「風の中の剣鬼」その4
風が生暖かい。そこは、湖というには余りにも濁り過ぎていた。焦げ茶色の水面には、細かい水草が無数に浮かんでいる。大鯰でも住んでいそうな沼だ。
周囲を山に囲まれた沼辺は、結構広い草地になっていて、沼全体を容易に周回できる。弥陀ヶ原幻三郎の対面の位置に、古ぼけた小さな祠があった。
「あれかな」
幻三郎が呟く。三間四方ほどの木造の祠だった。外からは何を祀っているのかわからない。沼に面して申し訳程度の粗末な鳥居がちょこんと立っている。彼は沼の縁を右回りに歩き、祠に向かった。人が住んでいる気配はない。鳥居を潜り、祠の中を確かめるべく扉を開けようとする。
「待ちな」
何者かの声が、突然、幻三郎の背後を衝いた。
幻三郎の両肩がビクンと一瞬、揺れる。石火の速さで振り返った。翻った袖が空を切り裂き、旋風を巻き起こす。
「人の寝ぐらを勝手に覗くんじゃない」
少年のあどけなさを残した色白の青年が無表情にすうっと立っていた。背中まで伸ばした髪を後ろで束ね、大小の二刀を左右の腰に分けて帯び、忍び装束の如き形の藍色の衣服を着ている。どこから見ても奇妙な風体だった。
「失礼……。貴公は……?」
幻三郎の声は精彩を欠いていた。完全に不意を衝かれ、動揺しているのだろう。
「岬護幽一郎。ここの主だ」
青年は別段、幻三郎を咎める様子もなく、穏やかに答えた。
「俺に近づく気配を読ませぬ者など、この世にはおらんと思っていたが……」
「岬護家の人間は特別だ。人間であって人間でない」
「何?」
「生まれつき、出来が違うのさ。あんたのように」
幽一郎が妖しい笑みを浮かべる。幻三郎の身体が瞬間、凍りついた。
「貴公は一体……?」
「ここで、ずっと刺客が来るのを待っていた」
「むう!」
幻三郎が大刀の柄に手を掛け、ピョンピョンと一間ほど跳びずさった。いつもの不敵な態度が影をひそめ、恐ろしく用心深くなっている。
「一風斎に頼まれたのだろう? 俺を殺してくれとな」
「なぜ、それを!」
「わかるさ。――衛士の連中は、一風斎も含めてことごとく掟に縛られているから、行動も思考も簡単に読める。だからこそ、俺は一風斎が刺客を送り込みやすいように、屋敷も従者も捨て、ここにやってきた。殺されてやるためにな」
けろりとした顔で幽一郎が言った。大きな澄んだ眼は、幻三郎を素通しして、どこか遙か彼方を見ているようでもある。
「殺されてやる?」
「そう。岬護家の当主でいることに飽き飽きしてな」
「ならば、勝手に死ねばいいだろう」
「切羽詰まった状態ではないから、何か機縁がないと踏ん切りがつかんのだ。――それにしても、伝説の『天敵』がいきなりお出ましとはたまげた」
「伝説の『天敵』? 俺がか?」
話の突飛さに虚を衝かれたのだろう。戸惑いに満ちた反応である。
「決まってるだろう」
「ふん。誤解もいいところだ」
「俺にはわかる。あんたが振り返った時の身のこなしの速さ――あれは異常だった。岬護家の人間か『天敵』でなければ、あの動きは断じてできない」
「誤解だと言っている」
幻三郎は語気を荒くした。徐々に剣気が膨らんでくる。幽一郎の断定的な態度にカッとなったに違いない。当初の動揺もだいぶ薄れてきた感じだ。
「はは。認めないか。――まあいい。あんたの得物は剣だな。俺も剣の腕にはいささか自信がある。せっかく五百年に一度しか出てこない『天敵』に出会えたんだ。自分の実力を試すいい機会。岬護家の使命とは関係なく、是非、手合わせしたいものだ。殺されるのは、次の機会でいいな」
幽一郎は一方的に喋った。『天敵』ならば岬護家のことを知っていて当然、と思い込んだ話しぶりである。
「言われずとも、勝負してやるさ。それが仕事だ」
幻三郎が低い声で妙に力を込めて言った。腰の風呂敷包みを遠くへ放り投げると、ピリピリとした殺気を走らせ、スラリと大刀を抜き放つ。
「ようし、やろう。――ところで、あんた、名前は?」
「弥陀ヶ原幻三郎」
「げんざぶろう、か。懐かしい響きの名だ」
感慨深げな表情を浮かべつつ、幽一郎はゆっくりと両手を交差し、大小の剣を同時に抜いた。
「む」
一声呻いて、幻三郎が中段に構える。微塵の隙もない本気の構えだった。一対一の闘いを毛嫌いし、小馬鹿にしていた彼が、遂に真剣な態度で相手と向かい合う。
「では、俺も」
幽一郎は、左手の小刀を顔の前で垂直に構え、右手を右斜め下に広げて大刀の剣先を地面に向けた。
二間を隔てての対峙。生暖かい風が二人を包み込む。幽一郎の長い髪が振り子のように揺れた。両者、最初の構えのまま微動だにしない。
突如、幻三郎の構えから刺々しい殺気が消えた。代わって、穏やかで力強い気が彼の身体から溢れてくる。
「強い。信じられん強さだ。貴公のような男と闘えるとは……」
「何か、嬉しそうだな」
強張った顔で幽一郎が尋ねた。先刻までの余裕はもう見られない。
「嬉しいさ。たった一人を相手に、自分の力を抑えずに闘える機会など、絶対にないものと諦めきっていたからな」
「無理もないな。いかなる剣豪も、伝説の『天敵』にはかなわない」
「その話はよせ。今は、全力を以て貴公と仕合いたいだけだ」
「全力? 本当に全力なのか。あんたの剣気、ちと変だぞ。よくわからないが、妙な偏りがある。まるで意図的に力を抜いている箇所があるような……」
「やめろ!」
苛立ちと怒りを剥き出しにして、幻三郎が大刀を横に一閃する。電光の一撃が生み出す疾風の鞭が、離れた幽一郎の顔面をはたいた。
「今のが手加減しているように見えるか! さっさと来い」
切っ先を上下左右に揺らし、小さな隙を作る。挑発だった。幽一郎の顔つきが一層険しくなる。
「わかった。最終奥義を見せてやる」
幽一郎はさっと構えを解いた。
「何!」
幻三郎が驚きの声を上げる。幽一郎が振り返りざま、後ろへ駆け出したのだ。それも、二本の太刀を頭上に高々と放り投げながら。
逃げたのか?
否。
これこそが幽一郎の攻撃。逃げたと見せて五間ほど走ったところで反転し、幻三郎目掛けて怒濤の勢いで突き進む。
小刀が落ちた。幽一郎の右斜め一歩前の地面に、まっすぐ突き刺さる。間髪を入れずに大刀が落ちてきた。――小刀の柄頭は分厚い革で幾重にもくるまれた妙な代物だ。そこへ大刀の切っ先が垂直に突き立った。
「でやあああ!」
走り込んできた幽一郎が、大刀の柄をひったくるように掴み、小刀もろとも引き抜く。刹那の早業で中段に剣を据えると、勢いに乗じて一歩、大きく踏み込んだ。幻三郎の喉元を狙い、唸りを上げて超高速の突きが放たれる。不安定に連結されていた二本の剣が、あたかも一本の槍の如くまっすぐに伸びた。
キン!
金属と金属のぶつかる音が響く。剣がくるくると回転し、地面に打ちつけられた。幻三郎の豪剣が幽一郎の剣を横から払い飛ばしたのだ。
だが。
飛ばされたのは、たった一本の剣――小刀のみだった。二段式ロケットの一段目が切り離されたに過ぎない。大刀は、幽一郎の両手にしっかりと握られ、一直線に突き出されていたのである。
幻三郎は、幽一郎の剣を払いざま、右斜め前に斬り込もうとしていた。攻撃をかわすと同時に打ち込む、というワンセットの動作を反射的に行ったのだ。その結果、幻三郎は自ら、幽一郎の突きを呼び込んでしまった。
幻三郎の左胸に死の切っ先が迫る。
刹那。
シュン!
風を切るような奇妙な音がした。
「な!」
幽一郎の驚愕の叫び。
次の瞬間、両者は互いの身体を掠めながら擦れ違っていた。
二人は背中を相手に向けたまま、微動だにしない。幽一郎は刀身をすっぱりと切り落とされた大刀を片手に、茫然と立ち尽くしていた。片や、幻三郎も何やらぶつぶつと呟きながらつっ立ったままだ。
幻三郎の小袖の襟元が大きくはだけ、右肩が剥き出しになっていた。けれども、その後ろに瘤はない。代わりに節くれだった棒のようなものが肩の付け根から、天に向かって屹立している。その先には――幻三郎の大刀の柄が……!
腕――まさしく腕だった。土色の細くごつごつしたミイラの如き手が、がっちりと大刀の柄を握りしめ、剣先を空に向けている。
どの方向へも自在に屈曲する幾つもの関節。六本の指。機能、形状ともに単なる奇形の範疇を越えた、怪物の手――それが一瞬のうちに、幻三郎の右手から大刀をひったくり、幽一郎の剣を両断したのである。
「やはり『天敵』だったか……」
我を取り戻した岬護幽一郎は、振り向きざまに、刀身のない剣を投げつける。幻三郎は向き直らなかった。攻撃を払いのけたのは、第三の手である。それはあたかも独自の意志を持っているみたいに動き、背中の前で剣を一閃させた。
「化け物め!」
間隙を縫って幽一郎が小刀を拾い上げ、身構える。幻三郎はゆっくりと幽一郎の方を向いた。
「よくも……よくもこの俺に……」
地の底から響くような陰々滅々たる声だ。どろどろとした空気が幻三郎の周りを包んでいる。
「――俺に『奥の手』を使わせてくれたな!」
全身から爆発的に怒気と殺気を迸らせ、幻三郎は大刀を右手に持ち替えた。「奥の手」が蛇腹状に折り畳まれ右肩の後ろに張りつく。素早く襟を合わせ、元の弥陀ヶ原幻三郎に戻った。
「何の真似だ」
手加減されたと思ったか、幽一郎は歯を剥き出して幻三郎を咎めた。だが、額から止めどなく流れ出る脂汗が、虚勢であることを物語っている。
「そんなのは俺の勝手だ。こん畜生めがっ! ――オリャアアアッ!」
猛然と土を蹴り、狂ったように幻三郎が幽一郎に斬りかかる。構えも技も何もない。ただ力任せに振り上げて打ち下ろすのみ。白銀の光としか見えぬ嵐の連続攻撃が防戦一方の幽一郎を追い詰めていく。
「くっ。――こうなれば……」
幽一郎は反撃の素振りを見せたかと思うと、突如、後ろへと駆け出した。今度は本当に逃げたのである。猿の如き身のこなしで祠にまで辿り着くと、一気に屋根へよじ上っていった。
「死にたかったのであろう! 殺してやるから降りてこい!」
下で怒鳴る幻三郎を尻目に、幽一郎が小刀を眼前にかざし、じっと目を閉じる。
「降りるさ。覚悟が決まればな。――どうやら『岬』の神は、岬護家の者に伝説の『天敵』と渡り合えるだけの力を付加できなかったらしい。もしかすると『天敵』とは、元々言葉通りの意味だったのかもしれんな」
「誰が『天敵』だ! 馬鹿野郎が! 俺は自分の力で強くなった。修練の賜物だ。それを、得体の知れん『天敵』の強さと取り違えるな!」
「人間の能力の限界を越えて強いのは、そうあるべく生まれたからだ。あの怪物じみた手が、修練で生えてくるとは思えんが」
「黙れ! 『奥の手』を使わずとも俺は強い!」
「しかし、使わなければ、この勝負、俺が勝っていた」
「うるさい! さっさと降りやがれ!」
紛れもない事実を指摘されて、幻三郎が一層荒れ狂う。
「人であろうとするから弱くなる。異形の怪物であることを素直に受け入れたらどうだ? それがあんたにとって自然というもの。――せっかくの力を殺してまで、人間の枠にしがみつくことに何の意味がある。どうせ、この世に生きる者は皆、別個の生物。あんたは他の誰でもない、あんたとして生きればいいじゃないか」
「貴公に説教される筋合いはない!」
「俺は俺として好きなように生きるぞ」
「それももう終わりだ。じきに地獄へ落としてやる」
「いや、たとえ死んでも、俺は俺自身が望んだものに生まれ変わる。『岬』の神の下僕、岬護幽一郎から、真に自由なる存在へと。――そう、俺も神になる」
「何!」
幽一郎はゆっくりと目を開けた。一点の曇りもない清々しさを湛えた穏やかな表情である。
「さあ、今、飛び降りてやるから、俺を斬れ。ただし、必ず俺を即死させろ。さもなくば俺の小刀があんたを貫くことになる」
「馬鹿め。神になど、なれるものか!」
「なれるさ。岬護家には口伝の神話が数多く残っていてな、その謎の一つを解いたんだ。そして、唐突なる死の瞬間、体内から急速に抜けていく生命の気に、己の全ての記憶と精神構造を転写する秘法を発見した」
「勝手に言っていろ!」
「じゃあ、行くぞ」
幽一郎は再度目を閉じると、小声で真言のような文句を唱え始めた。徐々に彼の周りの空間が仄かな光を帯びてくる。
不意に幽一郎は屋根を蹴り、身体をひねりつつ空中から幻三郎に斬り掛かった。銀色の光が死神の鎌の如きカーブを描き、深編笠を襲う。落下のエネルギーが攻撃の威力に加算される以上、軽々しく剣で受けることはできない。幻三郎は鋭い気合とともに大刀を一閃した。幽一郎の思う壺に嵌まるしかなくなったのだ。
血飛沫が舞った。幻三郎の深編笠がたちまち真っ赤に染まる。幽一郎の身体が地面に叩きつけられた。それは首のない死体。当然、即死である。
ドプン、と音がして、幽一郎の首が水面に落ちた。偶然の成せる業か、幻三郎の方を向き安らかな微笑みを見せると、そのままゆっくり沈んでいく。
「おい! 神になれたか!」
まだ憤懣が晴れないのか、幻三郎は納刀もせず、苛立ちを露にして怒鳴った。無論、木霊が響くばかりで何の返事もない。
ただその時、一陣の血生臭い風が吹き、彼の周りでくるくると旋を巻いた。まるで何かを語りかけるように。
幻三郎は辺りを見回すと、やおら、
「馬鹿め、いいざまだ」
と叫んだ。そして、謎の哄笑とともに、舞う木の葉の一枚を、一瞬の早業で粉微塵に斬り裂く。
はたと風が止んだ。
幻三郎は剣を鞘に納め、衛士の村へ向かって早足で歩き始めた。
第一話 完