2話 冥府の王
教皇の言葉の意味を考えてみたが、まったく意味が分からず頭の中は真っ白のままだ。
(神に嫁入りってどういうこと? 私さっき婚約破棄されたばかりなんだけど……)
「アメリア、大丈夫ですか?」
メアリーに声を掛けられてハッと意識を戻すと、教皇は穏やかに微笑む。
「突然のことで驚いたであろう。だがこれは非常に名誉なことなのだ。イグレット伯にも今頃連絡がいっているだろう」
「嫁入りとはどういうことですか?」
「この国の神がそなたを選んだのだ」
「神……」
――この世界には神が存在する。アメリアの住むリュエナ王国には死者の神が、他の国にもそれぞれ違う神が住む神殿があり信仰されている。神は人に恩恵を与え、人は神を祀る。切っても切り離せない存在ではあるが、その姿を見ることができる人間は非常に少ない。そのため一般市民の中で本当にそこに神がいると信じている者は少ない。
アメリアだとて今の今まで信じてはいなかった。
「これからすぐに神殿に行き婚姻の儀式をする。ついてきなさい」
「は、はい……」
優しさの中に有無を言わさぬ響きがあって、アメリアは口答えなどできなかった。教室を出ていく後を追いかけて歩きだしながら周囲に視線を送ると、心配そうな友人たちと目が合う。エリザベートにも視線をやるが目を合わせてはくれない。
さっきまでとても腹が立っていたけれど、こんな状況ではつい頼りたくなってしまう。エリザベートはつい最近まで心強い友だったのだ。
心細くて仕方なかった。それでも立ち止まることはできず、諦めて廊下に出た。
「アメリア」
「はい」
「怖がることはない」
「……はい」
教皇はそう言うとゆっくりと歩きだした。
◇◇◇
「神殿に来たことはあるだろう?」
「はい。新年の参詣はしております」
女学院の敷地を抜けて美しい石畳を進む。女学院は王宮の一画に位置しており、神殿はその敷地の最奥にある。アメリアは教皇の後についていつもは入ることのできない王宮の奥へと向かう。
「サリューン様はあの神殿の中央にある神域に住んでおられる」
「住んでいるのですか? 本当に?」
「アメリアは神の存在を信じていないのだな」
「あ、いえ……」
教皇に向かってなんてことを言ってしまったのだと焦って口元に手をやると、教皇はこちらを見て優しく笑った。
「いいんだよ。見たことのないものを信じるのは難しいものだ。神殿にいる者でさえそういう者はいる」
「そうなのですか?」
驚いて声を上げたアメリアに教皇はまた笑って足を止めた。美しい噴水の前で二人は向かい合う。そこでようやくアメリアは教皇の顔をまじまじと見つめた。
真っ白な髪と顔に刻まれた深い皺はもう十分な年齢を感じる。けれど姿勢はとても美しく背筋はピンと伸びている。細められた瞳は優しげで慈愛に満ちており、見つめられると不思議と心が温かくなる気がした。
「サリューン様のお姿を直接見ることができる者は、妻となる者だけなのだ」
「え、では教皇様は」
「私も直接はない。お声は何度か聞いたことはあるが」
「神と婚姻した者だけが神域に入りそば近くで仕えることが許される。妻となった者は神のご神託を受け取り国王陛下へ届ける。それが最も大切なお役目だ」
「ご神託……」
「王宮で黒いローブを着て、フードを目深に被った者を見たことはないかね?」
教皇に聞かれアメリアは記憶の中にきらびやかな王宮にはまったく不似合いな、黒い影のような者が廊下の端を歩いていたのを思い出す。幼い頃、顔を隠すように歩く陰気な姿に怯え父に縋ったのを覚えている。
「……はい。見たことがあります」
「それが先代の神の妻だ」
(あれが……?)
あの暗い、それこそ死者のような姿に自分もならなくてはいけないのだろうかと愕然とする。
「5日前に先代が逝去され、すぐに新しい嫁入りの選定がされた。そしてそなたが選ばれたのだ」
「え……、待って下さい。選定ということは他の候補者もいたのですか?」
「もちろん国中の未婚の娘が対象だからね」
「ではなぜ私が選ばれたのですか!?」
選ばれた理由がまったく分からない。それが理不尽に感じて強い口調で問えば、教皇は真剣な眼差しをじっと向けてくる。
「理由を聞いてどうするのだ」
「どうこうしたいのではありません。物事には必ず理由が存在します。私はそれが知りたいだけです!」
神の決定に背く気なんてない。立場は弁えている。国の絡む命令に貴族の娘が逆らえるわけがない。ただ知りたいのだ。神の意志も婚約破棄の理由も。
アメリアが言い放つと、教皇は少し間を置いてゆっくり二度頷いた。
「なるほど……。それは確かにそうだな」
どこか嬉しそうな声と表情が不思議で問い返せずにいると教皇は続ける。
「残念だが理由は誰も知らない」
「誰も?」
「知りたいのならば直接聞くといい。サリューン様に」
「神様に?」
「そなたはそれができる立場になるのだ。神と対等の存在に」
なにか計り知れないことを言われた気がして呆けていると教皇はまた歩きだした。その背中を見つめてアメリアは不安や心細さに押し潰されそうになりながらも、どうにか足を動かした。
◇◇◇
神殿は祈りの間以外、貴族でさえ開放されてはいない。その奥は神に仕える神官たちだけが入ることを許されている。
大きな扉を開きその中に入ったアメリアは、想像よりもずっと美しい光景に目を見開いた。
長い廊下に規則的に並ぶ白い柱が複雑なアーチを描いて高い天井を支えている。その隙間からは光が差し込み、足元に走る細い水路に流れる水をきらめかせている。床の石には複雑な紋様がびっしりと描かれ、それはそのまま壁まで繋がっている。その風景に溶け込むように灰色のローブを着た神官が静かに歩いている。
アメリアはさらに奥に進み、小さい部屋に案内されると着替えをした。ドレスを脱ぎ黒いローブを着ると白い大きな扉の前に立たされる。
「ここから先はごく限られた者だけが入室を許可されている」
教皇はそう言うとゆっくりと扉を押し開ける。中から溢れる光にアメリアは目を細めた。その光の強さに外なのかと思ったがそうではなかった。壁も床も柱も真っ白の部屋だった。そして不思議なことに部屋の真ん中を区切るように大きなベールが掛かっている。眩しく感じるのはそのベールの向こう側から光が溢れているように見えたからだ。
「中へ」
「は、はい……」
戸惑いながらも室内に入ると風を感じた。ベールがこちら側に向かって揺れている。
「教皇様、ここは」
「ここが神域だ。正しくはあのベールの向こう側だがね」
「神域……」
「婚姻の儀式はそなた一人で行う」
「え? で、でもやり方が分かりません」
「大丈夫だ。あのベールの向こう側に行けば分かるはずだ」
「そんな……」
あまりにも突然のことでどうしていいか分からず足が竦む。するとベールが一際大きく翻り強く風が吹いた。
「アメリア、こちらに来い」
低い声にビクリと身体が跳ねる。教皇は驚いた顔をし、慌ててアメリアの手を取るとベールの前に立たせた。
「そのまま前に進みなさい」
教皇が優しく背中を押す。ベールが顔を掠めて手で触れようとするけれど感触はなく、驚く間に視界ががらりと変わる。
目の前に大きな木があった。白い壁や天井は途中までは存在しているが、その先は木々の緑に侵食されるように森に飲み込まれている。小鳥の囀りが聞こえ遠く滝のような音もしている。
わけが分からず視線を巡らせると、太い木の幹に隠れるように人がいた。黒いローブに長い黒髪。頭の上の銀の王冠にはやはり黒い宝玉が埋まっている。
「……あなたが冥府の王?」
「そうだ、アメリア。我は死者の神、冥府を統べる王、サリューン」
そうしてアメリアの前に現れたのは、年老いた姿の神だった。