好きだよ」
上梨の声音が何故か、小蜘蛛の泣き声と重なった。
「友達として、好きなの?」
首筋から顔を離した上梨が、軽く俺の指を噛む。
本当の所、好きとか、嫌いとか、愛とか、そういうのが最近は良く分からない。だが、俺までそんな事を言い出したら、上梨はもっと迷うだろう。
俺は小さく頷いて、上梨の言葉を肯定した。
「…………そ」
上梨は小さくそう言うと、ようやく俺を降ろした。
そこで初めて、俺達が木の上に立っていたのだと気が付く。
風も吹いていないのに、ざわりと葉が音を鳴らした。
上梨が、ゆっくりと顔を近づけてくる。
ゆっくり、じわじわと、視界に上梨の顔が広がる。
上梨と俺の顔の距離が縮むにつれ、上梨が先ほどのように俺の首筋ではなく、顔そのものを目指している事を理解する。
近づいて、近づいて、目と目が触れ合う程に近づいた。
その時、暗くて良く見えなかった上梨の瞳がハッキリと見えた。
瞳孔が、異常な程に開いている。
次の瞬間、花が開くように上梨の上半身が開いた。
以前見た時と同じように、肉紐と花弁の様な大顎にはズラリと棘が並んでいる。
上梨は人になっていなかったのだと、俺は理解した。
俺の上半身が、上梨の生暖かい肉紐と顎に包まれる。
今度は指ではなく、上半身を口に含まれたのだ。
上梨の唾液が俺の背中を濡らす。
咽かえるような、甘い臭気が鼻を刺した。
昔、梨を腐らせた時にも同じような臭いがしたのを覚えている。
じわじわと、上半身が締め付けられているのを感じる。
喰われるとは、こういう感覚なのか。
あれだけ沢山あった棘は、どれも俺をかみ砕くのではなく、皮膚をゆっくりと裂く事に使われていた。
ジンジンとした鈍い痛みが、俺の鼓動に合わせて全身を回る。
痛みに小さく喘いでいると、口内に上梨の唾液が入ってきた。
そういえば明日香が以前、貴志は上梨さんとキスするんだ、とか言ってたっけ?
舌を舐るのがディープキスなら、上半身を舐られるのもキスの内だろう。
つまり、見事に明日香の願い通りになった訳だ。
上梨の唾液を嚥下すると、上梨の心が流れ込んでくる。
俺の脳を満たした心は思っていたよりも純粋で、純情だ。
少し、意外だったな。
だが、納得感もある。
こいつも、寂しいんだ。
だんだんと頭が熱くなってくる。
魂が混ざる感覚、柚子の時と同じだ。
もしかして、消化されるってこういう事なのだろうか?
ぼんやりとした今の頭では、良く考えられない。
自分の肉が潰れる感覚に身を任せ、俺はゆっくりと上梨を撫で続ける。
……眠い。
俺は目を瞑り、呼吸に身をまかせ、体の力を抜く。
そのまま肋が蠢くような違和感を無視して、俺は意識を手放した。




