3話 婚姻の儀式
そこは不思議な場所だった。アメリアの背後には今くぐったばかりのベールが揺れている。白い壁と床が続き、けれど途中から森に飲み込まれ消えてしまっている。区切りがどこにあるのか、そこが外なのか内なのかがあまりにも曖昧で夢の中にいるようだった。
自らをサリューンと名乗った老人は、黒い石でできた大きな椅子に腰かけていた。地に付きそうなほど長い黒髪が光に反射して水のように輝いている。年老いた者にはないはずの美しい黒髪に見惚れていると、サリューンと目が合った。
「はじめまして、アメリア」
「は、はじめまして」
死者を司る神の最初の挨拶があまりにも普通でアメリアは驚いた。もっと何か厳かな意味の分からないことを言われると身構えていた。少しだけ緊張が解けておずおずとそばに近付く。顔が良く見える位置までくると、黒曜石のような黒い瞳が輝いて見えた。
「突然のことで驚いているであろう。つらくはないか?」
そう訊ねられてもどう答えていいか分からなかった。素直に答えたところでここから逃げられるわけでもない。吐露した言葉がよくないことに繋がる気もして、アメリアは小さく首を振るくらいしかできない。
「国の大事ゆえお前も堪えてほしい」
「はい……」
低い落ち着いた声はアメリアが知る男性の中でも最も低い声のような気がした。小さな声だけれど不思議にはっきりと耳に届く。慰めるような言葉に涙が浮かぶ。本当に自分はこの神に仕えるのだ。一生をここで過ごさなければならない。それがやっと現実感を持って胸に迫った。
「アメリア、その指輪を持って我のそばに」
涙を流してはいけないと必死で奥歯を噛み締める。言われるまま部屋の隅に置かれた小さなテーブルの上にある指輪を持ってサリューンのそばに寄ると、ふわりと花の香りがした。
「これは我の王冠と同じ石が使われている」
「黒曜石ですか?」
「そうだ。これをいつでも指に嵌めていろ。これが婚姻の証だ」
「結婚指輪……」
シンプルな銀のリングに丸い艶やかな黒曜石がひとつ付いている。結婚指輪にしては地味なそれを見つめていると、皺のある大きな手がアメリアの左手を優しく取った。そうして薬指にゆっくりと嵌める。
「指が細いな。緩くないか?」
「いいえ。ぴったりです」
「そうか。あとはこの部屋を出る前に朝露を飲んでいけ」
「朝露?」
「葉の上にある朝露を飲むのだ」
そう言うとサリューンは立ち上がり歩きだす。とても背が高いことに驚き見上げている内にそのまま森の中に入っていってしまう。取り残されたアメリアはその場に立ち尽くしたまま薬指に嵌まった指輪を見つめる。
こんな簡単なことで自分はもう結婚したというのだろうか。愛する人でもない神という名の老人と一生を共にするのか。
小さな指輪が鉛のように重く感じる。外すことができるわけもなく、アメリアは大きな溜め息をつくと、とぼとぼと草木の生い茂る方へ歩いた。
部屋の壁が緑に消え、下草に覆われた場所に足を踏み入れる。さまざまな花がそこかしこに咲いている。見上げれば抜けるような青空がある。本当にきれいな場所だが今はもう心は動かなかった。
アメリアは言われた通り、大きな葉の上に溜まった朝露を飲み込む。
「甘い……」
小さな雫を飲み込むと、泣きたくなるほど甘い味が口いっぱいに広がった。
◇◇◇
ベールをくぐって元の部屋に戻るとそこにはまだ教皇がいた。
「終わったかな」
「はい。この指輪を頂きました」
「指輪を?」
驚いた顔を見せた教皇は指輪を見つめ何かを考えているようだった。少し間を置くと顔を上げ微笑む。
「滞りなく終わったようで良かった。別室にご両親が来ている。会いに行きなさい」
「え!?」
「ゆっくり話すといい。しばらくは修練で会えなくなるからね」
「はい!」
アメリアはなかば走るように柱廊を進むと、祈りの間に近い個室に飛び込んだ。
「お母様! お父様!!」
「アメリア!!」
応接室のソファに座っていた二人が腰を上げる。母にぶつかるように抱きつくとアメリアは堪えきれず泣きだした。今まで我慢してきたせいか、子供のように声を上げて泣くアメリアを母は優しく抱きしめ続けた。
しばらくしてやっと落ち着き涙が引くとアメリアは顔を上げた。
「大丈夫?」
「ごめんなさい。たくさん泣いてしまって」
「なにを言っているんだ。仕方ないことだ。急にこんなことになったんだ。我慢する必要なんてないんだぞ」
優しく声を掛ける父に微笑むと頭を撫でられる。母の隣に座るとその手を両手で包み込まれた。
「あなたが女学院に行ってすぐ神殿から使者が来たのよ。とても驚いたわ」
「私も国王陛下に呼ばれて直々に話を聞いた。とても名誉なことだそうだな」
「お父様は神様が本当にいることを知っていらっしゃいましたか?」
「半信半疑というところだな。国の指標としてご神託を受けているのは知っていたが、それが神から直接頂いているなど思いもよらなかった」
「アメリアはもうお会いしたの?」
「ええ、会いました」
「どんなお方だった?」
「……長い黒髪がとてもきれいなおじい様です」
見たままを言うと、二人はがっかりしたような悲しげな表情になってしまい、アメリアは慌てて笑顔を作った。
「お優しい方だったの。私のことを気遣って下さっていた。それに神域はとてもきれいなところで、夢の中のようだったわ」
「アメリア……、すまない。お前には幸せな結婚をさせてやるつもりだったのに……」
「もう一生神殿で暮らさなきゃいけないなんて酷すぎるわ……」
二人は震えた声でそう言うと涙をこぼした。苦しんでいるのは自分だけではなかった。優しい両親が名誉だからと自分を簡単に差し出すわけはないのだ。本当に溢れるほどの愛情で育ててくれた。だから今二人をこんなに苦しめているのがつらい。
「お父様、お母様。大丈夫、私ちゃんとやっていくわ。普通の結婚はもう無理だけど、国のために特別な役目を与えられたんだもの。精一杯頑張るつもりよ」
「アメリア……」
「だからもう泣かないで。ね?」
それは虚勢ではあったけれど本心でもあった。ただ泣いていてもどうしようもない。婚約破棄など足元にも及ばない大きな運命にアメリアは流されだしたのだ。もう引き返すことも立ち止まることも許されない。
両親の嘆きにアメリアの心は冷静さを取り戻す。知るべきことはまだ山のようにある。泣いていては始まらない。
「私、頑張るわ」
力強く言った言葉に二人は目を合わせ、それから小さく頷いた。