思慕(おもい)
東京都台東区浅草、八坂が生まれ育った町である。南西に向かい言問通りを横切ると、観光名所として有名な浅草寺に当る。南には言問橋が、墨田区向島に掛かり隅田川を渡る。北は南千住、西に入谷といった一般に『下町』の通称で馴染深い街でもある。
八坂の母親の深幸は、十二歳の時に、家族全員が原因不明の失踪をし、深幸の母親の実家であるこの地へやってきた。
養子として引き取られるはずであったが、苗字を変えてしまうと、失踪した家族との繋がりがなくなると、子供ながらに思い『八坂』の姓のままでいたいと頼んだ。最初は祖父母に反対されたが、叔母が、けな気な深幸の頼みを聞き祖父母を説得した。
時は過ぎ、深幸が二十三の春。浅草で刃物の研ぎ師をしていた大矢耕作と、三年の付き合いを経て二人は結婚をした。
耕作は両親を早くに亡くして、天涯孤独な身であったため、浅草のこの家に婿養子として入り、深幸の母親代わりの叔母と三人で暮らし始めた。翌年、二人の間に男の子が生まれ、数珠と名付けられた。
貧乏ながらも明るい家庭であったが、数珠が生まれて僅か半年後の春、耕作は小春日和の穏やかな日に、隅田川に落ちて亡くなった。
警察は、夜桜見物の最中に、誤って岸壁から転落した、事故死と結論付けたが、下戸で金槌の耕作が、酔っ払うはずは無いし、ましてや夜中の川岸などへ近付くはずも無いと、深幸は訴えたが聞き入れられず、死体発見から僅か三時間程で、事故死として処理された。
家族の失踪に夫の事故死と続き、深幸は自分の名前の『幸』の字は、幸福の『幸』ではなく、不幸の『幸』ではないかと、薄幸を嘆いた。叔母は苦しんでいる深幸を不憫に思い、藁にも縋る思いで、近所の尾部神社の鳥居をくぐった。
叔母を出迎えた老齢の宮司に、深幸の事を相談したところ、宮司はすぐに、深幸を連れてくるように告げた。翌日、叔母は深幸と数珠を連れて、再び宮司を尋ねた。
宮司は、深幸と数珠を見るなり、「すぐにご祈祷しましょう」と言い、念入りな祈祷を上げた。帰りには、「これを、玄関と玄関の真裏に当るところへ貼りなさい。」とお札を二枚、深幸へ手渡した。
自宅に戻りお札を貼ろうとして、深幸はお札の裏面に『八坂琢馬』と行方不明になった、祖父の名前が書かれてあった事に気付く。深幸は驚き、叔母へこの事を告げ、数珠を抱えて急ぎ神社へ戻ったが、出てきた宮司は、深幸と然程歳の変わらない若い男であった。
「父が病気で、宮司のお勤めが出来なくなったので、先月引き継いだばかりです。」
若い宮司は深幸へそう言い、お札を見ても「当神社の物ではございません」と申し訳なさそうに返答をした。
「私共も来年早々ですが、子供を授かるのです。ご近所で歳も近いので、是非息子さんにお友達になっていただきたい。」
帰り際に若い宮司は、深幸へそう言った。彼が一葉の父の尾部友康であった。
深幸は尾部神社に何かを感じ取り、宮司に娘が産まれてからも、頻繁に数珠を連れて遊びに行った。
そんな折、一葉が神隠しに遭い続いて一葉の母、都の怪死。最後は火事で神社諸共、尾部の家人全てが焼死した。
その所為で深幸は、自分は周りの人まで不幸にするのだと思うようになった。生きる事を見失い、叔母や数珠の声も聞かずに食を絶ち、三十六歳でその薄幸な人生を、衰弱死という形で終えた。
数珠が十二歳になった、残暑厳しい九月であった。
北の街では、あと数日も経つと木々が色付き、秋が近付いている。と感じる時期になるのだが、大都市、東京の下町では、まだしばらく残暑の厳しい日が続くだろう。
ここ数年、夏の暑さが身に染み、歳の所為にしてみるが、時よりニュースで自然破壊と温暖化を耳にするが、一概に、歳の所為とは断言し難い。玄関先で、今日もまた暑いと感じるのは、どちらの所為なのか――。などと考えながら、天寿院を待っていた。
「お待たせ。行きましょ」
天寿院はまだ八坂の顔をまともに見られずに、視線を伏せて八坂の横を通り門から出た。
「今日も暑くなりそうな晴天だよ」と空を仰ぎ見て「でも涼しさが残る午前中なら、散歩するのも悪くない。」
俯いた天寿院を前に向かせようと、天気の話しをしたが、天寿院は八坂の後ろに付いて言った。
「今は良いけど、人通りのある所にでたら黙って歩くのよ」
「どうして?」
「私は誰にも見えないの。独り言を話して歩く、変人と思われるわ」
「そうか……。わかったよ、気をつける。」
路地を出て、少し広めの通りを歩くと、言問通りに出る。その大きな通りを渡りまた路地へ入る。
人が疎らになり辺りを気にしながら、「本当に良い天気だな」と天寿院へ言った。天寿院は、家を出てからずっと八坂の後ろを黙って歩き、並ぶことはしない。しかし八坂に振り向かれるのを嫌ってか、話しの相槌だけは返した。
「浅草寺って、こんなに遠かったかしら?」
家を出る前に、地図で確認したよりも、距離を歩いているような気がして、人通りが途切れたときに訊いた。
「天気が良いから、少し遠回りをしている。」
「あなたは狙われているのよ――。」
「どんな戦士にだって、休息は必要だよ。たとえ、ここで襲われたとしても何とかなるさ。」
「あなたは良くても、襲われた時にいる周りの人達は巻き添えになるのよ。大体、それを嫌って広い所へ行こうと決めた訳でしょ。」
八坂が急に足を止めた事に気付かず、天寿院は八坂の背中にぶつかり、「いきなり止まらないで欲しいわね」と文句を言った。
「ここに見覚えはないかな?」
「ここは?」
見ると滑り台やブランコなどの遊具が設置された、テニスコート程の小さな公園の前にいた。
「見覚えは無いかい?」再び訊いた。
滑り台の裏手に大きな桜の木が一本あり、あとは公園の外周に沿って、膝丈ほどの高さのツツジが植えられている。花の季節には大いに賑わいそうな公園だった。
遊具と桜の木を囲むように、五つのベンチが置かれていて、その奥には十数軒の家が、この界隈では珍しい広めの道路で区切られ、きれいに並んで建てられていた。
「ごめんなさい。無いわ……」
公園をチラッと見てすぐに答えた。
「そうか……無いか。そう簡単にはいかないって事かな。」
「どう言う事?」
一瞬、八坂の背中を見たが、公園の奥の方から、子供の遊ぶ声が聴こえ、視線はその声を追った。
初めて天寿院の視界一杯に、公園の全景が入ってきた。
「――。ここって……」
八坂は天寿院の変化を見て公園の中に入った。その後をゆっくりとした歩調で、天寿院が着いて来る。
先を行く八坂は、陽当たりの良いベンチを選び座った。
「一葉ちゃんが、あそこに居る親子に見えたとしたら、僕達はどう言う風に映るのかな。」
滑り台の近くで砂遊びを楽しんでいる、幼児連れの二組の親子を見て八坂が訊いた。
「不倫……援交……かしら?」
ベンチの横に立って親子を見ている天寿院は、独り言の様に答えた。
「随分、今時の言葉を知っているね?」
「意味も勉強済みよ。ところでここは何処なの?」
「公園の入口に、名前が書いてあるよ。」
八坂は天寿院の問い掛けに、直接には答えずに、二人が入ってきた方を指した。
天寿院は八坂が指した方へ歩き出すと、今度はその後を八坂が着いて行った。
腰ほどの高さの石でできている門には、『尾部公園』と書かれてあった。
「ここは三十六年前も、今ほど整備はされていなかったけど、あの桜の木がある公園だった。そしてこの奥に――。あの住宅が並んでいる辺りに、境内と御社が有って、その奥が一葉ちゃんの家だった……。」
公園の奥の、今は家が数件建っている辺りを指して言った。
「この公園……。ごめんなさい。思い出せない。やっぱり私は一葉では無いのよ。」
「それはどうかな?時間が経てば、きっと思い出せるさ」
「私は……。私は保憲様の式神で十分満足しているの――。これ以上、惑わさないで欲しいわ……」
天寿院の目から、ひと粒の涙が頬を伝い落ちた。
「惑わすって?自分の居るべき時間に、戻そうとするのがいけない事かい?」
「私の居るべき時間は、保憲様の呪術の中だけ……。他には無いのよ。もっと、今の私にちゃんと向き合って欲しい。」
「勿論、今の君をしっかり見ているさ。だからこそ、君を式神などとは思わない。この戦いを通じて、最後にはきっと、君の失われた時間を取り戻してみせるさ」
「ばか――。ばか」
天寿院は八坂の胸の中に、顔を埋めて泣いた。八坂は黙ったまま、両手でそっと一葉を包み込んだ。
公園で遊んでいた子供の母親が、「お昼にしましょう」とベンチから砂場で遊ぶ子供へ声を掛け、帰り仕度を始めた。
親子が八坂の横を通り過ぎてから、子供が母親に聞いた。
「あのお姉ちゃん、悪いことしたの?」
母親は「おじさんでしょ」と小声で言ったが、子供は「お姉ちゃん泣いてたよ」
そう言いながら、母親と繋いだ手を引っ張りながら、八坂達をずっと見ていた。
「昨日の昼間の月と同じ、見える人には見えるのだから、やっぱりここは君のいる場所だよ。」
八坂は子供を見送りながら言った。
「子供は純粋だから見えるだけよ」
「あの子供には、僕達はどんな風に映ったのかな?」
「……親子……」
「前進だね。さぁ、車を取りに行こうか!」
公園を出た所で、目の前の路上に数台の車が停まった。スーツを着た若い男や、作業服を着た中年の男たち数人が降りてきて、二人の横を通り、公園の中へ入って行った。
中年の男の一人が、コンビニで買ってきたであろう弁当を、ベンチで取り出しながら「あれは、不倫男の悲しい末路だぜ。」と同僚らしき相手に話していた。言われた相手は八坂を見て『不倫?』と首を傾げた。
「あのおじさんには、不倫に見えるようね」
「ははは。明後日辺りには、夫婦に見えるかもよ。」
「ばか――。」
「希望は、ある!」
八坂が天寿院の目を覗き込むと、天寿院はまた下を向いた。
「それじゃ、駐車場へ行こうか。久しぶりの運転だから、緊張するな。」
二人は公園を背にして、もと来た道を戻り始めた。
「大丈夫?本当に一番安全な移動方法なの?」
「理論上は――ね。」
『雷』と書かれた、赤い大きな提灯のある参門をくぐり、仲見世を冷やかしながら、浅草寺で旅の安全祈願をした帰り、二人が境内を歩いて行くと、いきなり上がった黄色い歓声に、鳩の群れが八方へ飛び立った。
鳩が去った敷石の上を見ると、旅行客らしい二十歳代の女性が五人ほど、輪になりしゃがみ込んでいた。
「頂戴なは?」とか「頂戴な、頂戴なして。お願い」などと輪の中に向かって言っている。言われた相手は、後ろ足で座り、上半身を起こして前足を合わせ拝む格好をした。
たちまち「キャー!可愛い!」と先程と同じ黄色い、賑やかな声が境内に響いた。
「こんな時に、呑気なものね。あんなににやけて、鼻の下のばして――。みっともない!」
天寿院は冷ややかな視線を『頂戴な』をしている者へ向けた。
「玄武が知ったら、八百年の恋も冷めるかも」
さすがに八坂も呆れ顔で言った。
調子に乗ってか、前足を合わせたまま「にゃぁ」と鳴いてみせると、先程以上の歓声が上がった。近くに集まりかけていた鳩が驚き、再び飛び立った。
その時二人の視線に気付いたのか、『頂戴な』の格好をしたままで、二人と目が合った。しかし何も無かったかのように装い、二人へ向かってのそのそと歩きだした。
「もう行っちゃうの!」
「もっと遊ぼうよ」
誘惑の声が後ろ髪を引くが、もう振り向きはしなかった。
「気付いた様だ、こっちに来るよ。でもここから見ていると、一葉ちゃんではないけど、確かに子豚と見間違いそうだね。」
「でしょ。少しダイエットが必要よ。」
二人の居る方へ足早にやって来る。
「聴こえたのかな?」
「きっとあれで全力疾走なのよ」
「まさか。あれ?お腹擦ってないか?」
「猫のくせに、頭よりお腹が大きいなんて。呆れるわね」
「あんまり言わないでくれないかな。」
二人は、特に八坂は、周りの人に聞こえないように、小声で話しているが、笑いを堪えるのに苦労している。
「どちらにしてもあの顔じゃ、朱雀か玄武に聞いて、追いかけて来たって感じね。」
ほんの十メートル程を、早や歩きしただけなのだが、白虎の息はゼイゼイと上がり、足もブルブルと振るえている。
「どちらへ行っていらしたのですか!あっちこっちと探し回り、もうヘトヘトですじゃ」
「ごめんよ、白虎。天気が良いから、近所の案内と、旅の安全祈願を兼ねて散歩していた」
「朔の小娘――?など連れずに、わしをお連れ下され」チラッと天寿院の顔を見た。
「何を言っているの?玄武の件で、黙って出て行ったのはトラブタじゃない。それに疲れたのは、歩き過ぎだけでは無いと思うけど?」
「そ、それはそうじゃが……」
どちらにしても、分の悪さには違い無い。置いて行かれた事に、これ以上触れない方が得策と渋々黙った。が、視線は、雰囲気が変わった、天寿院へ向けたままであった。
「何か言いたげね。安心して良いわよ、さっきの『頂戴な』は玄武には言わないであげるわよ」
「そっ、それは忝い。が、そのことでは無い……。」
「私に何か付いているの?歯切れの悪い言い方と、その変な目で見るのはよして欲しいわね。」
「上手く言えんのじゃが、変わった様に感じただけじゃ」
「別に何も変わっていないわよ。」
二人のやり取りを聞いていたが「ここは人が多いから、場所を移すよ。」と二人へ一層小声で言って、白虎を抱き上げ、八坂は歩き出した。
境内と仲見世を通り、雷門を出て人通りの少ない路地を選んだが、浅草寺周辺はスカイツリーの人気も相俟って、平日でも狭い路地まで、散策を楽しむ観光客が多い。なかなか人が途切れることは無く、結局八坂達は、言問通りへ出て、自動車を停めている駐車場に着くまで、無言であった。
「これが、僕の車だよ」
駐車場に着くと、ライトグリーンの三菱ミニカの前に立ち、八坂は自慢気に言った。
「随分と小さな物ですな。」
「本当ね。自動車って言うから、こんなのかと思ったわ。」
天寿院は隣に停めてある、白いベンツを指した。
「ははは。それは、友人の車だよ。僕の稼ぎでは、これが目一杯さ。それに、この辺りでは小さな車の方が便利だしね」
「でも、これにみんな乗れるのかしら?」
天寿院の素朴な疑問であった。
「白虎達を後部席に乗せれば、多分、大丈夫さ。」
「青龍や阿吽を入れると、六匹ですじゃ。ちょっと窮屈の様にも思えますじゃ」
「だったら、君が痩せれば良いじゃないか」
温厚な八坂が二人の批判に機嫌を損ね、不機嫌気周り無い声を上げた。
「数珠様、実に良いお車ですじゃ」
「文句は無いね?」
八坂は冷ややかな視線を白虎に向けているが、内心は、ミニカに乗り切れ無い程の仲間がいる事を喜んでいた。
「文句などとんでも……ございません……ですじゃ。」
「そうかい。それじゃ、乗って」
キースイッチでドアロックを解除して、助手席のドアを開けた。
「レディーファーストで、一葉ちゃんからどうぞ」
「ありがとう」
(やけに素直じゃ。雰囲気もじゃが、何か怪しい……)
「白虎もどうぞ。」
八坂が後部席のドアを開けて白虎を招いた。白虎は車に乗ろうとするが、足がとどかない上に、腹が邪魔してシートに乗れない。それを見ていた八坂は、白虎を抱き上げて、「本気でダイエットをしような」と言うと、白虎は抱かれながら「面目ないですじゃ……」と申し訳無さそうに答えた。
八坂が運転席に乗り込み、エンジンが掛けられた。軽自動車特有の軽いエンジン音と、細かで優しい振動が体中に感じる。天寿院と白虎には生まれて初めての体験であった。
「随分と久し振りなのに、エンジンは快調だよ。ガソリンが無いから入れないと――。」
八坂が独り言を言いながら、ひとつひとつチェックしている。
「動くまでまだ掛かるの?」
「えっ?すぐだよ」
天寿院の顔に『車に乗る』という、初体験の興奮の色が浮かび、動き出すのを楽しみに待っているのが判った。その反面、白虎は後部座席で、四本の足がシートに食い込むほどに、力を入れて踏ん張っている。
「白虎そんなに力む事は無いよ。もっとリラックスして」
「しっ、しかし。そう言われましても、人間の次に怖い物だと訊いておりましたので、力を抜くことができませんのじゃ」
「ははは。人間の次に怖い物かい。人間は妖怪の方を怖がるよ。」
「ねぇ、まだ?」
天寿院に『待つ』という事の限界が近付いていた。八坂は慌てて「それじゃ出発!」の掛け声と供に、車はゆっくりと動き出した。
白虎は背中の毛を立てて、天寿院は顔を高潮させながら、二人のほんの僅かな距離の、処女航海が始まった。