「風の中の剣鬼」その2
空気が湿っぽい。深い森の中を走る山道だった。濡れた大量の落ち葉が道をすっかり覆い隠している。雨風の直後のようだ。道の側を流れているとおぼしき水の音もバチバチと勇ましい。
ここは安芸の国。広島城下に程近い山中である。そんなに辺鄙な場所ではなかった。道も人馬の行き交いに不都合がない程度に、そこそこの整備はされている。
弥陀ヶ原幻三郎は霧島十蔵から書状を受け取って以来、寝る暇も惜しんで歩いてきた。丸三日と半日近くを費やし、進んだ道のりは八十里。勿論、馬も駕籠も使っていない。とにかく超人的なハイペースである。深編笠、鉄錆色の小袖といった出で立ちは、ほぼそのままだ。違うのは、小さな行李を一つ、風呂敷に包んで右腰にくくりつけているところくらいか。
どこかで梟が鳴いている。だいぶ夜明けが迫っているとはいえ、依然、幻三郎の周囲はほとんど闇に包まれたままだった。せっかくの十三夜も、昼ですら暗い森の中では余り意味を成さない。そこを明かりも持たずに黙々と行く。慣れた足取りだ。無頓着に歩いているようでも、路上の穴や水たまりに嵌まることは決してなかった。イタドリの茎を噛みしゃぶりつつ、スイスイと進む。目茶苦茶な強行軍だが疲れた様子は全然見えない。
やがて幻三郎は長い下り坂に差し掛かった。激流の轟々たる水音が坂の下方から駆け上がってきている。
「待たれい!」
何の前触れもなく野太い声が響く。背後から声を浴びた幻三郎は無言で静かに立ち止まった。予期していたぞと言わんばかりの、余裕ある足の止め方だ。
「お主、その先の村に何の用がある?」
問われて幻三郎が、ヒュッと草の茎を吹き捨てた。
「そんな所で不寝番とは御苦労なことだ」
と、向き直りもせず、不敵な言葉を返す。
「用は何だと問うている」
「庄屋殿に呼ばれたのだ」
「わしは聞いておらんぞ」
「いつ行くという約束はしていなかったからな」
「お主、何者だ」
勿体ぶった調子で幻三郎がゆっくりと振り返る。頭だけ異様に大きい小男が傍らの大木の枝に腰掛けていた。
「俺の名は弥陀ヶ原幻三郎。貴公は?」
「霞兵衛だ。――ほほう。さてはお主が例の……鬼畜にも劣ると言われる外道の人斬り魔か。なるほど、右肩に瘤がある」
知っているような口振りだ。
「ひどい言われようだな」
「噂だ。気にすることもあるまい」
「事実さ。だから腹は立たぬ」
幻三郎が苦笑いしながら言う。兵衛は一瞬、唇を前に突き出し、「ほほう」とでも言いたげな顔になった。
「……お主、話に聞いていたのとは違うな」
兵衛のぎょろついた眼が闇に光る。
「どこがだ」
「人を斬ることに、後ろめたさを感じているだろう」
「馬鹿な」
「少なくとも楽しんではいまい」
「それはそうだ」
「ふふふふふふ」
不気味な含み笑いだった。
「何がおかしい」
「なあに。一人で悦に入っているだけよ」
「さっぱりわからん。――何だ?」
「言うのか?」
「ああ」
音もなく兵衛が地面に舞い降りる。途轍もなく大きな頭を、子供並に貧弱な胴体が意外としっかり支えていた。坂の上方にいるために、幻三郎よりも少しは目の位置が高い。背を丸めて斜に構え、大柄な幻三郎を細目で見下ろす。
「近日中にお主がここを通るやもしれぬという話は聞いておった。弥陀ヶ原幻三郎――冷血非情の風評とはまた随分異なった性格をしておるな」
ふふふ、と笑いつつ、兵衛は幻三郎を指差した。
「お主は、鬼畜にも劣ると言われ、外道の人斬り魔と呼ばれながら、なおそれを笑って受け入れた。無視するでもなく、反発するでもなく。だがお主、言動から察するに、さして度量が広い方ではなさそうだ」
「む!」
「そして、感情が真正直に言葉や態度に顕れる。これは、建前を使いこなすのが下手だということだ。よって普段は殊勝さなど無縁のはず」
「ならばどうだというのだ!」
幻三郎が遂に苛立ちを露にした。冷静沈着の仮面が吹き飛んだ一瞬である。
「お主、自分がなぜ悪名を甘んじて受ける気になったか言えるかな」
兵衛は大きな口を横に広げ、にんまりと笑った。乱杙歯が覗く。
「知るか!」
「そうだろう。ふふふふ。お主とて、自分の気まぐれが不思議でならぬ。だから、苦笑混じりの話し方になったのだ。説明してやろう。あれは、一種の己への罰よ。人間、罰を受ければ、償いをした気になって罪の意識が軽くなる。お主は、人を斬りまくることへの罪悪感を、敢えて自らを貶めることで和らげようとしたのだ。人斬り魔に徹しきれておらぬということよ」
「くだらん戯言を……」
幻三郎の語気が急に弱くなった。図星だったのか、見当違いに呆れ果てたのかはわからないが、とにかく反発する気が失せたらしい。
「お主が言えと言ったのだ。文句は聞かぬぞ。相手の些細な言動を通して、心の奥底を読むのが、わしの密かな楽しみだ」
「悪趣味な楽しみだな」
すかさず幻三郎が皮肉で応じる。
「高尚な楽しみと言ってくれ。村の木偶人形どもには絶対に真似できん遊びだ」
「木偶人形ども?」
「村の連中のことよ。この先の村は、岬護家に仕える『衛士』の村。表向きはただの山村だが……」
「何だ? その岬護家とか衛士とかいうのは?」
「岬護家はな、とある神を祀り、神の代行者として存在する高貴な家柄だ。衛士というのは岬護家を守り、神意に従って忠実に動く駒。村の庄屋が、衛士を束ねる頭領を兼ねておる」
「宗教に支配された輩か……」
胡散臭げに幻三郎は呟いた。
「貴公は衛士とは違うのか?」
「衛士だ。名ばかりのな。――本来、衛士の精神構造は常人と大きく異なっておるが、わしの心はもはや衛士とは言えぬ。ある任務の際、三年間も俗世間に潜伏する必要に迫られてな、俗人になりすましているうちに、すっかりありきたりの物の考え方に馴染んでしまった」
「ほう。では、衛士とはどんな心を持っているのだ?」
「すぐには理解してもらえぬであろうな。『自分』と呼べるものを持たぬのだ」
「何?」
「説明してやろう。――普通、人は、己の心が物を考えたり、認識したりすると思っておる。そして、その心の奥底に、魂という常住不変の核を想定し、それこそが己の本質――実体だと信じている。ゆえに、いかなる瞬間の己をも同一の存在と見做すことができるのだ。――されど、衛士は違う」
「馬鹿な。どんな時も自分は自分だ。自明のことではないか」
「そうかな。衛士は瞬間ごとに異なった人間になるぞ」
クク、と微かな笑いをこぼしながら、兵衛はそう言った。
「何だと!」
「走っているお主は、歩いているお主ではない。怒っているお主は、笑っているお主とは違う。皆、異なっておる。衛士はそれを別の存在と受け止めるのだ。あらゆる作用から隔絶された不変の『実体』など想定せん。他者に対しても、己に対してもな」
「魂の存在を認めんということか」
「いや、認めんのではない。初めから問題にしておらぬのよ。――そもそも、衛士は、考えたり認識したり意志したりする『主体』を持たぬ。一瞬ごとに浮かんでは消える泡の如き『意識』のみを心とし、意識を作る『働き』のままに生きるのだ」
「意味がよくわからん」
「普通、人は『自分』こそが意識を作る『主体』だと考えている。だが、『自分』を意識の内に捉えることは決してできぬ。なぜなら、意識が『主体によって生み出されたもの』である以上、その中のものは既に『主体』ではなくなっているからだ。にも関わらず、人間は、意識の中の『仮想の主体』を『本当の主体』であるかの如く捉えてしまう」
「『仮想の主体』?」
「わからんか。言葉で言い表された『主体』のことだ。『我は思う』というふうに、『考える』や『思う』などの述語と結びつくことで、文の中でのみ『主体』として機能する。例えば、『我は思う』という意識における『我』は、『思う』という行為にとっての主体ではあるが、『我は思う』という意識そのものを作った『主体』ではない。よって『我』はあくまで『仮想の主体』でしかないと言える」
「それがどうした」
幻三郎は不貞腐れたように言葉を挟んだ。
「まあ、聞け。――人は、複数の全く異なる『存在』の中から共通する特徴や性質を見出し、それらを有するものをまとめて一つの言葉で表す。『人』は『人』、『動物』は『動物』、『山』は『山』と。同様に人は、『ある物』が同じ形で存続する限り、その『ある物』をいついかなる場合でも『同一存在』と見做す。それらは、人に備わった本能的な感覚。ゆえに、意識の中に想定される『主体』は、自ずと全ての瞬間の自分をひとくくりにした『自分』になる」
兵衛は得々として喋った。放っておけばどこまでも話し続けそうな雰囲気である。
「しかしだ。人間が花を見た時、真先に浮かぶ意識は『花だ』のはず。『我は花を見た』ではない。『花だ』の中には『我』も『見た』も存在せぬ。『我』を意識する時以外に、『我』は存在しておらぬのだ。――結局、『自分』は、限定された状況の下でのみ想定される幻」
「では、その『自分』を想定するものは何なのだ。それこそが『本当の自分』、『本当の主体』ではないのか?」
「さっきから問うてばかりだな」
「貴公がそうさせている!」
軽くはぐらかされただけで、幻三郎はたわいもなく怒りを剥き出しにした。だいぶ鬱積が溜まっていたらしい。兵衛はなだめるような仕種を見せた。
「待て。今、答える。――要するにだ。『想定される』という言葉は、わしが便宜的に用いたまで。『想定する』側に、確固たる実体があると考えてもらっては困る。『仮想の自分』を含め、あらゆる意識は、無意識の中より生起するもの。無意識はその名の通り意識ではなく、意志は意識に属するゆえ、無意識に意志はない。無意識は、主体的に何かを想定しようとする存在ではないのだ」
「…………」
幻三郎は二言三言ぶつぶつと呟いたが、それは激しい水音によって、すっかりかき消されてしまった。
「『本当の自分』など存在せん。そういうことだ。衛士とて、状況によっては『仮想の自分』を作るが、それはあくまでその時だけの『自分』に過ぎぬ。他者を見る時も同様。常住の他者を想定することはないのだ」
「されど、そんな面倒な物の見方をすることに何の利がある?」
「自分を連続的な存在と見做さぬゆえ、己への執着がなくなり、死を恐れずに済む。他者を実体と思わぬゆえ、特定の人物に対する憎悪や恨みに囚われることがない。物欲は消滅し、目先の利益に惑わされることもなくなる」
「それではまるで聖人の境地ではないか」
「己の意志で到達した境地であればな」
表情を曇らせ、兵衛は足元の枯れ枝をポキリと踏み折った。
「確かに衛士の物の考え方は、仏教における涅槃に至るための智慧と共通しておる。ただ決定的に違うのは、それが教育と訓練によって植えつけられたものだということだ。我欲を持たず死を全く恐れず、命令に忠実に動く生きた道具――そう仕立て上げられたのが衛士。従って、神や岬護家にとって都合のいい意識しか生じないような頭の作りになってしまっている。あらゆるものに実体はないという視点を持ちながら、我らが神に実体がないとは決して思わないし、岬護家の者を瞬間ごとに別人と見ることもない」
「矛盾だらけ、ということか」
「いや、別に神や岬護家の者に実体があると意識しているわけでもないのだ。最初から何も意識に上らぬ仕組みよ」
「生きた道具か。言いえて妙だな」
「衛士とはそうしたもの。俗人の心を持ったわしは、道具としては、極端に使い勝手が悪くなったらしい。今は、無能扱いされて、こんな所で『天敵』を見張る毎日だ」
兵衛は愚痴っぽく言った。自嘲めいた笑みに孤独の翳が浮かぶ。衛士の何たるかを知り抜いた上で、なお衛士であることに強くこだわっている様が窺える。
「『天敵』だと? そんなものがいるのか?」
幻三郎は大仰に驚いてみせた。よほど話題を変えたかったのであろう。
「さあな。伝説の存在ゆえ見たことはない。衛士は神と岬護家に仕える戦士。戦う相手もまた、神の領域にある。天より遣わされ我らに仇なす敵――それが『天敵』だ」
「つまり、貴公らの信じる神と同じくらいあやふやな存在ということだな」
「衛士にとっては、神と同じくらい確かな存在だ。勿論、わしにとっても」
兵衛はきっぱりと言い切った。
「――とはいえ、ここ五百年ばかり、現れたという記録はないが」
「悠長な話だ」
「それは認める。見張りの仕事も形ばかりだ。この先にある衛士の村は、何の変哲もない山間の村を装っておるから、基本的に出入りは自由。わしも、あからさまに怪しい奴以外は素性を確かめるに及ばず、と言いつかっておる」
「すると、この俺は……?」
「異様に怪しかったのだ。長らくここの見張りをやっていて、呼び止めたのはお主が最初よ」
「ふん」
右拳を握りしめ、幻三郎が不満を露にする。
「機嫌が悪いな。ここで待ったを掛けられたのが自分だけと知って、急に損した気分になったか。人間の心とは面白いものよの」
「黙れ!」
腹の底から絞り出された低い声が、気迫で兵衛の口を塞ぐ。瞬間、彼の背筋がピンと緊張した。
「無駄話はもううんざりだ。行かせてもらう」
幻三郎が焦れたように宣言する。
「構わんよ」
兵衛は人を食った表情でさらっと答えた。
「――頭領の客人ともなれば、よもや敵ではあるまい。行っていいぞ」
「それならそうと、もっと早く言え」
「退屈だったものでな」
「けっ」
荒々しい動作で兵衛に背を向けるや、幻三郎は大股で歩き出した。両肩が不規則に上下動し、上体が前のめりになっている。
「楽しかったぞ。帰りはすんなり通してやろう」
背中に向けられた声を無視して、深編笠の浪人は一人、激流の水音が轟く方へと下っていった。
続く