6話 エリザベートの真意
勢いで走りだしてしまったアメリアは、少し息が上がりだしたところで足を止めた。ちょっと落ち着こうと息をついて周囲に視線を巡らせる。そして気付いた。その風景に見覚えがないことに。
来た道を引き返しているつもりだった。けれどそこは大きな広間で、サロンのような雰囲気はどう考えても来たことがない場所だった。
「うそ……」
慌ててもう一度周囲を見渡す。廊下の続きでそのまま入り込んでしまった場所だが、まったく記憶にない。扉を開けたりはしていないのだ。入ってはいけない場所ではないと思いたい。
とりあえず引き返すにしてもここがどこだかまったく分からない。誰かに聞けばいいのだろうが、そんな時に限って人に出くわさない。
仕方なくアメリアは窓に寄ってみた。外の景色を見ればどうにか方角くらい分かると思ったのだ。
(あ、女学院が見える……)
見知った女学院の屋根が建物の隙間から見えている。頭の中で王宮との配置を思い浮かべ、今自分がどの辺りにいるのか考える。
なんとなく位置関係が分かって、とにかく女学院を目指そうと窓の外を気にしながら歩きだした。
しばらく歩くと見たことのある場所に出た。そこは表玄関で、王宮に出入りしている貴族や騎士が行き来している。アメリアは慌ててフードを引っ張り顔を伏せると、早足でそこを通り過ぎた。
女学院から神殿への道は分かっているから、そちらから神殿に戻ろうと決めて歩き続けていると、いつも友人たちと散歩をしていた小さな庭園に着いた。思わずそちらを見つめて歩く速度を緩めてしまう。
まだたった一日しか経っていないのに、もうこの場所が懐かしく感じる。ここで友人たちとおしゃべりしたり笑い合ったりは二度とできないんだと思うと悲しみが胸に溢れた。
「アメリア」
名前を呼ばれ驚いて振り返ると、花の影に隠れるようにエリザベートが立っていた。
「エリザベート……」
「本当に、神殿女官になったのね」
上から下まで値踏みされるように見られて、アメリアは恥ずかしくてたまらなかった。こんな姿、絶対に見られたくなかった。
「お父様からお聞きしたわ。神に最も近く仕える女官なのですってね。とても名誉なことで喜ばしいことだと言っていたわ。良かったわね、アメリア」
なぜエリザベートはこんなにも自分を攻撃するのだろう。本当に昔は仲が良かったのだ。親友だと思っていた。それがいつしかこんなにも剣を突き刺すような酷い言葉ばかりを言い放つようになった。
「……ありがとう、エリザベート」
「婚約破棄されたのも偶然じゃないのかもしれないわね」
「どういうこと?」
「あら、だってタイミングがぴったりじゃない。神殿からのお達しがあったのではなくて?」
「それはあなたのせいでしょう!?」
怒りを飲み込むことができず大声を出してしまうと、エリザベートはにこりと笑って首を傾げる。
「もうそれはいいじゃない。結局あなたは神殿女官になって結婚できない人になってしまったんだから」
「いいわけない! なんで!? あなたはどうしてそんなに意地悪になってしまったの!? 私あなたになにかした!?」
もうずっと我慢していたことが溢れて止めることができなかった。怒りに両手を握り締めエリザベートを睨み付ける。
「なにかしたですって? アメリア、あなたが一番酷いことをしたのよ」
「私が? 私があなたにいつ酷いことをしたっていうの?」
「……本当に鈍感ね。私は……、マティアス様が好きだったの。幼い頃からずっと。あなたはなんとなく親に決められてなんとなく結婚しようとしてたけど、私は違う! 私はあの方と結婚することだけ夢見てた! 年頃になったら婚約して幸せな結婚をするつもりだったの!!」
エリザベートの言葉にアメリアは目を見開いて驚いた。いつも余裕の笑みを浮かべて優雅に振る舞っているエリザベートの本音が、今までの嫌味よりもずっと胸の奥に突き刺さる。
不可抗力だ。アメリアの婚約は親同士のものでアメリアにはどうしようもなかった。けれどそれがエリザベートを傷つけていた。
「エリザベート……、私……」
「いまさらそんな顔しなくていいわ。結局あなたはマティアス様とは破談になったんですもの。あなたは神殿から出られないし、もう私の邪魔はできないでしょ」
エリザベートはいつもの優雅な笑みを取り戻すと、ドレスのリボンをそっと撫でる。それが自分の黒のローブへの当てつけであるのは明らかだった。
「私マティアス様と結婚するわ。もうお父様にはお願いしたの。きっとすぐお話が来るはずよ」
アメリアは何も言い返すことができない。悔しいのか悲しいのかも分からず、ただもうエリザベートを見ていることができず背中を向けると全速力で走った。
頭の中はぐちゃぐちゃだった。勝手に涙が溢れていくら拭っても止まらない。そんな自分がたまらなく惨めで悲しかった。
◇◇◇
神殿に戻ったアメリアは、そのまま白の間の自室に入りベッドに突っ伏して泣いた。そうしてしばらくしてやっと涙が引くとぼんやりと室内を見た。
殺風景な小さな部屋に自分を慰めてくれるものは何ひとつない。落ち込んだ時聞いていたオルゴールも、子供の頃から一緒にいた人形も。子供じみたそれは部屋の引き出しにもうしまってしまったけれど、今はそれがとても恋しい。
(お母様……)
話を聞いてほしい。優しい声で「大丈夫」だと言ってほしい。
ふらりと立ち上がると部屋を出る。外へ向かう真っ白なドアに顔を向けたアメリアだったが、なんとなく視界に揺れているベールに目を止めた。ゆらゆらとこちらに向かってベールが揺れている。
「サリューン……」
母のところへ逃げ帰ってしまいたかったけれど、そこから一歩も足は動かなかった。その場に立ったままぼんやりとし、時間が経って足が向いた先はベールの先だった。なぜかそちらに足が向いた。
ゆっくりとベールをくぐる。何も変わらない美しい景色に目をやりながら森の方へ進むと滝に出た。
そこにサリューンが立っていた。振り返ったサリューンが深い皺をもっと深くして笑う。
「おかえり、メル。神託は渡せたか?」
低い穏やかな声が耳に沁み込む。アメリアは堪えきれずまた涙を溢れさせると泣きだした。
子供のように泣くアメリアに驚き、サリューンは戸惑ったままアメリアを見つめていたが、少しするとそばに寄りそっとその身体を抱き締めた。
何も言わずただ背中や頭を撫でて慰めてくれる。ぎこちない様子のサリューンにアメリアは優しさを感じ、涙はゆっくりと引いていった。
鼻をすすりながら顔を上げると、どこか困ったようなサリューンの顔に微笑む。
「ごめんなさい、突然泣いちゃって」
「いや……、大丈夫か?」
「はい。もう大丈夫です」
身体を離して頷く。たくさん泣いたからだろうか、妙に頭がすっきりしている。まだ少し心配そうに見つめてくるサリューンは、年配の者特有の泰然とした雰囲気がなく、それが微笑ましく思えた。
「そんなに……、この役目が嫌だったか?」
不安そうに聞かれて、アメリアは思わず笑ってしまう。
「いいえ」
その時なぜか自然とそう答えていた。顔を曇らせて心配そうに聞いてきたサリューンが可愛く思えてしまう。神なのにこんなに感情が溢れていていいのだろうか。
「本当か?」
「本当です。ですからそんな顔しないで下さい」
「そんな顔とはどんな顔だ」
「そんな顔はそんな顔です」
狼狽えるサリューンを見てアメリアはまた笑った。穏やかな陽射しの中でサリューンの黒髪がきらきらと輝いている。
「サリューン。髪を梳かしてさしあげましょうか」
アメリアの提案に、サリューンは驚くほど素直に笑顔を作ると嬉しそうに頷いた。