20話 二人の心
神託を国王に渡し終わった後、アメリアはバラのアーチの下にいた。散り始めたバラの花びらがそこここに落ちている。少しだけ寂しい雰囲気になりつつあるそこで、影に隠れるように待っていたアメリアは走り寄る靴音に顔を上げた。
「アメリア!」
嬉しそうに名前を呼び目の前で止まるマティアスにアメリアは笑い掛ける。
「マティアス様」
「君から手紙を貰えるなんて思わなかったよ」
「ご迷惑でしたか?」
「そんな! とても嬉しかったよ」
前に会った時とまったく変わらない様子の遣り取りにアメリアは気後れしながらも、早く済ませてしまおうと口早に話を進める。
「あの、今日はマティアス様にお聞きしたいことがあってお呼びしたんです」
「聞きたいこと? なんだい?」
「その……、マティアス様は、エリザベート・ランベールと婚約……、したんですか?」
恐る恐る訊ねると、マティアスの一瞬視線が外れる。けれどすぐににこりと笑うと首を振った。
「そんなわけないだろう? 誰がそんなことを言ったんだい?」
「え……、あ、いえ……、人づてに聞いただけなんですが……」
その時、アメリアは自分がなぜ言葉を濁したのか分からなかった。ただ優しく笑っているはずのマティアスの目が、笑っていないように見えたのが少し怖かった。
「ああ、それはきっとこの前屋敷に母がランベール伯爵夫人を招待したからだろう。ミス・エリザベートも来ていたから、そんな勘違いをした人がいたのかもしれないね」
「そ、そうなのですか……」
「僕は今君のことで頭がいっぱいなんだ。分かるだろう?」
アメリアの両手を持ち上げるとそっと包み込む。婚約の話があった時でさえ、こんなに頬が熱くなるようなことは言われたことがなかった。アメリアは戸惑って手を引こうとするが、強く握られて逃げられない。
「あ、あの……、マティアス様……」
「いつものお付きの者がいないようだが、一人で出歩いているのかい?」
「……ええ。最初の頃は道が分からなかったから一緒に来てくれる人がいたんですけど、今はもう大丈夫なので……」
「心配だな。今まで必ず侍女が一緒にいた生活だったのに、大丈夫なのかい?」
「もう慣れましたから……。あの、手を」
「こんな格好をしていたって、君はまだ17歳のレディだ。いくら王宮の敷地内だからといってなにかあったら大変だ」
アメリアは心配そうな顔で話し続けるマティアスの顔を見ながら困ってしまっていた。こんなに話すつもりはなかった。ただエリザベートのことを聞くだけのつもりだったのに。
「先代の神子は随分と年老いていたから、見向きもされなかったようだが」
「先代……。マティアス様は先代の神子様のことを知っていらっしゃるのですか?」
ふとマティアスの言葉に引っ掛かり聞いてみる。そういえば自分は先代のことを何一つ知らない。
「王宮にいれば嫌でも目に入るしね。かなりの高齢の女性だったよ。僕が子供の頃からずっと変わらないように見えたから、祖父より年上だったのかもしれないね」
それならもうゆうに70歳を超えていたということだろうか。もし自分と同じくらいに神子になったとしたら、50年以上も仕えていたことになる。
それは今のアメリアには眩暈がしそうなほどに長い年月だ。
「神子は死ぬまで役目を全うしなければいけないらしい。君をどうにか救い出してやりたいが……」
「マティアス様……」
つらそうに顔を歪めたマティアスに手を引かれたと思ったら、ギュッと抱き締められていた。
「マ、マティアス様!!」
「アメリア」
「おい!! なにやってんだ!!」
割って入った大声にハッと顔を上げると、リオンが走り込んできた。強引にアメリアの腕を引きマティアスから引き剥がす。
「どういうつもりだ!! 神子に手を出すなんて!!」
「リオン! これは違うの!!」
「メルは黙ってろ!!」
見たこともないほど怒っているリオンは、アメリアの腕を強く掴んだままマティアスを睨み付ける。
「お前は誰だ」
「俺が誰だって関係ないだろ! メルは神の妻だ! あんたが触れていい相手じゃない!!」
「ふん、神殿の下っ端か……。お前、私が誰か分かっていないようだから今日は勘弁しておいてやるが、次に会う時にそんな態度を取ってみろ、この国にいられなくなるからな」
マティアスは底冷えのするような低い声でそう言うと、踵を返し去っていく。アメリアは初めて見るマティアスの雰囲気に気圧されて、その背中をじっと見つめることしかできなかった。
「帰るぞ」
「リオン……」
腕を引っ張られて歩き出したアメリアは、ちらりとリオンの横顔を見上げる。口を噤んだまま目を吊り上げ、真っ直ぐ前を向いて早足で歩き続けるリオンが少しだけ怖く感じる。
白の間に戻って腕を離されると、リオンがやっと真正面から目を合わせた。
「さっきの……、どういうことだよ」
「あれは……」
「あいつがマティアス・アルバーンだろ。あんなことするために俺を使いに出したのかよ」
「違う、違うの!」
アメリアはこんな誤解は絶対にだめだと激しく首を振る。
「マティアス様は、私の婚約者だった方なの」
「え……」
もう伏せておくことはできないとアメリアが告げると、リオンは目を見開いて言葉を失った。
「サリューンへ嫁入りを命じられた日の朝、婚約破棄されたの。理由は……、私のせいなんだけど、それまで私はマティアス様と結婚するのだとずっと思っていたわ」
「……メルは婚約してたのか?」
「婚約の一歩手前かな……。もうすぐ婚約発表するってところだった。だから厳密には婚約破棄とは違うのだろうけど、そういう方向で話は進んでた」
リオンは呆然とした様子でしばらく黙った後、小さく聞いてきた。
「……あいつのこと、まだ好きなのか?」
「それは……、それは違う」
「じゃあなんで!?」
「私は! 私は、もう終わらせたかったの。マティアス様との繋がりを、断ち切りたかった」
「サリューンと……、無理矢理結婚させられたからか?」
リオンの言葉にアメリアはどう答えていいか分からず下を向く。不思議なことにマティアスのことを考えるよりも、リオンのこの態度にアメリアは動揺していた。
マティアスとのことをリオンには正しく伝えたい。自分が迷っている心も、サリューンへの親愛にも似た心も、ちゃんと説明したい。そんな気持ちが溢れてどうしようもなかった。
「リオン。私、自分の心がよく分からないの。マティアス様のことを好きなのかどうかもよく分からない。たくさん考えたけど答えが出ないの。だからもう一度マティアス様に会って確かめたかった」
「あいつは、まだお前のこと好きなんじゃないのか」
「マティアス様は……、分からない。やっぱりよく分からなかった」
なぜかマティアスの言葉は真っ直ぐに心に届かなかった気がした。今は違和感のようなものだけが心に残っている。
「分からないって……、メルはそればっかりじゃん……」
「リオン……。あのね、私、リオンにだけはちゃんと伝えたい。すごくあやふやでこんなこと言われてもきっと困るだろうけど、リオンにだけは誤解されたくない」
真っ直ぐにリオンの目を見つめ、素直な気持ちを言葉にする。言葉にしてみるととても納得がいく気がした。
(そうだ……。私、リオンには嫌われたくないんだわ……)
「もう少し、もう少しだけ待ってほしいの。きっと私、どこかで全部分かる気がする」
「メル……」
「信じてくれる? リオン」
頷いてほしいと願いを込めてそう言うと、長い沈黙の後少しだけ悲しげな目をしてリオンは頷いた。
「分かった。俺はメルを信じるよ」
いつもの穏やかな視線に戻ったリオンに、アメリアはホッとして小さく息を吐く。
「ごめん、腕痛かったか?」
「ううん、大丈夫」
リオンに掴まれていた腕に手を添えていたのを見てリオンが謝ってくる。その優しさに笑みを向けるとリオンも笑ってくれた。
「なんかあったら、俺に言えよ」
「うん、そうする」
胸につかえていた苦しさが軽くなった気がする。もう見慣れたリオンの顔を見上げてアメリアは手を伸ばすと、大きな手をそっと掴んだ。
「ありがとう、リオン」
「うん」
心を込めてそう言うと、リオンは小さく頷きギュッと手を握った。




