4話 リオン
白の間と言われる真っ白の部屋の隣にある部屋でアメリアは一晩を過ごした。小さな部屋だったが生活をするためのものは大抵揃っていて、ここに先代も暮らしていたのだろうかとふと思ったが、少し怖くなって考えるのをやめた。
ベッドに入ってからも取り留めなく色々なことが頭に浮かび眠ることなどできなかった。室内が明るくなってきて仕方なく起き上がると支度をする。今日何をするのかもまったく分からず、どうしようかと考えているとノックの音がした。
「はい」
「起きてる?」
気さくな呼びかけにアメリアは少しだけ違和感を覚えながら腰を上げる。ちょうど髪を纏め上げたところで身支度は終わっている。おかしなところはないかと一瞬姿見を見てからドアに向かった。
ドアを開くとそこには見知らぬ青年が立っていた。
「おはよ。もう支度したんだ。早いな」
「……おはよう、ございます。えっと、どなたでしょうか」
短い黒髪と黒い瞳の青年が快活そうな笑顔をこちらに向けている。年の頃はたぶん自分と同じくらいだろう。目の前に立たれると顎を上げないと目が合わないくらい背が高い。神官服であるローブは着ておらず、とてもラフなシャツとズボンを着ている。
整った顔立ちに思わず見つめてしまうと、青年はにこりと笑い持っていたカゴを差し出した。
「俺はリオン。ここの、まぁ小間使いみたいなもんかな。腹減ってるだろ? 朝飯持ってきたから食えよ」
「小間使い……。あ、はじめまして。私、アメリアと申します」
「知ってるって。新しいサリューンの嫁さんだろ? これからよろしくな」
「よろしくお願いします」
丁寧にそう返答すると、リオンは楽しげに笑って首を振る。
「俺に、というかここで敬語はいらないぜ。あんたが一番上なんだから」
「一番上?」
「そ。教皇様より上なんだぜ、あんた」
「え?」
意味が分からず目を瞬かせると、リオンはカゴを押し付けてきた。中を見るとパンと卵料理とサラダとスープという何の変哲もない朝食が入っている。
「それ食べ終わったら神域に行きな」
「神域に?」
「今日は神託を持って行く日だからさ。兎にも角にもそれが一番大事な役目だ」
「ご神託……」
教皇から少しだけ聞いた神託のことをアメリアはまだよく分かっていない。そもそもここで何をするのかもまだまったく分かっていない状況で不安が頭をもたげてくる。
「あの! 何をどうすればいいか、全然分からないんだけど……」
「細かいことは俺が教えてやるよ。でも神域の中のことは俺も分からないから、それはサリューンに直接聞きな」
「神様に!?」
仕える神にやる事を直接聞くなんて普通ではない気がしてアメリアが驚くと、リオンは声を上げて笑う。
「神様って、あんたの旦那だろ」
「そ、それは! そうなんだけど……」
リオンの言い方はまるで普通の夫婦のようだ。神を相手に夫などと言えるわけがないのにとアメリアは口ごもる。そんなアメリアにリオンは笑いを収めるとポンと頭の上に手を置いた。
「とにかく今日は神託を届けるのが仕事だ。張り切ってやろうぜ」
「うん……」
励まそうとしてくれているのだろう言葉と笑顔に少しだけ不安が消えて、アメリアはどうにか笑顔を返した。
◇◇◇
昨日と同じようにベールを越えると、アメリアはとりあえずサリューンが座っていた椅子に向かう。けれどそこは空っぽで椅子の背凭れには小鳥が止まっていた。
いつもここにいるんじゃないかとなんとなく思っていたアメリアは、出ばなをくじかれてどうしようかと辺りを見回す。
明るい陽射しが緑の木々の隙間から落ちて、ちらちらと影を揺らしている。ここはいつもこんな風に美しく、気持ちがいい風が流れているのだろうかと思いながら、木々が深くなっている方へ歩いていく。
(昨日はこちらの方へ歩いて行ったわよね……)
滝の音が近くなってくる。昨日サリューンが去った方へ進んでみると突然視界が開けて小さな滝が現れた。アメリアの背の倍ほどの高さから水が滑り落ちて滝つぼに落ちている。けれど水はそこからどこにも流れることなく泉を作っていた。
「不思議……」
どういう風になっているんだろうかと水面を覗き込もうとすると、近くの葉がガサリと揺れてサリューンが現れた。
「何をしているんだ」
「あ、お、おはようございます!」
「おはよう」
妙なところを見られてしまい慌てて姿勢を戻し挨拶をする。サリューンは気にしていないのか静かに挨拶を返し、そのまま椅子に向かって歩いていった。アメリアも後ろについて行くと、一瞬ちらりとこちらを見られる。
(変なところは、ないよね……)
アメリアは着ている黒いローブを見下ろし、それから髪に触れて乱れていないかをそっと確認した。
椅子に座ったサリューンはふうと息をつきアメリアに視線を送る。
「神託を書く。そこにいろ」
「はい」
何が起こるのかとドキドキしながら見つめる先で、サリューンは右手の人差し指を宙に滑らせる。左右に揺らしたり丸を描いているようで文字を書いている様には見えない。
少しの間そうしていると、何もない空間に一枚の羊皮紙がどこからともなくふわりと現れた。それをサリューンは掴み取りくるくると巻き、アメリアに差し出す。
「これを国王に届けよ」
「は、はい。あの、なにか他にやることはありますか?」
勇気を振り絞って聞いてみたが、サリューンは真っ直ぐにアメリアを見つめたまま動かない。やはり聞いてはいけなかったのかと激しく後悔していると、サリューンはふっと笑った。
(あ、笑った……)
穏やかな優しい笑みに思わずその顔を見つめてしまう。
「アメリア、こちらに来い」
手招きされてそばに寄ると神託を渡される。薄く文様が描かれている美しい羊皮紙はもはや不思議なところはまったくない。中身を見たい誘惑が胸にほんの少し湧くけれどそれはさすがに我慢した。
「今日はその神託を届けるだけでいい。初めから色々やっては疲れるだろう。こちらで休んでいても良いし、あちらでなにか好きなことをしても良い」
「そう、なのですか?」
「お前はこちらを気に入ったか?」
「はい。美しいし、不思議です」
「そうか。……アメリアの名前はアメリア・セルフィスだったか」
「はい、そうです」
「なら、お前をこれからメルと呼ぶ」
サリューンの言葉にアメリアは目をパチパチと瞬かせる。唐突に話が変わって少し驚いたが呼び名にもっと驚いた。アメリアは幼い頃アミィやリアと呼ばれていた。普通はファーストネームをもじって呼ばれるものだから、『メル』という聞き慣れない呼び名に驚いたのだ。
「メル……、ですか?」
「あぁ、おかしいか?」
「いえ……、おかしくない、です」
少し心配げな表情でサリューンが聞くものだから思わずアメリアは笑ってしまった。そこでふと思って口を開く。もうだいぶ緊張感はなくなっていた。
「私はなんとお呼びすればよろしいのでしょう」
「我のことか?」
「はい」
「ならサリューンと呼べばいい」
「サリューン様」
「様はいらない」
そう言われてアメリアは返答に困った。そういえばさきほど会ったリオンという青年もサリューンのことを呼びつけにしていたなと思い出しながら、それでもやはり神を気軽に呼び捨てにはできないと断ろうとして口を開けば、念を押すようにもう一度同じことを言われる。
「様はいらないぞ」
「ですが」
「話はこれで終わりだ。神託を早く持っていけ」
「はい……」
これはもう何を言っても覆せないなとアメリアは感じると、仕方なく返事をし「行って参ります」と挨拶をしてから神域を出た。
◇◇◇
「おかえり。神託はもらえたか?」
戻ってきた白の間には待っていてくれたのかリオンがいた。アメリアはホッとして小さく息を吐く。
「なんだ。緊張してんのか?」
「当たり前でしょ。まだたった1日よ。慣れないことばかりだもの」
「そっか……。そうだよな。まぁ、ゆっくり慣れてけばいいさ」
サリューンと同じことを言うリオンにアメリアは微笑む。こんな小さな優しさが今はとても嬉しく感じる。
「よし。それじゃあ行くか」
「あぁ、待って」
「なんだ?」
「あなたのこと、なんて呼べばいいの?」
「リオンでいいよ。俺はあんたのことメルって呼ぶから」
リオンは楽しそうに笑いながらさっさと部屋を出ていってしまう。取り残されたアメリアはまた目をパチパチと瞬かせる。
「変なの……」
小さく呟くと、アメリアも部屋を出た。