「決闘! 二十四対一」その2
深い霧に覆われた小さな草原。既に草花はほとんど踏みしだかれ、背の高いものは皆無である。所々で黒っぽい土が剥き出しになってさえいる。
弥陀ヶ原幻三郎は、忍び装束姿の二十四人の男にぐるりと取り囲まれていた。男達は、いずれも衛士という名に相応しい屈強の者ばかりである。
その囲みは、幻三郎を中心として、半径五間の完全な円を描いていた。幻三郎が一歩動けば、囲みも動き、常に同じ状態を保ち続ける。
衛士達は無言だった。表情もない。幻三郎は確かに『天敵』と名乗り、岬護幽一郎を殺したと宣言した。それでも衛士達は、動揺や憎悪を顔に出すことは一切しない。殺気もなく剣を構え、幻三郎を取り囲んだきりである。斬り掛かる様子を全く見せないのだ。
「どうした。向かってこぬのか。俺は貴公らの主の首を撥ねた男だ。貴公ら衛士が数百年も待ち続けた伝説の『天敵』だぞ。──おい。臆したか!」
焦れた幻三郎が盛んに挑発するものの、一向に反応はない。
〔無駄だよ。衛士からは仕掛けてこん〕
風の声が突然、幻三郎に届いた。
「何?」
〔衛士にとって、伝説の『天敵』とは『襲い来る者』なんだ。今の陣形はそれに対応したもの。彼らは無念無想の状態にあって、澄み切った水面の如き心に影を落とす『天敵』の剣気に合わせて動く。今は待ちの態勢だ。『天敵』が攻撃に出た時、初めて反射的な防衛行動を起こす〕
「奴らが無想剣を身に付けているというのか」
幻三郎は意外そうに呟いた。
一般に無想剣は、剣法における最高の極意とされている。それは技ではなく、境地。何も考えずに身体の自然な動きに己を委ねる、いわゆる無の境地だった。意識による認識・判断を経ずに、無意識から直接、反射的動作に移行するため、極限の素早い動きが可能となる。そして、単なる無意識の動きを理想の体捌きと斬撃に昇華させる点に、剣の極意たる所以があった。
〔そうだ。無想剣──すなわち、意志によるどんな動きよりも速い、究極の剣。元々自我を持たない衛士ならではの奥義だ。しかも、各自がバラバラに動いていながら、結果的に最高の連携技になっているという、恐るべき特性がある。『天敵』の気だけでなく、味方の気をも感じて反応を起こすからだと思うが……〕
「面白い。どれほどのものか、見せてもらおう」
言葉の端々に余裕を滲ませて、幻三郎は剣の先を衛士の一人に向けた。
〔本気で行けよ。衛士はただの人間だが、力と技の限界を極めている〕
「だろうな」
霧の中で衛士達は、同一人物の幻影の如く、寸分違わぬ姿勢で佇んでいる。力みも緊張も感じられない自然な立ち姿である。個性のない大量生産の人形のようでもあり、悟りきった聖人の集団のようでもあった。
「行くぞ!」
わざわざ宣言してから、幻三郎が地を蹴り、正面の衛士に猛然と斬り掛かる。
衛士達の反応は俊敏だった。包囲陣を幻三郎の進行方向へ移動させ、円形を保つようにしつつ、急速に囲みを縮小していく。しかし、その動きは、幻三郎の足の運びの速さについていけなかった。幻三郎の脚力がとにかく人間離れしているのである。
「カァッ!」
五間を一瞬で移動した幻三郎は、眼前の衛士に気合をぶつけた。衛士が弾かれたように全身を躍動させ、瞬時に閃かせた剣で霧を斬り裂。く──が、幻三郎には届かない。衛士は幻三郎にではなく、剣気の爆発にも似た気合の方に反応し、無想剣を放ってしまったのだ。直後、幻三郎がヒラリと衛士の間合いに飛び込み、一刀の下に斬り伏せる。血飛沫が霧を赤く染めた。
続々と押し寄せる衛士の群。その中を幻三郎は駆け巡り、激しく斬り結んだ。無想剣の連続攻撃が彼を襲う。ことごとく受け止めた彼は、間隙を縫ってさらに三人まで倒した。けれども、ゆとりらしきものは全く見られない。鉄錆色の小袖は、大量に返り血を受け、どこもかしこも真っ赤に濡れている。そのうち、再び包囲の真ん中に追い詰められてしまった。今度の円陣は、前後の列が密着した二重の円。半径は即、剣の間合いだ。前列からは斬撃、後列からは突き。間断なく攻撃が押し寄せる。こうなると高速で移動して個別に敵と闘う策は実行不可能だ。
全方向から繰り出される剣に対し、幻三郎は己の身体を独楽のように高速回転させて応じた。剣を一閃させるごとに三、四本の剣を同時に払う。確かに神業だが、この状態のままでは衛士を斬ることにまで手が回らない。
一種の膠着状態の中、幻三郎は大刀を右手一本で揮い始めた。小刀を左手で抜き、二刀で闘う。玉の汗を飛び散らせ、ひたすら左右の腕を振り回し続ける。余りの速さに、刀身が霞んで見えた。それでもなお、防戦一方の状況を変えられないままだ。
衛士達は相変わらずの無表情で、虚ろな眼をしていた。それでいて太刀筋は実に鋭く、密集していても、味方同士で動きを遮り合うことが全くない。恐ろしい力と精密な動作を兼ね備えた自動機械と化し、無想剣で幻三郎を脅かす。
草原に鉄と鉄との激突音が立て続けに響き渡る。幻三郎の両刀はたちまちのうちに刃こぼれだらけになった。もはや、衛士の攻撃を払い、受け止めるだけの道具でしかない。
「くそっ!」
幻三郎の焦りが叫びとなって出る。だが、その時、彼の右肩の後ろで大きく脈打つような動きがあった。彼の「奥の手」が蠢き始めたのだ。それは、彼が遂に一心不乱に闘い出したことの証だった。
〔いいぞ。その調子だ〕
遠く離れた上空で風が舞っている。
幻三郎の動きが少しずつ変わりつつあった。己の身体に近づくもの全てを全力で払いのける、派手でがむしゃらな剣捌きから、必要最小限の力と動作で敵の攻撃を受け流す、洗練された剣捌きへと。
〔追い詰められてやっと雑念が消えたな。自分の頑さが苦戦を招いたんだぞ、弥陀ヶ原幻三郎〕
風はゆっくりと霧を掻き混ぜながら、とても地上へは届かぬであろう微かな音を立てて流れた。
〔あんたの闘い方は全然なっちゃいなかった。化け物の腕を抑えつけているせいだけじゃない。物凄い実力を無駄な方向に振り分け過ぎていた。そいつは恐らく、相手に己の強さを見せつけるための、わざとらしい余裕の表れ。悪い癖だ。遙かに格下の敵と退屈な決闘をしているうちに、そんな癖がついちまったんだろう。──けど、その気になれば簡単に修正が利くはずだ。あんたは誰に対して、何に対して意地を張っている?〕
一瞬の無風。
[まあ、わかるけどな。敵は己の裡にありってとこか]
幻三郎の動きはますます滑らかさと速さを増していった。腕の力に頼った強引な剣捌きは片鱗も見られない。リズムに乗った、流れるような体捌きに剣が自然についていく感じである。それでいて威力は以前より数段増していた。
〔何にせよ無意味なことをやっている。己の闘い方に拘り、己に枠を嵌めて、その枠の中でしか本気を出せないとは。──今だって、自分の意志で枠から出たんじゃあるまい。応戦するのに精一杯で、そこ以外に意識が向かなくなっただけだ〕
衛士達の囲みが一瞬、大きく広がった。幻三郎の剣の力によって、全員が一度に押し返されたのだ。すぐさま群がっていく衛士達ではあるが、その都度弾き返されてしまう。
〔あの奥の手とやらの蠢きが止まった。どうやら出番無しと覚ったか。それにしても強い。二十人の無想剣を相手にして、完全に優位に立っている。これが本来の強さか。いや、まだだ。まだ強くなる。この剣気の高まりは……!〕
ボロボロになった幻三郎の両刀に、突如、ぼおっとした柔らかい光が宿り始める。それは、岬護幽一郎が死を決意した時、身体に帯びた白い燐気に似ていた。
〔あれは伝説の『幻光剣』! なんて恐ろしい男なんだ。剣気の強さは既に神の域に達している。これじゃ、どう転んでも衛士に勝ち目はないな。──しかし、弥陀ヶ原幻三郎。せっかく勝ったって、どうせあんたは屈辱の思いに塗れる。そして、自分で決めた枠の中に踏み止まれなかった悔しさが、くだらん意地を張り続けさせるだろう。それじゃあ、弟には、岬護幻三郎には勝てん〕
風が螺旋を巻いて降下を始めた。
「オリャアア!」
幻三郎の渾身の気合が轟く。白銀の輝きが二条の円を描いた。静寂が辺りを包む。衛士達は弾き飛ばされたその位置で、彫像と化して動きを止めている。
「──しまった……」
はたと我に返ったのだろうか。幻三郎がぽつりと後悔の声を洩らす。
突然、天空に稲光が走り、雷鳴が空気を揺るがした。
それを合図にでもしたかのように、一人、二人と音もなく衛士が前に倒れていく。首筋から鮮血を迸らせながら。
やがて、幻三郎の周りに、二十人の衛士の身体が放射状に並んだ。菊の花に似た模様を描いて整然と倒れている。最後の最後まで人間らしさは皆無だった。
幻三郎は剣を両手に握ったまま動こうとしない。降り出した大粒の雨が深編笠を激しく叩いた。雨のベールが急速に霧を駆逐していく。
〔よくやった、弥陀ヶ原幻三郎〕
風が勢いよく幻三郎に吹き寄ってきた。おかげで雨は彼のところだけ横殴りである。
「何が『よくやった』だ」
幻三郎は肩を落として言った。荒い呼吸が忸怩たる口調を強調する。やっと大小の太刀を鞘に納めると、衛士の死体を跨ぎ、洞窟に続く道へと向かう。
「『奥の手』を使わされたすぐ後で、また無様な闘いを……」
〔いや、ああなることは予想済さ〕
恥じるように呟く幻三郎に対し、風は事もなげに応じた。
「何だと?」
〔究極の奥義、無想剣の使い手が二十四人。いかにあんたといえども、力と精神の集中なしに勝てるもんじゃない〕
「ふん!」
〔岬護幻三郎も無想剣を使うぞ〕
「無想剣を?」
と胸を衝かれた声だった。
〔ふふ。あんたが幾ら否定しようと、岬護家にとってあんたは『天敵』。あいつとは、いずれ嫌でも闘うことになる〕
「俺は負けん」
〔あんたはそればっかりだ。そうやってすぐ、現実から目を逸らす。だが、後で悔いるくらいなら、最初から覚悟を決めて闘えよ〕
「覚悟か……」
妙におとなしい口調で幻三郎は応じた。
〔もう一度言っておく。化け物の腕を使わないあんたよりも、岬護幻三郎は強い。基本的な力量は互角。問題は心だ。あんたの気持ち一つで勝負の行方が決まる〕
風は幻三郎を叱咤するように、凄まじい横殴りの雨を彼に浴びせた。
「ふむ……」
幻三郎は俯き加減で淡々と進んだ。打ちつける雨をまるで感じていない風情である。
〔一度、よく考えてみろ。意地を張り続けるのは簡単だが、本当にそれでいいのか?〕
「意地を貫くのも、目的となりうる」
〔命を賭けるに値する目的とは思わん〕
「しばらく考える」
物憂げに言った後、幻三郎は口を閉ざした。
続く