52話 フィーレンの勇気
躊躇わずに神域から飛び出したサリューンは、小さな扉を開けて外へ出た。太陽はすでに中点を大きく過ぎている。冥府の神域に戻りこちらにもう一度来たことで、相当の時間のロスになってしまった。
意識を集中しても王宮の方角に指輪の気配は感じられない。移動したのだろうかと周囲に意識を広げる。
(どこだ……?)
あまりにも遠くに行き過ぎてしまえば魔法の気配は感じ取れなくなってしまう。この規模の街では端と端ではもはや魔法の範囲外だろう。
アメリアが移動しているのであれば、こちらも足で探すしかない。
とにかく大通りに出てみるかと走りだした。
暑い陽射しの下を、人を掻き分けて進む。そうしながらも魔法の気配を探り周囲を見渡していると、微かではあるが魔法の気配に気付いた。それは王宮とは反対の、南の方角から感じる。
足をそちらに向けて歩きだすと、ほどなく高い隔壁が見えてきた。ぱっくりと開いた大きな門には、入ってくる者と出て行く者でごった返している。
「すいません。あの門を出て南へ行くと街はありますか?」
旅装の商人らしい大荷物を背負った男に声を掛けると、気の良さそうな笑みを向けて頷く。
「ああ。南ならカルーファがあるね」
「カルーファ……」
「あんた、これから行くつもりかい? そりゃやめた方がいいよ」
「なぜです?」
「カルーファまではちょうど一日がかりで砂漠を越えるんだよ。これから出たら夜通しになっちまう。途中休めるところなんてないからな、足がないなら明日出直した方がいい」
「そうですか……」
男に感謝を述べ門を出て行く背中を見送る。隔壁の上に広がる空は、徐々に赤く染まりつつある。その空を見上げて考える。
(カルーファに連れて行かれたのか?)
そうであってほしくはなかったが、最悪そうなるのではないかと考えていた。
魔法の気配は確かに南の方角から感じる。その先にカルーファがあるのならもはや疑いようがない。
助けに行かなければならない。このまま穏便に事が進むとは到底思えない。カルーファで一悶着あるというなら、アメリアは確実に巻き込まれるだろう。
そこに危険がないとも思えない。
(だがどうする……。このまま無謀に砂漠に突っ込んだところで、犬死してしまう可能性もある……)
道も分からぬ砂漠の中を、徘徊する獣を避けて無事にカルーファまで歩けるだろうか。
躊躇している暇などないが、ただ闇雲に突っ込むほど愚かなことはできない。
門を睨み付けながらサリューンは立ち尽くして考え込む。
「サリューン様!」
そうしてしばらくして背後から聞こえた高い呼び声に、サリューンは驚いて振り返った。人混みの中、長い銀髪を横に編んだ美しい女性が遠くから手を振って近付いてくる。
その姿にサリューンは目を見開き固まってしまう。そうこうしている内に女性は目の前で足を止め、はぁはぁと息を整えるとにこりと笑った。
「やっぱり、ここにいると思っておりましたわ」
どこか嬉しそうに言ったのは、どう見てもフィーレンだった。旅装はしているがその美しい美貌はまったくそのままで、明らかに人目を引いてしまっている。
サリューンは慌ててフィーレンの背中に落とされたままだったフードをたくし上げ目深に被らせる。
「フィーレン! どうしてここに?」
小声で咎めると、フィーレンは両手で拳を作って見せた。
「わたくしもお手伝い致します!」
「ダメだと言っただろ?」
「ここにいるということは、やはりアメリア様はカルーファに向けてもう発ってしまわれたのですね」
「ああ、そのようだ」
「歩いていては今から追い掛けても追いつけませんわ。馬を用立てなくては」
「フィーレン」
話を進めてしまおうとするフィーレンに、サリューンはその手を取って言葉を止めた。
キョトンとするフィーレンにサリューンは厳しい目を向ける。
「お前の勇気は褒めてやる。だが帰れ。カルーファでなにか起こると分かっていて、お前を連れてはいけない」
「ですが、サリューン様」
「俺もここではただの人だ。メルを守るだけでも精一杯になる。お前を見捨てるなどできる訳がないが、危険が迫った時、どうにもならんことだってあるんだ」
強い口調で説き伏せようとしたが、フィーレンの真っ直ぐに見つめる目は頑として揺るがない。
「最初からこうしなければいけなかったのですわ。アメリア様にもサリューン様にもご迷惑を掛けて……。わたくしの国のことですもの、わたくしがどうにか致します」
フィーレンから初めて聞いた決然とした声と言葉に、サリューンは口を噤んだ。
言っていることは正しいが、承服してしまうには危険要素があり過ぎる。やはりここは大人しく神域で待ってもらおうと説得しようとしたサリューンだったが、その前にフィーレンが口を開いた。
「馬を用意できたら、わたくしも連れて行って下さいませ」
「馬を?」
「自分の身は自分で守ります。ですから試させて下さい」
必死でそう言い募るフィーレンと睨み合いを続けたサリューンだったが、しばらくして大きく溜め息を吐いた。
「分かった。そうまで言うならやってみろ」
「はい!」
サリューンの言葉に嬉しそうに返事をしたフィーレンは門の方へ向かって走り出した。その背中を見守りながらもう一度溜め息を吐く。
実際今の状況を打破するには馬が必要だろう。それをフィーレンが用意できるとは思えなかったが、ああまで言うのなら試させてやりたくなった。たとえ失敗に終わっても、それでフィーレンは納得して神域に戻るだろうし、馬は自分でどうにかすればいいだけだ。
とにかく少し様子を見てやるかと、サリューンは門に近付きフィーレンを見守ることにした。
門のそばにある宿屋に走って行ったフィーレンは、その店先に立っていた男に声を掛けているようだった。宿屋の隣には厩舎があり、数頭の馬が繋がれている。それが宿屋の物なのか、宿泊客の物なのかは分からない。
話している内容は聞こえないが、少しするとフィーレンが右手を差し出した。その途端、魔法の気配がしてサリューンはハッとした。男は一つ頷くと厩舎に向かい、ほどなく馬を二頭連れてきた。
フィーレンはその手綱を受け取ると、にこやかな笑顔を見せて戻ってきた。
「馬を借りられましたわ」
満足げな様子で言うフィーレンに、サリューンは手綱を持つ右手を見た。そこに見慣れない赤い指輪があって首を傾げる。
その視線に気付いたフィーレンは、手綱をこちらに差し出しながら言った。
「幻惑の魔法を封じてありますの。こちらには守りの魔法を。これならわたくしも少しはお役に立てるでしょう?」
左手の指に嵌っている青い指輪を見せてフィーレンは微笑む。
その様子にサリューンは参ったなと肩を竦めた。
「なるほど、幻惑の魔法か。よく考えたものだ」
「連れて行って頂けますわよね。サリューン様」
幻惑の魔法など一欠片も思い浮かばなかった自分を思えば、これはもう頷くほかはない。やれやれと思いながら頷くと、フィーレンは嬉しそうに笑った。
「では、カルーファに向けて急ぎましょう」
促すフィーレンにサリューンは頷くと、馬を引いて門へ向かった。夕方の時間、街に入ろうとする者たちで門はごった返している。門兵たちはその者たちに入国許可証を出すために慌ただしく動いており、街から出て行く者にはそれほど注意を払っていない。
二人は馬を引いて門を越えたが、誰かに呼び止められることもなくすんなりと門を抜けた。
視界は一気に開け、目の前にはどこまでも砂漠が続いている。地平線に赤い名残はあったが、まもなく闇に落ちるだろう。
「お前、馬は乗れるのか?」
「あら、わたくし天馬に乗らせたら誰にも負けませんわよ」
得意げに言うフィーレンは颯爽と馬に飛び乗る。その仕草は確かに慣れたもので、危なげな様子はない。
サリューンは肩を竦めると、自分もあぶみに足を掛け飛び乗る。
「さぁ、行きましょう!」
フィーレンが馬の腹を蹴って駆け出す。その背中に頼もしさを見てサリューンは笑うと、前を見据え走り出した。




