―番外編― 冥府の王の新婚生活
ゲルトルーデが死んだ。
朝、別れを告げた後、昼には息を引き取った。
最後まで彼女を理解することはできなかった。しようと努力はしたが、人のことはやはりよく分からない。
人は死ねば冥府の門をくぐるはずだが、いつまで待っても彼女は現れない。
(これだから魔法使いは……)
きっと何か魔法を使ったのだろう。人の使う魔法は複雑になりすぎて把握しきれない。
すぐにまたこちらで会えると思っていたのに。
ゲルトルーデのことを考えている内にあっという間に3日が経った。その間に葬儀は終わっていた。
リオンの姿で会いに行ってみたが、眠るように目を閉じた姿は、穏やかで微笑んでいるように見えた。
人にとって死は人生の終わりだが、死者の神からしてみれば、死は再生への始まりに過ぎない。
だから悲しくはないはずだ。今まで誰が死のうと心が揺れることはなかった。それなのに、今、目の前の皺ばかりの老婆の顔が歪んで見えない。
涙を何度も拭いながら、ゲルトルーデの小さな姿を思い出す。背が小さくて身体も華奢だったが、膨大な魔力のせいか実物よりよほど大きく見えた。
リオンとして人の世界で過ごした時間が、自分を変えてしまったのかもしれない。神域に戻ってそれがいいことなのか、悪いことなのかを考えていると、教皇が新しい神子のリストを持ってきた。
ゲルトルーデのことがまだ整理しきれていないのに、新しい神子を選ぶことなどできるわけがない。神域の境界にあるベールの前に置かれた巻物を見つめたまま動けず、時間だけが過ぎていく。
「サリューン様?」
返答せずそのままでいると、教皇が名前を呼ぶ。その声に溜め息を吐くと、巻物に手を伸ばした。
「国中の未婚の女性のリストでございます。選定になにか必要な情報があればお出しいたしますが」
教皇の話を聞き流しながら、ぺらりとリストを広げた瞬間、目を見開いた。
「アメリア……」
リストの一番上にあった名前に釘付けになる。
「アメリア・セルフィス・イグレット……」
「サリューン様?」
「こ、この、一番上の娘は……」
「一番上……。ああ、イグレット伯爵の次女でございますが」
教皇の返事に息が止まりそうになる。そして頭にゲルトルーデの最後の言葉がよぎった。
(俺の心のままに選ぶ……)
新しい神子はそうして選べと言っていた。今まで神子の選定は国の繁栄のため、特別な力のある娘を選んできた。そこに自分の感情はまったくなかった。
ゲルトルーデの言葉に従うつもりはなかったが、それでも口に出さずにはいられなかった。
「……教皇。このアメリアという娘を調べてくれ」
「はい。他に調べる娘はおりますか?」
「いや……。アメリアだけでいい」
「そう、ですか。分かりました」
教皇が白の間から出て行ってもまだ胸がドキドキしていた。リストの文字をもう一度見つめる。
「アメリア……」
記憶にある少女にもう一度会いたかった。そのためにリオンとして神殿で暮らし始めた。けれど、魔法が上手く使えない以上、探すのは困難だった。
結局会えずじまいで今日まできたが、突然その少女の名前が目の前に現れた。
この名前の娘があのアメリアであるのなら、会いたい。会ってもう一度話がしたい。
(ゲルトルーデ……、君は知っていたのか?)
別れの言葉の後に妙なアドバイスを言っていた。それはこのことなのだろうか。
時間が経つ内にゲルトルーデとの別れの悲しみが薄れ、アメリアへの気持ちが膨らんだ。期待と不安を綯い交ぜにした気持ちで待っていると、次の日になって教皇がアメリアの詳細を持ってきた。
差し出された資料に慌てて目を通す。
(17歳……、淡い栗色の髪、琥珀色の瞳!!)
記憶にあるそのままの容姿と年齢に鼓動が跳ねる。
会いたいという気持ちが膨れ上がって、胸が張り裂けそうだ。
(俺の心のまま……)
それでいいのだろうか。この国は平和になったが、これからまた何かあった時、何も力を持たない娘でいいのだろうか。
けれどもはやこの国に魔法使いはいない。それ以外で選ぶのであれば、性格や身体的なものだけだろう。
そんな些少な違いは、意味がない気がする。
(俺も人を占えたらどんなにいいか……)
昔、ゲルトルーデが他人の未来を占うところを見た。当たりはずれはあると言っていたが、それでも少なからず未来を見ることはできる。
こんな時、神である自分が恨めしい。神域の中でならどんな魔法でも使えるのに。
「アメリア……」
どんな風に成長しているだろうか。あの琥珀の瞳は、まだ高い空を見つめて輝いているだろうか。
――気持ちは、決まった。
◇◇◇
ベールの向こうで教皇の声と高い声が聞こえて、慌てて椅子に座る。アメリアとの対面はもうすぐだ。
そわそわと手を握り合わせていると、ふと自分の姿が老人のままだったことを思い出す。元の姿に戻ろうと立ち上がり、けれどそのまま立ち尽くす。
(俺の姿が気に入られなかったらどうしよう……)
無理矢理結婚させられて、その相手が好みではなかったら、絶望してしまうんじゃないだろうか。
最初から嫌われてしまったら、自分こそ絶望だ。
悩む時間などなかったが、高速で頭を回転させる。そして、良い考えが浮かんだ。
(リオンの姿で慣れてもらえばいいんじゃないか!)
小間使いのリオンとしてそばにいて、顔を見慣れてもらえばきっと本当の姿を見ても好きになってもらえるはずだ。
自分の考えに小さく頷き、これでいいとそのまま座り直した。
ふと、頭の上で溜め息が聞こえた気がした。
(気のせいか……)
見上げた木の上には小鳥しかいない。気を取り直して前を向くと、口を開いた。
「アメリア、こちらに来い」
ベールが揺れる。すぐに人影が見えて、慌てて木の幹に身体を隠した。足音がして、そうして目の前に現れたのは、美しく成長したあの少女だった。
「……あなたが冥府の王?」
琥珀の瞳が不安の色に揺れながらじっとこちらを見ている。その瞳に釘付けになった。
胸が早鐘を打っている。人に会ってこんなに緊張したのは初めてだった。
「そうだ、アメリア。我は死者の神、冥府を統べる王、サリューン」
動揺を悟られないように低い声で答える。
こうして二度目の出会いを果たし、アメリアとの新しい生活が始まった。
◇◇◇
――聖婚式が終わって1ヶ月が過ぎた。
「おはよう、リオン。素敵な朝ね」
アメリアの部屋のドアを開けると、笑顔で挨拶される。そばに寄るとふわりと抱きついてきた。
「おはよう、メル」
見上げる顔に唇を寄せると、アメリアは嬉しそうに目を閉じる。柔らかな身体をそっと抱き締めてキスをした。
聖婚式から変わった二人の挨拶。
「どうしたの? リオン」
短いキスの後に、唇を離したアメリアがキョトンとした顔をして見上げてくる。
本当は話したいことがある。けれどどう切り出していいか分からず、もう1ヶ月が経ってしまった。
「な、なんでもない!」
「そう? あ、今日はご神託の日よ。急がなきゃ」
いつもと変わらない表情でアメリアはそう言い、朝食の支度を始める。そんなアメリアの横顔を見つめて溜め息を吐いた。
神託を持ってアメリアと共に王宮に向かう。あれから変わったことと言えば、アメリアに2名の騎士が警護に付くようになったことだ。それからアメリアはフードを被らなくなった。
「今日はリオンも呼ばれているのよね」
「ああ、なんか用事があるって言ってたな」
国王の私室に行くと、珍しく国王は不在だった。すぐに戻ってくるからと待っていると、慌てた様子で国王が部屋に戻ってきた。
「ああ、すみません。神代様。お待たせ致しました」
「いいえ。朝からお忙しいようですね」
アメリアの呼び名は、“神子”から“神代”へと変わった。これは教皇が聖婚式の文献を探している時に見つけたらしく、他国で聖婚式を挙げた神子は呼び名を変えたと記述があったのでそれに倣ったようだ。
神託を読み終わると、国王はアメリアの座るソファに移動し話し出した。
「王妃が体調を崩してしまいましてね。今、主治医に診てもらったところなのです」
「まぁ、それは心配ですね……。大丈夫なのですか?」
「いえ……。あー、神代様にならお話ししてもいいでしょう。それが、どうやら懐妊したらしく」
「え!! 本当ですか!?」
照れた様子で話す国王に、アメリアは笑みを見せ声を上げる。
俺も驚いたが、その後すぐにハッと気付いた。これは良いタイミングなんじゃないだろうか。
「まだ確定はしていないのですが、たぶんそうだろうと主治医が言っていました」
「まぁ!! おめでとうございます!!」
両手を合わせて頬を赤らめ、自分のことのように喜ぶアメリアをそっと見つめる。
(これは……、言っても大丈夫だよな……。分かってくれるよな……)
本当に1ヶ月間、頭の中をぐるぐるしていた問題に、やっとけりが付けられそうな気がする。あとは言うタイミングと、勇気だけだ。
「ありがとうございます。神代様はどうですか? 聖婚式を挙げられて、サリューン様となにか変化はありましたか?」
「変化ですか? それはまぁ……それなりに……」
国王に話を振られてアメリアは今度こそ耳まで真っ赤になった。ごにょごにょと口の中で言う姿を見て国王が微笑む。
「サリューン様は神代様のことを本当に慕っていらっしゃったようなので、聖婚式が挙げられて喜びもひとしおでしょう」
「え……、陛下はサリューンの気持ちを知っていたのですか?」
アメリアが不思議そうに訊ねると、国王は楽しげに肩を揺らしながら笑う。
「神代様が神子になられて、最初に持ってきたご神託に書かれていたのです。アメリアのことをよろしく頼むと。それから間違いがあっても許してやってほしいと、そりゃあもう長々と」
俺は国王の言葉に慌ててわざとらしく咳をした。こんなところで暴露されてしまうなんて思ってもみなかった。恥ずかしくて頬が熱くなる。
アメリアの方をちらりと見ると、驚いた顔をした後、こちらに視線を投げて口元を引き結んだ。あの口は笑うのを堪えている顔だ。
「どうされました? 神代様」
「いいえ。ご神託にそんなことが書かれていたなんて知らなくて」
「私も驚きました。これまで一度もご神託の中にそのようなことが書かれたことがなかったので、本当にサリューン様は神代様のことを気に掛けていらっしゃるんだなと思いました」
国王はそこで少し間を置くと、穏やかに笑って続けた。
「即位式を見た時に納得したのです。あの美しい姿と祈りの歌を聞いて、ああ、サリューン様は神代様を愛しておられるのだろうと。そして、そんな方を持つことができた我が国は、もっともっと繁栄するだろうと」
「陛下……」
「義務として仕事としての立場ではなく、本当に神に寄り添う方がこの国にいて下さるということは、きっと素晴らしいことです」
(勝手に俺の気持ちを推測してもっともらしく話すなよな……)
恥ずかしさもあってつい悪態が湧くが、それでも国王の言葉に感慨はあった。そんな風に思ってくれているならこんなに嬉しいことはない。この国の平和と繁栄を共に導いていく者として、これからも頼りにしていこうとそう思えた。
そして話がひとしきり終わると、国王は大きな箱をアメリアに差し出した。
「これは?」
「本当は王妃が直接渡したいと言っていたのですが、今日はできそうにないので私から。中をどうぞご覧下さい」
テーブルの上に置かれた箱の蓋を開けたアメリアは目を見開いた。
「これって……あの……、まさか……」
中に入っていたのは、金で作られた美しい鳥かごだった。その鳥かごの中には金のコマドリが二匹と卵がある。怖ろしく細かい細工が鳥かごにもコマドリにもされていて、美しく輝いている。
「王妃が随分悩んで装飾を決めていたので少し遅くなりましたが、やっと渡せると安堵していました。それにしても自分の懐妊が分かった日に、これを神代様に渡すことになるとは思いもしなかったと笑っていましたよ」
アメリアは鳥かごを見つめて少しだけ複雑な顔をしている。
「これ、なんか意味あるのか?」
「おや、リオンはこの意味を知らないのかい?」
「リ、リオン!!」
なぜアメリアがそんな顔をするのか不思議で、つい口を出してしまうと国王が笑って答えた。
「これは我が国の伝統的な贈り物なんだよ。結婚した女性に、早く元気な子供を授かりますようにという祈りを込めてね」
「こ、子供!?」
「リオン!! 黙って!!」
大声を出して驚いてしまうと、アメリアが真っ赤になってこちらを睨んできた。
「聖婚式を調べたら、他国ではそういうこともあったということが書かれていたので、期待を込めて作らせました」
「陛下……」
「王妃からの心ばかりの贈り物、受け取っていただけますか?」
「も、もちろんです。ありがとうございます!」
そうして話が終わると、二人とも押し黙ったまま神殿に向かって歩いた。
結局自分は荷物持ちとして呼ばれただけだったのだが、これはもう運命としか思えない。
隣を歩くアメリアと、胸に抱える大きな箱を何度も見て、もうこのタイミング以外話せる気がしないと、ついに覚悟を決めた。
白の間に戻り、鳥かごをテーブルに置くと、仕事に行こうとするアメリアの腕を掴む。
「な、なに? リオン」
「メ、メル!!」
自分が今どんな顔をしているかもよく分からなかったが、もうどうでもよかった。アメリアの腕を掴んだまま神域に入る。
「ちょ、ちょっとリオン!! じゃなくて、サリューン!! なんなの!?」
律儀に名前を呼び直すアメリアには目をやらず、ただ黙々と森の中へ入る。
大きな葉をかき分けると、そこに白い扉が現れた。長く続く壁は緑の中に消えて、その全貌は分からない。
「お部屋?」
もう勢いで行くしかないと、そのまま扉を押し開けるとアメリアを中へ引き入れた。
「わぁ……、きれいなお部屋……」
部屋をぐるりと見渡してアメリアが呟く。室内には天蓋付きの大きなベッドや美しい調度類が置かれている。
「メ、メ、メル!!」
「なに?」
「お、俺と!! ここで暮らしてくれ!!」
「は……?」
アメリアがキョトンとした顔で首を傾げる。
(わ、わかってない……!?)
はっきり言ったはずなのに理解されないとは思わなかった。この流れなら絶対大丈夫だと思ったのに。
「だ、だから! あの、えっと、俺とふ、夫婦になったんだから、その……、一緒に、だな……」
もう完全にしどろもどろで何を言っていいか分からなくなってしまう。それでもどうにか伝えなくてはと、アメリアの両肩を掴んで言葉を絞り出そうと試みていると、アメリアが突然くすくすと笑いだした。
「サリューン、変な顔……」
「変って……、あのな、メル、俺は」
「うん。いいよ」
「へ?」
「だから、いいよ。一緒に暮らそ?」
真っ赤な顔でにこりと微笑む。突然の返答にじわじわと実感が湧いてくる。
「ほ、本当か!?」
「本当」
「や、やったー!!」
思わず声を上げるとアメリアを抱き上げた。
聖婚式が終わってすぐにこの部屋を作った。色々と考えてアメリアが過ごしやすいようにと、人の世界に近いものにした。
その努力が今やっと報われた。
「もう下ろして! サリューン!!」
「嫌だ!!」
「サリューンってば!!」
楽しげなアメリアの声と笑顔に引き寄せられるように、柔らかな唇にキスを落とした。
◇◇◇
朝、目が覚めて隣を見ると、安らかに眠るアメリアの寝顔を見つめる。
念願叶ってやっとこの部屋で二人で過ごすことができて、満足感で身体中が満たされているようだった。
結われることなく下ろされたままの髪をそっと撫で、剥き出しの肩に唇を寄せる。
「おはよう、サリューン」
「起きてたのか、メル」
「今起きたの」
「寒くないか?」
こちらに向き直ったアメリアが間近で微笑み首を振る。その途端、小さくくしゃみをした。
「だい、じょう……?」
大丈夫かと問おうとして言葉を止める。なぜか自分とアメリアの顔の真ん中辺りに、小さな白い花が唐突に現れた。
「なにこれ?」
アメリアは不思議そうにそう言い、また一つくしゃみをする。そして、ポンッと音を立ててまた花が現れた。
「メ、メル!?」
「サリューンの魔法じゃないの?」
魔法と聞いてハッとした。ガバッと起き上がるとアメリアに顔を近付けて瞳を見つめる。
「な、なに!?」
「黙ってろ」
金色にも見える琥珀色の瞳の奥に、魔力が小さく燃えて見える。
驚いて息を飲んだ。
「サリューン?」
「魔力だ……」
「え?」
ゆっくりと起き上がって考える。アメリアに魔力はないはずだ。今までもそんな気配は一度も感じなかった。
アメリアも起き上がってくるので、その手をそっと握り目を見つめる。
「メル、今のはお前の魔法だ」
「私の? どういうこと?」
「なぜか分からないけど、メルの瞳の中に魔力がある」
「瞳の中?」
「琥珀色が前と違うんだ。魔力が混じって光っている」
怪訝そうに首を傾げたアメリアだったが、ふと何かを思い出したのか、ハッとした顔をした。
「前に、ゲルトルーデ様から琥珀を貰ったわ」
「ゲルトルーデに会ったのか!?」
「夢で会ったの。聖婚式の前の日に。“きっと役に立つから”って。私、その琥珀を飲み込んでしまって……」
「それだ……」
魔力の継承だ。自分の魔力を他者に直接譲り渡すことができる魔法があると聞いたことがある。ゲルトルーデはそれをアメリアに行ったのだろう。
体内に入った魔力が時間を掛けてやっと定着したと考えれば、この時間差は納得がいく。
「どういうこと?」
「メルは魔法使いになったんだよ」
「はあ? そんなまさか」
そういう矢先、またくしゃみをしたアメリアの鼻先で、今度は3つほど花がポポポンッと現れる。
「ちょっと、どうにかして! サリューン!!」
「どうしようもないよ。こうなったら魔法の修業をするしかない」
「魔法の修業!?」
驚くアメリアに俺ははたと気づき視線を逸らした。ちょっと目のやり場に困って、手を伸ばしショールを取るとその身体に巻き付ける。
「とにかく風邪をひく前になにか着てくれ」
「落ち着いてる場合じゃないでしょ!!」
突然の魔法使い宣言に動揺するアメリアを抱き締めながら、やれやれと考える。
(どこかにまだ魔法使いはいるかなぁ……)
早めに優秀な魔法使いの師匠を探さないと、アメリアとの甘い新婚生活に水を差されそうだと、小さく溜め息を吐いたのだった。




