16話 婚約
この頃自分の気持ちにまったく自信が持てなくなったアメリアは、誰かに悩みを聞いてもらう訳にもいかず、ただぐるぐると同じことを考え悩んでいた。
サリューンの妻であるのだからマティアスに抱く気持ちなど捨ててしまえばいいだけの話だが、そう簡単なことではない。それにこの気持ちが何なのかをはっきりさせたいのだ。そうすれば全部が吹っ切れる気がする。
「心ここにあらずか?」
サリューンの言葉にハッとしたアメリアは顔を上げる。思いの外近い位置でサリューンが顔を覗き込んできていて少し驚く。
「ご、ごめんなさい。……考え事をしていました」
「この頃、メルはそればかりだな」
「……ごめんなさい」
朝の挨拶に来て、今日は森の方にいたサリューンと少しだけ歩いて話をしていた。森の動物の話をしていたはずだったが、いつの間にかアメリアは物思いに耽っていたようだ。
サリューンは「いい」と短く返事をすると、白い花を一輪ずつ摘みだした。バラに似た花だがアメリアは見たことがない。それを見つめているとマティアスとの会話を思い出した。
「サリューン。ご神託ってどういうものなのですか?」
「なんだ、突然」
「歴史を勉強しました。ご神託によって世界が平和になったって。それは神々が戦争をやめるようにご神託に書いたということなんですか?」
「神託にそんなことは書かないさ」
「ではどうやって平和になったんですか?」
胸に抱えた花を一度持ち直したサリューンは、視線を花に向けたまま続ける。
「時間を掛けてゆっくり争いを避けるように導いただけだ。神託はもともと具体的なことなど書けない。占いのような曖昧なものだからな。その内容を信じ実際に政治に上手く活かせるかは、受け取る者の裁量によって大きく左右される」
「占い……」
「人の世は人が作るしかない。我らはただ小さな手助けをするのみだ」
「いつも国王陛下のことを占っているのですか?」
「違う。個人のことは書かない。神託は国という大きな存在しか対象にしていない」
「じゃあ、私のことは占えないんですね」
ポツリと呟くと、サリューンは苦笑した。両手いっぱいの花をアメリアに持たせて頷く。
「残念だがな。人の運命などあまりにも混沌としすぎていて手に負えん」
なんとなくサリューンの言っていることを理解すると、アメリアは花を抱えて石の椅子の前に戻った。
「このお花はどうしますか? 花瓶があればどこかに飾れるんですけど」
「ああ、それはお前にやる」
「え?」
「お前にやると言ってるんだ。……持って帰って部屋にでも飾っておけ」
「は、はい……」
もしかしてこれはサリューンからのプレゼントということなのだろうか。少し分かりづらかったが、たぶんサリューンなりに元気づけようとしてくれているんだなと察すると快く受け取った。
神域を出て自分の部屋に戻ると、花瓶に花を活ける。こちらに戻ってきて気が付いたが、この花はぼんやりと輝いていて淡く光を放っている。それに部屋に満ちるほど甘い香りがしている。
「良い匂い……」
アメリアは大きく深呼吸をすると微笑む。サリューンのくれる不器用な優しさは、本当に自分の心を癒してくれる。
(あとでちゃんとお礼を言わなくちゃ)
そう決めると、今日も頑張って勉強しようと部屋を出た。
◇◇◇
次の日、神託を届けるために外に出ると、空はどんよりとした灰色の雲に覆われていた。少し冷たい風も吹いていてアメリアはフードを被り足早に歩きだす。
いつも通り神託を国王へ渡すと王宮を出る。今にも降り出しそうな空を見上げて階段を駆け上がる。横目にバラのアーチが見えてなんとなく視線をそちらに向けると、青いドレスの端がバラの陰から見えた。
「アメリア」
「エリザベート……」
名前を呼ばれ仕方なく足を止める。バラのアーチからこちらにゆっくりと近付いてきたエリザベートは、少し距離を置いて立ち止まった。
「ごきげんよう、アメリア」
返事もできずただ押し黙ったままエリザベートを見つめる。本当はあまり会いたくなかった。エリザベートに向かい合うと、いつも自分の嫌なところが曝け出されるような気がする。
「忙しいようだから用件だけお知らせするわね。私、マティアス様と正式に婚約したわ」
「え……」
「昨日、家族全員で揃って会食もしたのよ。公爵夫人にはとても気に入ってもらえたみたいで、家に慣れるようにと明日から公爵家に行くことになったの」
エリザベートの嬉しそうな声を聞きながら両手を握り締める。
(どういうこと……?)
アメリアは混乱する頭で考える。マティアスは自分のことを助けたいと言っていた。でもそれは決して恋心からではなかったのだろう。ただ友人として、もしくは婚約破棄をしてしまったお詫びで、同情してくれていただけだということだ。
それをマティアスはまだ自分を諦めていないのだと勝手に思い込んで、サリューンと天秤に掛けて思い悩んでいた。
(ばかみたい……)
愚かすぎる自分に泣くこともできない。立ち尽くしたままぼんやりとエリザベートを見ていると、こちらが反応しないせいか少しだけ苛ついた顔をしてまた口を開いた。
「あなたもこれでようやくマティアス様のこと諦められるでしょ? 良かったわね。結婚式にはあなたも出席してね。ああ、でもその陰気な格好はよしてね。式が台無しになってしまうもの」
話を終わらせたエリザベートはにっこりと笑って優雅にあいさつをすると、アーチを抜けて去っていった。
青いドレスが遠くなるのをじっと見つめたまま立ち尽くす。その内ポツリと頬に雨粒が当たった。
「雨……」
頬に手を当てて空を見上げる。真っ黒の雲が頭上に広がっている。見る見るうちに雨の勢いは増して、音を立てて雨が降り注ぐ。
「帰らなくちゃ……」
小さく呟いてよろよろと歩きだす。あっという間にずぶ濡れになってしまったが、アメリアは走ることができなかった。
今になって涙が溢れてくる。泣いていないと思いたかったけれど、温かい涙は冷たい雨に交じってくれず頬を滑り落ちていく。
とぼとぼと神殿の敷地に入ると、傘を持ったリオンが走り寄ってきた。
「メル! ずぶ濡れじゃんか!」
「リオン……」
「急に雨降ってきたから迎えに行こうと思ったんだけど……。どうした?」
リオンが顔を覗き込んでくるので慌てて下を向く。
「なんでもない。傘ありがとう」
「風も強くなってきたから、早く中入ろうぜ」
リオンに背中を押されて神殿の中へ入ると、いつもよりもひんやりとした室内に身体が震え出した。
「寒いか?」
「平気……」
「早く着替えた方がいいな」
「うん、そうだね……」
ぶるぶると震える身体を両腕で抱き締めて歩く。部屋に着くと少しだけホッとしてびしょびしょのマントを脱いだ。中のローブもぐっしょり濡れていて、全部着替えないと風邪をひくなとボタンに手を掛ける。
「メル、ちゃんと身体拭けよ」
「大丈夫よ」
扉の向こうで心配そうなリオンの声が届いて、アメリアは笑みを浮かべて答える。なんだか頭がぼんやりしてきて上手くボタンが外せない。
(ああ、早く髪も拭かなきゃ……)
ぽたぽたと床に落ちる水滴に視線を移すと、視界がぐらりと揺れるのが分かった。身体を支えていられずに床に膝をついてしまうと、身体が鉛になったように重く感じてそのまま床に倒れ込む。
「おい、メル!?」
リオンの声が聞こえて、大丈夫だと言おうとしたけれど口は動かなかった。
「メル!! 返事しろ!!」
大声で叫ぶリオンの声が遠ざかる。そうして意識は途切れた。




