テイク・イット・イージー
何でも許せるかた向け。
フィクションです。舞台設定や登場人物の性別・年齢に深い意図はありません。
胸に手を当てて深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。服の下に入れたペンダントを握り締めるのは、もはや近頃の習慣と化していた。こんなに緊張するならやめてしまえばいいのに、とは自分でも思う。でも嫌だ、やめようって言って簡単に終わらせられるほど、この気持ちは安いものじゃなくって。だから私は今日も、ここから歩いていく。
門をくぐった瞬間、周囲に人の姿が現れて私の横を通り抜けていった。左を向けば何人かが横に並んで談笑している姿があって、右を向けば一人で顔を伏せつつ歩いている姿もある。そのほか本を読みながら歩いている人、スマホの画面しか見ていない人も。色々いるけど個性豊か、程度の印象で特に何かを思うこともない。後ろから走ってきた人が私の肩に軽くぶつかって、意に介することもなく前へと進んでいく。当然といえば当然だけど。
私も大多数の歩調に合わせて歩いていって、ようやく校門から玄関まで辿り着いた。余所より人数の多いところだけど、さすがの私も自分の靴箱の位置を見誤ることはない。人混みをすり抜けるように進んで、手早く履き替えると次は階段を通り過ぎてその奥のほうへ向かう。私の教室は一階の隅、体育館のすぐ傍にあった。
廊下を歩いていると、否応なしに余所の教室の声が漏れ聞こえてくる。つられるように目をやれば、前のほうに集まって大声で話している人たちの姿が見えた。誰が好きだとか、どういうところが好きだとか、そういう内容を話しているらしい。男の子は男の子、女の子は女の子で固まって笑っている。その隣の教室では男女が入り交じって、議論を戦わせているようだった。相当白熱しているらしくて、口汚い罵りの言葉が耳をかすめていく。通り過ぎる私の背中にぱん、と乾いた音が鳴り響き、後ろ手で軽くさすって余韻を振り払う。
次の教室では、乱闘騒ぎが起きていた。殴り合っているかと思いきや、足が動いているのも見えるので蹴りも混じっているのだろう。何人もが誰彼構わず攻撃しているのを、勇敢にも止めようとしている人もいるけど、とばっちりを受けたと思った途端、全員の標的になって人波に飲み込まれていった。そんな光景を目の当たりにしたら、もう制止しようなんて考える人はいない。部屋の隅で息をひそめたり、扉を開けて逃げ出したり。最初から我関せずと自分の席でノートを広げている人も結構多い。
足を止めて見つめていたことに気付き、私はまた前へ向き直った。辿り着いたって別に、何が待っているってわけでもないけど。それならどこで何をしようが変わらないって思いもするけれど。ゆっくりと歩いていく。ただ義務感に駆られるだけの、そんな。
そうして自分の居場所に落ち着こうと扉を開きかけて——私は自分を呪わずにはいられなかった。どうしてまた、こういう状況に出くわしてしまうんだろう。でも、もう私は誰かを助けようとか守ろうとか、そういう気持ちになることはない。だから、何もしない。そう自分自身に宣言して、半開きの扉を静かに静かに閉めた。来た方向とは逆の——体育館に続く渡り廊下へ出て、一拍を置けばまた声が聞こえる。リズムを刻むような、鈍い音も。上履きのまま、コンクリートの地面を逸れて靴底に砂利を噛ませる。困ることがあればそのときに考えようと、ただ投げ遣りに思った。
「調子乗ってんじゃねーよ!」
体育館の壁に沿って歩いて、曲がり角まで来たときに耳に入ったのはそんな言葉だった。そろそろと窺うように顔を出し、そうする必要なんてないことに少し遅れて気付いたけど「まあいいか」と思い直した。大体、仁王立ちでこんな酷い光景を見つめてるなんてシュール極まりないし。いや別に、仁王立ちである必要なんて微塵もないんだけど。
こちら側からだと分かりにくいけど壁のすぐ傍に立っているのは、多分四人くらい。そこから少し離れた位置に更に五人ほどがほぼ横並びになって立っている。さっきの声の主は壁際の三人並んでいるうちの一人だろう。外壁にまるで磔にされたような格好になっている女の子を取り囲む、そのリーダー格みたい。どちらかといえば可愛らしい容姿に似つかわしくない、悪役の典型的な台詞には凄みがあったし、直接睨まれているわけではない私でも寒気を覚えるような、そんな憎悪に満ちた眼差しをまっすぐと女の子に向けている。——どうしてそこまで人を嫌うことが出来るんだろう、なんて私には言えない台詞だ。感情の行先が違うだけで、依存しているのは私も同じだから。
「——それで?」
「なっ……!?」
僅かに生まれた沈黙を破ったのは、場違いに落ち着いた声だった。言うまでもなく、この虐め以外の何物でもない窮地に立たされた、たった一人の女の子——私は彼女のことを知っている——仮名・ゼーレはこの状況から逃れようと足掻くでもなく、淡々としている。彼女の手首を押さえている取り巻きの影になって表情は窺いづらいけれど、声や態度と同じように何食わぬ顔をしているんだろうなと思った。私は前にも何回か、彼女を標的としたこの類の光景を見ていたことがある。何をするでもなくただ傍観者として。自分の首に手を伸ばし、ペンダントの鎖を握った。
「死ねっ、いい加減死ねよ!!」
本人はたぶんただ問いかけたつもりの言葉を挑発と受け取ったようで、簡単に癇癪玉が破裂する。リーダー格が振り上げた手にはその感情を体現する、大振りのナイフが握られていて、それは呆気なく振り下ろされた。
皮膚を裂いて、肉を断つ。生々しい音ははっきりと聞こえた。誰も止めようとか悲鳴をあげようだとか、何かしらのリアクションを取ったりしなかったからだ。リーダー格の身体が邪魔になって見づらいけど、おそらくそれが突き立てられたのはゼーレの右腕に、だろう。ああいう連中が狙うのはいつも利き腕か急所——特に性差を感じられる部位だ。……どちらか分からなくても確実に尊厳を傷付けられるから、なんだろうな。
それ以外の言葉なんか忘れたように、死ねのワンフレーズを繰り返しながら腕が激しく動くその光景を、私も黙って見つめていた。私はゼーレじゃないから、痛みを我が事のように受け取ることは出来ない。それでもじくじくと古傷を抉られるような心地でいた。ヒトは学習しない。何度も繰り返す。私はそれに疲れてしまった。この手はもう、ペンダントを守るためだけにある。
やがて血溜まりが普通ならば死に至るほどの海になって、ゼーレはリーダー格のナイフだけでなく、そこにいる全員からありとあらゆる手段で攻撃されて。惨状をそれと認識出来なくなるくらい感覚が麻痺してようやく、連中は満足し彼女の傍から離れていった。私の横を歓喜に震える男女が通り過ぎていく。そのなかにはかつて私にも同じことをしたやつもいた。もしここで引き留めて迫ったとしてもきっと、憶えていないんだろう。私は既に通り過ぎた過去だ。私自身ももう何の感傷もわかない。
私は黙って角から離れ、ゼーレのほうへ歩き出した。血の海に横たわる彼女は、ぼんやりと空を眺めていた。雲ひとつない綺麗な青空だ。その下に広がる光景には似つかわしくなく。
彼女が呼吸をしていることを確かめて、私は今日何度か繰り返したのと同じ仕草をした。ただし今度は、チェーンを掴みペンダントトップを取り出す。——鈍色の南京錠。もう片方の手でスカートのポケットを探って、手にした鍵でそのロックを外す。それでもゼーレは私に気付かず、じっとしていた。
「——どうして」
久しぶりに発する声は喉に粘り着いて不明瞭になる。咳払いをしていると、ようやくゼーレはゆっくりこちらを見た。その眼差しに翳りは見られない。そのことが私にとっては不思議で怖くて痛かった。溢れた思いをそのまま言葉に乗せる。
「どうして、まだ生きることが出来るの」
私は、死んでしまった。耐えられなかった。己がこの場所で積み重ねてきたものを全部消し去って、亡霊になって息をひそめている。まだ未練があって別世界へと踏み出すことが出来ないから。
「……私はただ、諦めただけよ。どこに行っても、何をしても、いつもこうだから。表現することをやめられないのなら、こういうことにも慣れるしかないでしょう」
平坦な声音で言って、ゼーレは思い出したように手をつきながら上体を起こした。真っ赤に染まった制服に視線を落として、少しだけ不快そうに眉をひそめる。肌に張り付くそれを拭うのは最初から諦めているようで、濡れていないところまで四つん這いで移動すると、もう一度手のひらを支えに立ち上がった。その一連の動作を見ていても、怪我を負っている印象は見受けられない。あるいは、その服の下には無数の傷跡が残っているのかもしれないけれど、それはあくまで私の妄想だ。痕すら残さないほど強い人物なのかもしれない。私は一方的に彼女を見て、知った気になっているだけだから。今目の前にいる彼女の言葉だけが確かだった。
「あなたはこのままやめてしまうの? それとも……」
ぴくりと身体が震える。ゼーレはゆるく首を振った。
「——それはあなたが決めることね。私が続けると決めたように」
私は何も言わずに彼女を見つめ返した。言葉を交わす意思がないと判断したのか、少しの沈黙をスカートを絞って埋めた彼女は、最後にお尻の辺りを払って歩き出す。そして私の真横まで来て一度止まると、
「これが最後になるかもしれないから言っておく。私はあなたの創るものが好きだった」
言うだけ言って後は躊躇せず離れていく彼女を、私は振り返らなかった。鍵を握ったままの拳を固くして、もう片方の手の南京錠は逆にやわく触れる。今更とは言わない。私だって伝えずに終わらせてしまった言葉は一杯ある。それに、何倍もの優しさよりたったひとつの憎しみが突き刺さって抜けないことを、私はよく知っている。
深く深く。一生分を吐き出すように溜め息をついた。代わりに山ほどの後悔が胸の内側に積もっていく。ゼーレが私のことを触れ回ることはないんだろうけど。それでもやっぱり話さなきゃよかったと、心の底から強く思った。
南京錠と鍵を懐にしまって、私も踵を返す。でも向かう先は私の定位置じゃない。壁に手をついて歩き、そのまま体育館の中へ。
規則正しく並べられた机と、そこに置かれた物に視線を落とす何人かの生徒たち。鍵を外していてもみんな、物を見るのに夢中だから私に気付かない。あるいは気付いても関心を持たない。だからここは校内で一番、居心地がいい。
私は彼女の机の場所を知っている。迷わず歩いて辿り着いたそこには、資料のように積み上がった紙の束と分厚い本があって、テーブルクロスの柄がよく見えないほどだった。触れても劣化することのない、順番さえも置けば元通りになるたくさんの紙。とびっきり美しい絵が描かれていて、ここに無数ある中で一番人に見られた作品だ。それは何も技術的に優れているというだけの話ではなくて、描かれた人物の性格や生い立ち、絵としての背景。諸々の要素を上手く取り込んで“生かしている”ことが最大の魅力だった。現実のように活き活きとしながら現実には在らざる空気をまとう二律背反。こういうのを他人は才能と呼んで、喜んで讃えて憎んで粗探しする。そんなことを思いながら本を手に取った。ぱらぱらと軽く目を通していても分かる、圧倒的なセンスと技量。誰もが意識するけど手の届かない領域。それを手にした彼女が褒めるだけで、見下されていると感じるような——。
漫画は途中で終わっている。まだ完成する前だから、当たり前だけど。でもきっとゼーレはやり遂げるんだろう。彼女の諦めるという言葉は、腹を括るのと同義だ。私は文字通り諦めてしまった。永遠にと言い切ることは出来ないけど、少なくとも今はこの場所に舞い戻ろうとは思えない。傷が癒えて前に踏み出せる日が来たとして、それは別の場所の可能性だってある。ゼーレを追いかける日がまた来るか私にも誰にも、分からないんだ。
息苦しい。窒息してしまいそうだ。目を閉じてやり過ごして、私は再び南京錠とその鍵を手にした。それなしで人のいる場所に立っていることが、たまらなく恐ろしく思えた。
手の震えを意識の外に追いやって、チェーンに通してぐっと握る。カチリと音がして錠が掛かった。その現実に、心底安堵する。誰にも知られないのならいないのと同じ。今はそれがいい。
教室に戻ってクラスメイトの言葉に耳を傾ける気にもなれなくて、私はこのまま学校を出ることにした。もしかしたらもう、二度とここには戻らないかもとふと思う。沢山のいいことと少しの嫌なこと。それは記憶になって私に刻まれたけれど、所詮ここは現実世界じゃないんだ。それに、こうしてここで私たちを繋いでいた作品そのものが消えて無くなるわけでも嫌いになったわけでもないから。私は大好きな作品をよりどころに本当を歩いていける。
振り返った校舎の中には声が溢れている。私はそれらに背を向け、手に持ったままの南京錠の鍵を頭上に掲げて——何も考えずに目を閉じて口を開いた。
……こくり、と喉が鳴る。