1話 婚約破棄
「アメリア。残念だがアルバーン公爵から婚約を取り消したいと言われたよ」
「は?」
アメリアは父であるジャン・ジャック・イグレット伯爵に言われた言葉に思わず口をポカンと開けた。
「え? 婚約破棄……、ということですか?」
「そうなるな。まぁ、まだ正式に婚約発表する前で良かったじゃないか」
いつも穏やかな眼差しをまっすぐに向けてくる父が、視線を外して小さく溜め息を吐く。
「良かったって……」
婚約発表はしていないが、すでに噂は貴族の中で広まってしまっている。それが突然破棄されたとなれば醜聞もいいところだ。
「理由……、理由はなんですか!?」
アメリアと婚約の話が進んでいたマティアス・アルバーンは、アルバーン公爵の四男で社交界でも有名な美青年だ。王族の末席にあたり、伯爵家の次女であるアメリアには過分とも言える良縁だった。
夜会で数度言葉を交わしており、悪い印象は与えていないはずだ。手紙のやり取りの中でもお互い納得しており、これからのことを楽しみにしていると書かれていた。だからこの話は滞りなく進むものと思っていた。
「アメリア、あなたこの前女学院で木に登ったんですって?」
今まで黙って話を聞いていた母のカタリナにそう言われアメリアはハッとする。
確かに数日前、子猫を助けるために木に登った。けれどそのことを知るのは同じ教室の生徒だけのはずだ。
「公爵夫人がね、17歳にもなって木に登るようなおてんばな娘は、公爵家ではやっていけないんではないかって」
たったそれだけのことで婚約を破棄されたのかとアメリアは驚く。確かに自分は他の女の子より少しだけ活発なところがある。けれどそれが世間的に見て常識から逸脱しているとは思えない。容姿もそこそこ良い方だろうし、勉強も貴族の令嬢としての作法もそつなくこなしてきた。
これから平凡ではあるが幸せな結婚が待っていると思っていたのに、まさかの婚約破棄にアメリアは返す言葉もなく押し黙った。
「気にすることないわ。またすぐ良い縁談が来るわ、きっとね」
「気を落とすなよ、アメリア。こんな話はよくあることだ。ちょっと運が悪かっただけだからな」
父と母の慰めの言葉が耳を通り過ぎていく。立ち尽くすアメリアにカタリナが優しい声で言った。
「今日はみんなで美味しいケーキでも食べましょう? ね?」
「そうだな、それがいい。アメリアが好きな料理も作らせよう」
必死に慰めようとする二人の顔を見てアメリアはどうにか笑顔を作る。
「ありがとう、お母様、お父様。でももう女学院に行く時間だから」
「今日はお休みしてもいいのよ?」
「いいえ、行きます。ちょっと確かめたいこともあるし」
小さく首を振り二人に退室の挨拶をするとアメリアは部屋を出た。一度自室に戻り外出の支度のために姿見の前に立ち、どんよりと沈んだ自分の顔を見つめる。
淡い栗色の髪に琥珀色の瞳。目鼻立ちも悪い部分はない。華やかさはないけれど化粧すればそれなりになる顔だ。
あまり性に合わなかったが縁談話が持ち上がってからは努力もしてきた。顔立ちの整ったマティアスと並んでも見劣りしないようにと、友人たちに助言をもらったりもした。
それがなんの意味もなかったのかと思うと情けなくなってくる。
(マティアス様は納得されているのかしら……)
親が決めた婚約とはいえ、お互い少なからず心を通わせていたと感じていた。それが木に登ったことくらいであっさり破談にしてしまえるものなのか。
アメリアにとってはまったく納得できないことだ。貴族の令嬢としては確かにやってはいけないことだったかもしれない。それでも理由を聞くくらいしてくれてもいいんじゃないだろうか。
そしてもう一つ気になることは、誰がその情報をアルバーン公爵の耳に入れたかということだ。
(考えなくても分かるけど……)
頭に浮かぶ人物に顔を顰める。とにかくこのまま素直に婚約破棄を受け入れるわけにはいかないと心を奮い立たせると、アメリアは急いで女学院に向かった。
◇◇◇
年頃になった貴族の少女たちが通うエリス女学院では主に社交界での作法やダンス、教養などを学ぶ。年の近い少女たちは友人として過ごしながらもお互いをライバル視し、他の者より上のランクの結婚相手を探して日々努力している。
きらびやかな廊下を進みながら考える。同じクラスの友人たちは幼い頃から共に育ってきて性格は熟知している。今回のことで思い当たる人物など一人しかいない。
アメリアは教室の扉のドアノブをギュッと握りしめると躊躇なく押し開けた。
「おはようございます、皆様」
「おはよう、アメリア。今日は遅かったのね」
室内にいた数名のクラスメイトが顔を上げる中、エリザベートが一番に返事をする。輝くような金髪に青い瞳。豪奢なドレスが誰よりも目を引く。
取り巻きの友人たちの真ん中でゆったりとソファに座るエリザベートに、アメリアは歩み寄る。
「おはよう、エリザベート。あなたこそ珍しく早いじゃない」
「あら、たまにはそんな日だってあるわ。それよりなんだか浮かない顔ね。何かあった?」
にっこりと微笑んだ顔を見下ろして確信する。
エリザベートは同じ年の最も親しい友人だ。ランベール伯爵の長女で、生まれた時から姉妹のように育った。ずっと仲良くしてきたがアメリアの婚約の話が持ち上がった頃から、妙によそよそしくなり嫌味を言われるようになった。
それでも少し棘のある言動くらいでめげるほどアメリアは弱くない。もともと気の強いエリザベートの扱いは慣れていたのでずっと放っておいたのだ。
けれどまさか直接婚約を妨害してくるとは思わなかった。
「エリザベート、アルバーン公爵に私のことを話したわね」
「なんのこと?」
「この前、中庭の木に登ったことよ」
「そんなことあったかしら」
「なぜ話したの」
「なんの話をしているの? アメリア、なんだか変よ。マティアス様と何かあったの?」
冷静なこちらの声に合わせるようにエリザベートも静かに答える。崩れない笑顔を睨み付けているとさすがに苛ついてきた。
「私はただ木から降りられなくなってしまった子猫を助けただけじゃない。悪いことをした訳じゃないわ!」
「ああ、そうだったわね。でもそれってレディがすることじゃないわ。それで婚約破棄されたからって私にあたらないで下さらない?」
エリザベートの言葉に周囲にいた友人たちが驚いて息を飲んだ。アメリアは顔を真っ赤に染めて両手を握りしめる。
きっともう知られていると思っていた。エリザベートはこの教室の誰より事情通で、社交界の中で飛び交う噂をなんでも知っている。その上密告の犯人が本人であるのなら、その結果がどうなったかは必ず突き止めるだろう。
「あなたのしたことだって恥ずべき行為だと私は思う」
「マティアス様も公爵夫人もおしとやかな子を望まれていたわ」
マティアスの名前が出てきてアメリアは心が怯んだ。それが本当ならこの婚約破棄は少なからず自業自得とも言えるだろう。
それでも気が収まらず反論しようと口を開いた瞬間、教室の扉が開いて教育係のメアリーが入ってきた。
「おはようございます、皆様。全員揃っておりますか?」
「おはようございます、メアリー先生」
アメリアたちが挨拶を返している間に、いつもとは違い神官服を着た人物が一人教室に入ってくる。アメリアは自席に着きながらその老人を見つめた。
(あの方、教皇様だわ……)
遠目でしか見たことはないが、着ている神官服は神殿で最高位のローブであることは間違いない。教室の大抵の者がそれに気付いたのだろう。妙な緊張感が教室に広がっていく。
「今日はまず皆様にとても大切なお知らせがあります」
メアリーが促すと教皇はゆっくりと教室を見渡す。そうしてぴたりとアメリアに視線を止めた。
「アメリア、立ちなさい」
「え……、は、はい」
なぜ自分が呼ばれるのかまったく意味が分からず戸惑いながら立ち上がる。全員の視線が痛いほど突き刺さるのを感じて胸がドキドキしてくる。
「私が誰か分かるかね」
「教皇、様です」
「そう。私はこの国の神に仕える者。今日は特別な宣旨を持ってやってきた」
「宣旨?」
「アメリア・セルフィス・イグレット。そなたに死者の神、冥府の王サリューンへの嫁入りを命ずる」
「……は?」
アメリアは目を丸くして、本日二度目のレディらしからぬ間抜けな声を上げたのだった。