35話 月の女神フィーレン
「ラーン王国ってリュエナからずーっと西の国の?」
「そうだ」
思い出したことが嬉しいのか、サリューンは笑顔のままで頷くと隣に座る。
教皇から教わっている勉強の中で世界のこともたくさん学んでいる。
月の神殿を擁する砂漠の国ラーン王国。リュエナとはあまりにも遠い西の国で、国交はないはずだ。少し前に教皇が月の神殿に書状を送っていたことを思い出して、アメリアはサリューンの顔を見返した。
「サリューン、教皇様が月の神とは近しい存在だって言っていたけど仲が良いの?」
「そうだな。月の女神フィーレンは俺の眷属のようなものだな」
「眷属か……。あ、そうだ。私もゲルトルーデ様から魔法書を頂いたの。教皇様が預かっていてくれていて」
重たい魔法書を両手に持ってサリューンに差し出す。それを見下ろしたサリューンは穏やかに微笑んで表紙に手を置いた。
「ゲルトルーデの字だ……」
「少し読んでみたんだけど、私にはちょっと難しいみたい」
「仕方ないさ。本を読んで魔法使いになれたらそんな楽な話はない。とにかく一度ラーン王国の魔法使いに会って、師匠になってくれるか頼んでみよう」
サリューンの提案にアメリアは首を傾げる。
「待ってサリューン。リュエナとラーンでは遠すぎるわ。会いに行くなんて到底無理よ」
「それは心配いらない。月の神殿の神子なら、こちらから行けばすぐだから」
「こちら?」
「神域だよ」
「え!?」
アメリアが驚いて声を上げると、サリューンは楽しげに笑う。
「月の神殿はすぐそばだ。歩いて行ける距離だし、まったく問題ないだろう」
「でも、いいの?」
「何も悪いことはない。メルはもうこちらの者だし、好きなところに行って構わない」
そんな気軽に自分が神の世界を行き来していいものか疑問に思ったが、サリューンは別段気にした風もなく頷き答える。
だがアメリアにはまだ神の仲間入りをしたという自覚がまったくない。聖婚式は挙げたが、神殿での仕事はまだまだ見習いのようなものだし、神域の中では驚くようなこともまだたくさんある。
サリューンを疑うわけではないけれど、やはり自分は人であり続けるしかない気がしていた。
「今日はもう遅い時間だから明日昼間に行ってみよう。シモン様には休みを貰っておけよ」
「うん、分かった」
アメリアは小さく頷くと、わくわくした気持ちと共に、おおごとにならなければいいけどと心配に思うのだった。
◇◇◇
朝の仕度を終わらせ教皇に挨拶を済ませると、アメリアは神域に戻ってきた。
待っていたサリューンは魔法書を携えている。
「魔法書も持っていくの?」
「メルの魔力はゲルトルーデのものだから、本人が書いた魔法書があった方が教えやすいだろ。それに、もし師匠になってもらえなかった場合は、この読み方だけでも教えてもらおうと思ってな」
「そっかぁ。サリューンってばすごい」
そこまでしっかり考えていなかったアメリアが素直に感嘆すると、サリューンは照れたような笑みを見せる。
嬉しそうなサリューンにアメリアも笑みを返し、それから二人並んで外へ出た。森を抜けて向かった先は、聖婚式の時に儀式をしたあの場所だった。
「わあああ!」
思わずアメリアは声を上げると走り出す。黒曜石でできているような真っ黒の台に、円柱が二本立っている。それは以前見た時とまったく同じだったが、その後ろに広がる景色に目を輝かせた。
崖になっているその先には、雲海が広がり、そこから頭を出すように切り立った高い山が遠くいくつも見えている。その中の一つが、他の山よりもずっと近くに見えた。山肌の緑も、崖から滑り落ちる滝もしっかりと見える。
周囲に飛んでいる色鮮やかな美しい鳥が、こちらに向かって飛んでくるその姿もはっきりと見えた。儀式の時は夜だったのでよく分からなかったが、ここがこれほど見晴らしのよい美しい場所だと思わなかった。
景色から目を離せないアメリアの隣にサリューンが並ぶと、右手を差し出しその指先を一番近くの山へ向ける。アメリアが不思議に思って指先を見た途端、崖の先から透明なガラスのような橋が架かっていく。
「まあ!!」
「この橋を渡っていく」
驚く間にもガラスの橋はゆっくりと伸びていき、山へ近付いていく。サリューンが手を握って歩きだすので、アメリアは意を決してガラスの橋に足を乗せた。
「な、なんだか、割れてしまいそう……」
「怖いか?」
声を出して笑いながら訊いてくるサリューンの手をギュッと握り締める。雲海の上を渡るなんて思ってもみなかった。それも歩いてだなんて、想像したこともない。
一歩一歩確かめるように足を進めると、不思議なことに歩いた距離よりも明らかに早く山が近付いてくる。
「ねぇ、私たち、こんなにゆっくり歩いているのに、もうあちらの山がすぐ近くだわ」
「この橋は実際の歩いている距離と進む距離が違うからな」
「これも魔法なの?」
「ああ」
(教皇様も言っていたけど、なんだか魔法って本当に万能なんじゃないかしら……)
神域で使う魔法も教わることができたなら、なんでもできるような気がする。とはいえまだ基礎の基礎も分かっていない自分には、相当遠い道のりなのだろうなと思い、こっそりと苦笑した。
橋を渡り切ると、景色はがらっと変化した。アメリアは冥府の神域と同じように森が広がっているものだと思っていたが、そこは白い百合の咲く広い草原だった。
辺り一面に咲く百合の上を風が通り過ぎると、強い香りが鼻をくすぐる。
「とっても綺麗……」
「フィーレンはこの先の神殿にいる」
サリューンの視線の先、百合の草原の先に小さな石造りの神殿が見える。そこに続くように細い石畳の道が足元から続いていた。
初めて見る景色にアメリアはきょろきょろと首を動かしながらサリューンと手を繋いで歩く。少し歩くと神殿が近くになった。白い装飾のされた柱や壁で作られた建物は、確かに神殿のようでこぢんまりとはしているが、厳かな雰囲気がある。
そしてその神殿と少し離れた所に白い柱が二本立っていて、その間にベールが揺れているのが見えた。
「あ、あれ」
「ああ。こちらの境界だな」
「じゃあ、あそこから出ればラーン王国に行けるということ?」
「そうだな。神子はあそこをくぐって、この神殿でフィーレンに会うのだろうな」
「へえ……」
冥府の神域とはそこも違うのかと驚く。神殿が近付いてくると女性だという月の神が、どんな姿をしているのか興味が湧いてきた。
もうすぐ会えるとそわそわする心を抑えて、サリューンが大きな両開きの扉をノックするのを見守る。
「フィーレン、入るぞ」
中からの返事を待たず、気さくにそう言ったサリューンにアメリアは少しだけ驚く。勝手に扉を開けて中へ入ってしまうので、慌てて後ろに付いて入ると、中は真っ白な大理石でできたガランとした空間だった。
その中央に不思議な形の椅子が置かれている。周囲と同じ白い石でできた椅子は、いびつな三日月の形をしている。一見オブジェのようだが、よく見れば座るところも肘掛けもある。かなり大きな椅子で、座るところはほんのわずかで、その三倍以上の大きさが装飾のようだった。
「あらあら、サリューン様」
高い鈴を転がしたような声と共に、椅子の背後から姿を現したフィーレンの顔を見て、アメリアは驚きに声を失った。
「朝からすまないな」
「いいえ、構いませんわ」
サリューンがフィーレンに近付き、二人は朗らかに会話をしている。だがアメリアはその場から一歩も動くことはできなかった。
膝裏まで届くほどの長い銀髪が、キラキラと輝いている。透き通るような白い肌に、完璧に整った顔。銀の瞳はまるで月そのもののように輝いている。白い薄絹を纏っており、そのほっそりとした身体は折れてしまいそうなほどに細い。
そして頭にある複雑な形の王冠は、まるで蔦が絡まるような細工がされ横に広がっている。その先から蜘蛛の糸のように落ちた細く長い飾りが、ほんの少し動くたびにシャラシャラと音を立てる。
そのあまりの現実味のない美しさに、ただ見惚れることしかアメリアにはできなかった。




