51話 神と人
後宮へと続く扉が閉じられ、兵士に扉から離れていろと言われたサリューンは、仕方なく扉から数歩離れた。
(神託を渡すだけならそれほど時間はかからないよな……)
アメリアが心配ではあるが、このまま穏便に事が終わることを願うしかない。
窓に寄って外を見ると、中庭のような場所が見えた。美しい大理石でできた大きな噴水が緑の中にあるが、その中央には蛇の石像があって、開いた口から水が落ちている。
変な彫像だなとのんきに思っていると、廊下の先から女官が姿を現した。銀のトレイにグラスを持って近付いてくる。
口元を薄絹で隠した女官は、目の前まで来ると膝を突いた。
「王太子殿下のご命令で参りました。どうぞお飲み下さいませ」
「俺に?」
女官が恭しくグラスを捧げ持つ。
(そういえばあいつ、冷たい飲み物を出してやるとかなんとか言っていたっけ……)
まさか本当に持ってくるとは思っていなかった。見た目に反して結構律儀なところがあるのかもなと考えていると、女官が困ったような視線を送ってくる。
「いかがなさいましたか?」
「ああ、いや、なんでもないんだ。あまりのどは乾いていなくて」
「それは……、困ります。王太子殿下にわたくしが叱られてしまいます」
「ああ、そっか。そうだよな」
悲しげに言われて、サリューンは慌ててグラスを受け取る。
ジルからの施しのように感じてあまり気は進まなかったが、そんなことでこの女官を困らせては可哀想だと、一気に中身を飲み干した。
「美味しゅうごさいましょう?」
「ああ。すごく美味いワイン……だな……」
にこりと笑う女官の顔が歪んで見えた。怪訝に思う間もなく膝から力が抜ける。
「なん……だ……」
床に膝を突くこともできず倒れ込む。そして遠くからバタバタと複数の足音が近付いてきた。
「全部飲ませたか?」
「はい」
兵士と女官の会話が遠く聞こえて、サリューンは奥歯を噛み締める。
ジルの態度は気に入らなかったが、どこかで信用していたところがあった。アメリアに対して酷いことはしないだろうと、直感的に感じられたのだ。だがそれは勘違いだったようだ。
(俺もまだまだだな……)
アメリアに迂闊さを叱ったばかりでこの体たらくでは、もうアメリアを叱れないなと苦笑する。
そうして重い瞼を閉じると、意識を失った。
◇◇◇
ハッと意識を取り戻した時、視界に入ったのは鉄格子だった。ガバッと起き上がり、鉄格子に走り寄ると近くにいた兵士に声を掛けた。
「メル! アメリアはどうなったんだ!?」
「ああ、やっと起きたか。アメリア様に危険が及ぶことはない。お前はここで大人しく待っていろ。殿下も悪いようにはしないと仰せだからな」
言い含めるような言い方は、余計なことをせず大人しく捕まっていれば危害を加えないということだろう。
兵士が背中を向け階段を上がっていくのを見送りながら考える。
(俺が捕まったということは、メルをこのまま素直にリュエナに帰す気はないということか……)
フィーレンはカルーファで何かが起こると言っていた。まさかそれにアメリアを巻き込むつもりなのだろうか。
他国とはいえ神代に対してよくもそんなことができるものだ。セスに対しても、魔法使いだからといって神子を一人で危険な任に着かせるなどリュエナでは考えられない。
(国が違えばその扱いも変わるのは分かっていたつもりだが……)
遥か昔に定められた神子の立場の原則は、時が流れる内に随分と変遷してしまったようだ。ジルにそれを訴えた時、理解している風ではあった。だがそれを厳密に守るつもりはないのだろう。
(仕方のないことか……)
戦乱の世の時とは違う。神からの助言は、今ではあまり必要のないものに成り下がっているのかもしれない。
だがだからといって、自分の妻がこのように軽んじられるのは黙っていられない。
サリューンは冷えた鉄格子を握り締めて、そこに掛かる大きな鉄の閂を見る。
どう暴れたとしてもここから出ることはできないだろう。けれどここでじっと待っていることなど絶対にできない。
武器はなく、この鉄格子を壊すほどの魔法もない。となればもはや手は一つしかない。
サリューンは意を決すると、鉄格子を放し牢屋の中央へと後ずさる。そうして目を閉じ深く息を吐いた。
その途端、リオンとして存在していた身体はぐずぐずぐと溶けて空間に消え始める。
そうして、もう一度目を開けると、そこは冥府の神域の中だった。
「上手くいったか……」
石の椅子に座った姿勢でひとり呟き見下ろすと、自分の身体がどうにもなっていないことを確認する。
あまり使うことはないのだが、リオンの身体を手放せば神域へ直接戻ることができる。魔法とは違うので単にいるべきところに戻るという作用なのだが、これで他国からもできることが証明された。
だが戻ったのは冥府の神域だ。サリューンは慌てて走りだすと、またフィーレンのいる月の神殿に駆け込んだ。
「サリューン様!?」
息を切らせて駆け込んできたサリューンに驚いたフィーレンは椅子から腰を浮かす。息が整うのも待っていられずサリューンは話し出した。
「お前の国の者はとんだ食わせ者だな」
「どういうことです?」
「メルが囚われた」
「なんですって!?」
驚愕するフィーレンにサリューンは眉根を寄せて続ける。
「メルを帰す気はないらしい」
「そんな……」
「たぶんセスの代わりにまだなにかをやらせるつもりなんだろう」
「サリューン様……、なんとお詫びをしたら……」
「今はそんなことを言っている場合ではない。俺はもう一度ラーンへ行く。なんとしてもメルを無事に連れ戻さなければ」
「わ、わたくしも参ります!」
フィーレンの強い声にサリューンは顔を顰める。
両手を胸の前で握り締め、決死の表情で見つめてくるフィーレンにサリューンは首を振る。
「お前が行っても足手まといだ」
「そうかもしれませんが、じっとしてなどいられませんわ!」
自分のように仮の姿で人の世界をふらふらする神は珍しい。覗き見するようなことはあっても、直接赴くことは普通しない。神としての力を封じられた状態で、人の世界をうろつくことは非常に危険だからだ。
仮の姿でもし命を落とすようなことがあれば、それはそのまま己の消滅へと直結する。神域であれば不老不死であったとしても、人の世界にあれば神だとてその摂理に巻き込まれる。
だから神はおいそれと人の世界に立ち入ることはしない。
「フィーレン、無理はするな。気持ちは分かるが不慣れなお前を連れて行く訳にはいかない。ここで待っていろ」
説得のために強めに言葉を発すると、フィーレンはしょんぼりとした顔をして俯いてしまう。
それでももう付いて行くとは言わなくなったフィーレンに安堵し、サリューンはもう一度リオンの姿になった。腰にはマントに隠すように剣を携える。
あまり剣技は得意ではないが、この状況で空手で行く訳にはいかない。
「どうなるかは分からないが、セスのこともできる限り調べてこよう」
「サリューン様!」
反射的に顔を上げたフィーレンの表情には嬉しさが滲んでいて、サリューンはポンとフィーレンの頭に手を乗せた。
何度か優しく撫でてから手を離すと、神域の境界へと向かう。
「サリューン様。国王は道理を弁えた人物です」
ベールの前でフィーレンの言葉に静かに振り返る。
「聖君とまではいきませんが、この治世で大きな争いは起こらないでしょう」
「……なるほど」
神は自身の守る国の国王が即位する時、契約をする。その時、その人物が国にどういう影響を与えるのかを知ることができる。善王となるのであれば大いに助力を与え、そうでないならば早々に手を切ることもある。
(ならば、やはり注意すべきは王太子ということか……)
サリューンは厳しい目つきでフィーレンを見返すとひとつ頷く。
「ご無事で」
「行ってくる」
短く挨拶を交わすと、サリューンはまたベールをくぐり、ラーンの街へと走り出た。




