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ケラケラ虫

作者: 岩槻大介

いち



 めくらやなぎの葉がさわぎだす。太陽がしずみ終わった合図だ。

 もう、目は開いていても閉じていても同じ。風景は見るものから聞くものへと変わる。

 ――耳さえあれば、生きてるって分かるんだ。

 2がうんと小さかったころ、1はよくそう言ってせなかを動かした。2の鼻や首筋が1のあったかいせなかにこすられて、くすぐったい音を発した。

 聞こえる。月も星もことばもない。

 夜は、音だ。


 1は最近帰りがおそい。

 やみの中でうずくまって2はじっと1の帰りをまつ。そのうちにうずくまっていたことさえもわすれてしまう。少しだけ体重を移動してみる。左足の下で小さな枯れ枝が音を立てる。そして、すぐきえる。遠くで水のながれる音がする。湿地帯よりもずうっと遠く。ううん、じっさいにはうんと近い場所なのかもしれない。でも、聞こえているのが耳よりもずっと遠い、べつの器官のような気がする。

 2は分かっている。本当は何も聞こえていない。

 音なんて、どこにもないんだ。


 今日のゆうがた、2は飛ぶ練習をした。

 さびた四角い缶の上から足をそろえて何度もジャンプした。太陽がオレンジ色の平べったいかたまりになったころ、冷気をふくんだ紫色の風が2のひたいをなめた。そろそろだよ、風は言った。


 最近じゃない。いつからだろう。

 2はいっしょうけんめい思い出そうとした。最近なんかじゃない。いつからだ? いつから、1の帰りが遅くなったんだっけ。





 1はまいにちケラケラ虫を捕りにいく。

 朝早くうちを出て、一日じゅうさがす。ケラケラ虫を食べて1も2も生きている。


 ケラケラ虫は湿地帯にせいそくしている。せなかのもり上がったオスがいちばんおいしい。でも最近、数がすくなくなった。おくに入ればもっといるはずだ、と1は言う。湿地帯のおくは危険だ。それは2も知っている。

 1は足をひきずって夜おそくに帰ってくる。ため息。2はうずくまったまま、そんな1の音を聞く。そしてやみの中に手をのばす。1にさわろうと、手をのばす。でも、のばした手とはぎゃくの方から1の寝息がしずかに聞こえはじめる。これが本当の音だ。2はゆっくりと、ゆっくりと、やみがふくらんでいくのを見届ける。

 2がうんと小さかったころ、1はいつも太陽が平べったくなる前に帰ってきて、大きくひらいた2の口の中にケラケラ虫をほうり込んでくれた。するどくとがった口で、せなかのもり上がったオスばかりをえらんでほうり込んでくれた。そして太陽がしずみ終わるまでいっぱい遊んでくれた。まだ歩くこともじょうずにできなかった2を、1はいつもひろい上げるような、すくい上げるような目で見ていた。

 1のからだの色。地を這う草の色。風の色。空の色。それらぜんぶが、2にとっての世界だった。生きてるって分かる、うれしさと怖さだった。

 夜になると1はずっと音を聞かせてくれた。

 2は1のせなかに小さな耳をおしあてて、イノチの音を聞きながら眠りについた。1のせなかは、じぶんの顔が笑っていることをちゃんと感じさせてくれる、夢の入り口だった。



さん



 2はまだ飛べないので、湿地帯に行ったことがない。だからケラケラ虫がどのようにせいそくしているのか知らない。2は知りたいと思った。そんな2の心とはうらはらに、ケラケラ虫は減っていくばかりだった。

 そして今日、とうとう1は一匹も捕まえることができないまま帰ってきた。やみの中、羽根についたどろを口でおとしている音がしばらく聞こえた。2は1に話しかけることも、耳をせなかにおしあてることもできなかった。

 2は思いだしていた。1の笑った顔を思いだしていた。きっと1は今笑っている。今日だめだったぶん、明日はいっぱい捕れるよ。そう思って笑っている。笑いながらどろを落としているんだ。2はだんだんおかしくなった。おかしくて、おかしくて、涙がでそうになった。

 いつからだろう。1の帰りがおそくなったのは。

 いつからなんだろう。


 ある日2は缶のちかくで奇妙な形の木の実を見つけた。細長くて、まわりがみじかい毛でおおわれた、いいにおいのする木の実だった。2はいっぺんで気に入り、ねぐらまで転がして帰った。色はぜんぜんちがうけど、さわった感じが1のせなかに似ていた。

 2は飛ぶ練習につかれると、その木の実によりかかってぼんやりと風をながめた。夜は木の実に耳をおしあてて眠り、おきるといつも抱いていた。そして枯れ枝の折れぐあいから1が帰ってきて寝たあとをかくにんして、どこかがかゆくなるような安心感にひたった。

 そう、安心した。2は毎朝安心した。1が帰ってこなくなる、そんな気がいつからかしていた。だから帰ってきたあとがあると、それだけで安心するのだった。



よん



 あの日から、1が一匹も捕れずに帰ってきたあの日から、2はケラケラ虫を見ていない。だからなにも食べていない。もうこの場所ではくらせないんだ。生きていけないんだ。2は分かっていた。

 それでも1は毎朝はやくに湿地帯へでかけて行った。もう何日、1の顔を見ていないだろう。2は考えた。目の表面が、ふとしたはずみではりさけそうになるのをじっとがまんしながら2は考えた。

 そろそろだよ、風は言った。

 雨ふりの朝、2は久しぶりに1を見た。さいごに見た時にくらべるとずいぶんやせていた。ケラケラ虫は、雨がやんだあと、じめんからいっせいに顔をだすしゅうせいがある。以前1が言っていた。きっと雨がやむのを1はまっているのだろう。2はなんだかうれしくなった。うれしくてうれしくて、いっぱい1に話しかけた。いや、話しかけることをいっぱい考えた。そして、このまま雨がやまなければいい、と思った。へいきだよ。なにも食べなくても、へいきなんだ。本当だよ。


 雨が上がっても1はでかけなかった。

 次の日も、その次の日も、1は2のそばでだまって目を開けたまま、一日じゅう寝転がっていた。2は思うぞんぶん1のせなかに耳をおしあてることができた。

 ふたりは充実していた。

 充実しながらしずかに、しずかに、やせていった。

 ――耳さえあれば、生きてるって分かるんだ。

 夜、2はふと思った。誰だろう。生きているのは誰で、分かるのは誰なんだろう。1のせなかはあいかわらずふわふわであったかかった。2はそこによりそって、ねぐらの奥に転がった木の実をながめた。みじかい毛はところどころはげおちて、いつしかほそいつるがまきついていた。





 1は2が泣いてもおこらなかった。それが以前とちがう点だと気付いたのは、風が紫色から緑色に変わったころだった。

 そう。1は、どんなにわがままを言ってもけっしておこらなかったが、泣いたときにだけすっごくおこった。だから2はずっと、いたいときもくやしいときもこわいときも泣くことができなかった。

 でも、1はおこらなくなった。おかげで、2は最近好きなだけ泣くことができる。

 ねむれない夜はあおむけで1のせなかによりかかり、一晩じゅう泣いた。涙は1のせなかにこぼれるまえに、2の耳にながれおちる。ぐるぐるまわるんだ、と2は思った。目からあふれでて耳にながれ込み、また目にたまるんだ。だから永遠に1のせなかをぬらすことはない。1がおこることも、もうない。そして、笑うことも。

 2は分かっていた。


 ある日とつぜん、2は飛べるようになっていた。練習のせいかではない。ただ自分が飛べないということを思い出したのが、どういうわけか空の中だったのだ。

 空はあったかかった。太陽に近いせいだと2は思った。

 小さい羽根をピンとのばすと、風がどこへでもはこんでくれる。たけやぶをこえ、原っぱをこえると湿地帯が見えてきた。2は羽根のかくどを変え、低いエゴの木におりたった。なつくさの繁茂するぬれた地表がキラキラ光って、踊っているみたいだった。

 かたい岩場にも、しめった黒土にも、かわいた砂の上にも1の足跡は見つからかった。そのかわり、いたるところで何かが風にゆれていた。それは弱々しい動きながら、湿地帯ぜんたいをしずかにゆらしている。光の屈折にも似たその群れの正体は、気が遠くなるほどの数の、ケラケラ虫だった。



ろく



 2は、はじめて見るそのこうけいに思わずたじろいだ。どうすればいいのかわからなかった。とにかく、1に知らせなきゃ。2はあわてて飛びたった。

 今度は練習どおりに羽根を動かす。ぱたぱたぱたぱた。いっしょうけんめい羽ばたく。ぱたぱたぱたぱた。生まれたばかりの風が、幼い速度をやさしくつつみ込む。

 やがてねぐらが見えてくる。1のまるくなったせなかが見えてくる。2は1によびかけようと、いっぱい息をすい込んだ。その時、2は見た。1の顔がゆっくりとこっちを見上げて笑うのを。だそうとしていた声と息が、かんぜんに行き場をなくした。あっ。思わず心の中でさけんでしまった。涙だ。1の頬にはっきりと涙の線が通っている。それをむきだしにして、1は笑っている。だれも何もよせつけない、決心したかんぺきな笑顔だった。同時に2の視界のふちからさまざまな記憶があふれだす。それらはいつもみたいに耳に入らず、ポタポタと大地にたれて世界でいちばんちいさな湿地帯をつくった。

 もう、1のからだは木の実と区別がつかなかった。

 2はすい込んだ息を遠くの場所に向かってはきだした。そして、せいいっぱい羽根を広げて高くまい上がった。風にのってどこまでもどこまでもまい上がった。

 2は分かっていた。もう二度と、下を見ないということを。

 いちばん最後のさよならまで、泣いちゃだめなんだということを。

 そしていつの日か、じぶんが1となることを。


 空のてっぺんまでのぼった2は今、風が新しい帰り道まで運んでくれるのをじっと待っている。

 そろそろだよ、風が言う。



                       〈おしまい〉


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[一言] たった二人(二匹)だけの小さな世界。文章で描かれる光景は簡素だけれども、“1”の背中や木の実の手触り感、音、なにより孤高と呼ぶにふさわしい中にすっと流れる清涼な風の気配が、読み手の触覚を満足…
[一言] 言葉がきれいで、久しぶりに童話を読んだ気分になりました。代名詞が数字なのは、少し淋しすぎる感じがしました。
2009/01/01 11:15 退会済み
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