朔日(ついたち)
寝返りを打つと、ふわふわした柔らかい物が左手に触れ、八坂は驚いて目が覚めた。掛け布団を捲ると、まん丸と太ったトラ猫が一匹、丸くなって寝ていた。
「白虎か……」
八坂は枕元の時計を取り上げた。
(結構寝た感じだけど――)
時計は七時三分を指していた。
白虎が睡眠を妨げられたと、迷惑そうな目で八坂を見上げ、「もう、御目覚めですか?」と訊く。
八坂は「うん」とひとこと応えて、「一葉ちゃんが見当たらないけど知らないか?」
「さて?」
布団の上で、猫特有の伸びをした。
「まさか朝ご飯の支度なんて――。テレビドラマや小説めいた事は無いとは思うけど……」
「そういった事を期待されてますな?」
「子供だし期待はしていないけど。他の事では期待というより、頼りにしている。」
「それは残念な事で……。あの小娘に、数珠様のお気持ちが通じますかな」
白虎は襖の向こう側を伺いながら言った。
「僕は、念じれば通じると思っているよ」
「ふーっ」
白虎が何か言いたげに、首を左右に振るのを横目にして、「それじゃ飯にしようか」と八坂は立ち上がった。
立ち上がりながら、何気なく見た文机の上に、巻物が置かれているのに気付いた。おもむろにそれを手に取り広げると、中には、昨夜天寿院が言っていた、手印の絵と意味が、規則正しく整列して書かれていた。
「本当にこんなに有るのか……」と溜息を吐いた。
めげた気持ちから無理やりやる気を搾り出し、窓と雨戸を開けた。秋の乾いた新鮮な外気を取り込み、布団をたたみ始める。白虎は、文字通り足手まといにならぬように、文机に上がって丹念に顔を洗ってから毛繕いを始めた。
「随分と早いお目覚めね。」
天寿院が襖を開けて顔を出した。
「おはよう」八坂が答えるのに、「おはよう」と軽く天寿院は返事をする。
「簡単だけど、朝ご飯作っておいたわ」
少し照れながらそう言うと、たたんだ布団を押入れに押し込んでいた八坂が、びっくりして振り返った。
「本当!」
途中で力が抜けた手から、ずりずりと布団が崩れ始め、慌てて抑えたが間に合わず、布団一式が、八坂を巻き込み畳に落ちた。
「人が作った朝食なんて、叔母が亡くなって以来だから、二十年振りかなぁ」
落ちた布団を急いでたたみ直しながら、嬉しそうに二人へ言った。
「早くしないと、冷めるわよ。」
素直に喜ぶ八坂へ、照れ隠しにわざと冷めた言い方をして、赤らいだ顔を見られないよう、襖を締めて台所へ戻った。
「どうだい。ちゃんと朝ご飯を作ってくれていたじゃないか。」
布団を押入れに押し込みながら、白虎に言ったが返事が無い。八坂は押入れの襖を閉めて文机の方を見た。
白虎は文机の上で、毛繕いの状態のまま止まっていた。
「電池切れかい?」
声を掛けたが白虎は止まったまま、瞬きさえせずにいる。
(心臓は動いているよな)
「白虎、先に行くよ。」
心配を他所に、八坂は暖かい朝食の誘惑に負けて、先に部屋を出た。
焚きたてのご飯、葱と豆腐の味噌汁に、焼いたしゃけが、湯気を立てて八坂を迎えた。
「簡単って言っていてけど、本格的じゃない!」
「そうかしら……。あなたの健康管理も、私の仕事のひとつなのよ。」
天寿院は照れて横を向いた。
「なんと!わしの分も……」遅れて来た白虎も素直に喜んだ。
「あれ?一葉ちゃんの分は?」
天寿院自身の朝食が、用意されていないのに気付いて訊く。
「私は式神よ。食事も睡眠も必要ないの」と寂しげに小声で答えた。
「睡眠も……って。まさか寝ていないのかい?」
「特に必要ないから――。それより冷めるわよ。」
「うん。それでは遠慮なくいただきます。でも、しばらくは一緒にここで暮らすようだから、食事が摂れるなら一緒に食べて、寝るときは一緒に寝ようよ」
「一緒に寝る?何か変な事されそうね。」
「おいおい。それは言葉の――」
「冗談よ。わかっているわ」
「――何か一葉ちゃん、大きくなってない?」
「確かに。昨晩の小娘と言うよりは、成長した感じがしますじゃ」
良く見ると、昨晩は小学生ほどだった天寿院が、十代半ばの女子高生の容姿に変わっていた。
「式神も歳を取るようだね」
「私の外見は自由に変えられるのよ。夕べ見たでしょ」
「歳を取れば記憶が戻るかと期待したけど、違うのか……」
「そんな事より、おかわり有るけど?」
「では、おかわり。」
天寿院へ空いたご飯茶碗を手渡した。
(変ね。私の意思とは関係なく、年齢が変わっているわ。『朔』の所為かしら……)
八坂にとって、久し振りの賑やかで暖かい朝食であった。
「あとで友人の工務店へ行って、窓の修理を頼んでくるよ。」
朝食が済みお茶を飲みながら二人へ言った。
「出向かずに、電話で済ませた方が良いわよ」
「でも急ぎ仕事になるし、近所だから行って頼んだほうが早いよ」
「数珠様、わしも小娘と同じ考えですじゃ……」
二人の始めて合った意見に、少し戸惑った。
「どうして?」
天寿院が言いかけた時、「わしが話そう」と言って、白虎が食卓に上がった。
「今日は、小娘は式神ではなく、ただの小娘に過ぎないのですじゃ」
「?」八坂の怪訝な顔が白虎に向いた。
「今日は『朔日』なのですじゃ」
「え?今日は八日だよ」
食卓の脇に掛かっている、日捲りを見て言った。
「日付ではなく『朔』の日なのですじゃ――。つまり、日の出と共に月が出て、夕方には沈んでしまう」
「夜、月が出ないってことかい?」
「はい。」
「それが式神に関係が有るってこと?」
「大問題ですじゃ。今日は数珠様も同じで、呪力が大変弱くなる日なのですじゃ」
「だとすると、敵も同じじゃないの?」
「これは、陰陽師の呪術に関して起きる事で、妖狐やトラブタのような、妖怪には関係無い事なのよ。」
黙って聞いていた天寿院が答えた。
「だから外出は控えて、微かだけど、お札の霊力が残るここにいた方が安全なの」
「そうか……。『朔』はいつまで?」
「今日と明日ってところね。」
「二日間か……。しょうがない。極力外出は控えるよ。」
楽天家の八坂も、さすがにこの件は神妙に受け入れた。
「丁度良いから、巻物に書いてある『印』を、全部今日中に覚えてよ」
「えっ!」八坂の顔から血の気が引いた。
十一時を過ぎた頃、玄関のチャイムが鳴るのと同時に扉が開いた。居間で日向ぼっこを愉しんでいた白虎は跳ね起き、食卓で八坂が昨夜持って来た、缶の中の写真や手紙を見ていた、天寿院も身構えた。
「八坂いるかい?」
意外と甲高い、ひょうきんな声が八坂を呼んだ。
「根川か?」
八坂が仕事部屋から出てきて、玄関に立つ友人を迎えた。
根川は、八坂とは幼馴染で、幼稚園から高校まで奇跡的に常に同級だった。高校を卒業し、親戚の工務店に見習いへ行き、十年ほど前から、親より実家の工務店を継ぎ、経営一切を任されている。丸い童顔で角刈りが実に不似合いだが、腕の良い大工でもある。
「悪いな、忙しいところ出向いてもらって」
「良いってことよ。現場見るのに丁度良い」
根川は持参した大学ノートを、パラパラ捲って見せた。
「窓が壊れたって訊いたけど?」
「こっちだ。見てくれるかい」
そう言いながら、八坂は根川を居間に通して窓を見せた。
「かなりなダメージだな。まるで蹴破って入ったみたいだ。」
窓際でしゃがみ込み、砕けた雨戸とガラス窓を見て言った。
「俺がちょっと押しただけで、この有様だよ。家自体が古いから仕方ないと諦めてはいるけどさ」
「お前ん家みたいのが有るから、ウチの様な弱小工務店が何とか生きていられるのさ。」
窓枠を丁寧に見ていた根川が立ち上がった。
「そんな事言ったって、建て替える金は無いぜ」
「分かっているさ。稼ぎの少ないお前を当てになどしないさ」
「そうそう。今時、儲かりもしない、しがない研ぎ師とフリーターの二束の草鞋じゃ、窓を直すのだって苦しい限りだ。」
「ウチだって一緒だぜ。工務店を残すために、職人や若い衆も大分減らした。」
「天下の根川工務店が良く言うよ」
「おいおい、おだてたって同級生割引までだぜ。それ以上は、この世知辛い世の中では無理だからな」
「承知!それでも大助かりだ。」
『御茶淹れたわよ』
八坂が振り向くと、食卓の丸盆に湯飲みと急須が用意されていた。
(やっぱり、根川にも一葉ちゃんは見えないのか)
八坂は天寿院へ『ありがとう』と目配せして、根川に「茶でもどうよ」と誘った。
「ところで、猫なんていつから飼ってんだ?」
お茶を一口啜って根川が訊いた。
「昨夜、割れた窓から入ってきて、居着ちまった」
「よっぽど、窓際が好きみてーだ。俺が近付いても動きゃしない」
日の差す畳の上で、白虎は丸くなったまま動かずにいた。
「それにしても、随分と見事な体型だな。まるで子豚みたいだ」
今まで根川が近付いても、平気で寝ていた白虎だが、今の一言に反応して『ピョコン』と顔をもたげて、根川を睨んだ。
「気を悪くしているぞ」
「かまうものかよ、金運の招き猫ならまだしも、窓が壊れた時に来た猫じゃ、疫病神かも知れんよ」
「でも今では、俺の家の同居人だぜ。余り悪く言わないで欲しいな」
「おっと。こいつは失礼。つい友人との馴れ合いになっちまった――。窓はサッシで良いか?その方が安く上がる。」
湯飲みの中のお茶を飲み干して、今までの雑談を仕事に変えた。
「それは助かる。一番安くて見栄えの良いのを、見繕ってくれよ」
「ほいさね。そんじゃ、夕方になるかもしれんが、見積を届けさせる。ついでに、ベニヤを何枚か持って来て、ビニールシートを貼り付けてやるよ」
「サービスか?」
「当然――。同級生割引だ。」
「わかった。それで頼むよ。」
根川が雪駄をつっかけて「じゃな」と小走りに路地を行き、バス通りに消えた。
八坂が根川を見送り家に戻ると、白虎は不機嫌極まり無い様子を露骨に表して、ムスっとしていた。その傍らで、天寿院も機嫌を害したのか、黙って座ったままであった。
昼食は、八坂が支度をして天寿院にも勧めた。しかし「食欲がないから」と断り、居間の壊れた窓から秋の晴れた、東京では珍しい、清んだ青い空を眺めていた。
昼食後、白虎は天寿院に昼寝の場所を取られたのが不愉快なのか、黙って窓から出て行った。
八坂は、食後のお茶をふたつ手盆で持ってきて、天寿院に声を掛けた。
「お茶、どうぞ」
「ありがとう。でも、遠慮するわ」
「どうしたの?朔の所為?」
「何が?」
天寿院は外を見たまま、振り向きもせずに問い返した。
「元気が無いみたいでさ」
「私が?」
「うん」
「意外と優しいのね。そんなに気になる?」
八坂を横目で見て冷やかした。
「二十数年振りに得た身内だからね。気になるのは当たり前じゃないか」
「身内って――。私は式神で、人じゃないわよ」
「一緒に暮らせば、立派な身内だよ。」
「そういう優しさの押し売りみたいな言葉は、実体を持たない私にはとても辛い言葉よ。」
「……。」八坂は返事に窮した。
「実体が無い私って、あの月と同じ」
空へ視線を戻して呟いた。八坂は天寿院の視線の先を辿り、目を凝らす。
「自分の生きる場所と時間が合っていれば、誰もが気付き見てくれるけど、今のあの月は、誰にも気付かれずに、見付けて貰う事さえしてもらえない――。人の世界にいるのに、誰にも気付いて貰えない私は、あの月と同じ……。」
八坂はやっと、真昼の快晴の空に、儚く薄っすらと浮いている満月を見付けた。
「早く、妖狐から勾玉を取り戻して、元の世に戻りたい――。」
天寿院の頬を一筋の涙が零れ伝った。
「そうだね。確かに今の一葉ちゃんは、あの月と同じだ。」
天寿院の悲しい目が、八坂に向けられた。が、八坂は月を見たまま続けた。
「でもね。あの月だって何日かすれば、元の自分の場所と時間に戻るよ。だから一葉ちゃんだって、姿は違っていても、自分の場所と時間に――。ここに帰って来たじゃないか。あとは無くした空白が埋まるまで、僕はしっかり君を見ている。」
「……ばか。そんな恥ずかしい事を、真顔で言うなんて……。」
「この歳まで一人で暮らしているとね、何でも平気で言える様になるのさ。」
笑った八坂の口元から八重歯が覗いた。
「その八重歯」
「僕のチャームポイント」意識して作った笑顔に、「とても気持ち悪いわ。抜いた方が良いわよ。」
二人はしばらくの間、儚く浮かぶ昼の月を眺めていた。
夕方になって、根川工務店の者だと言う二人の若い男が、ベニヤとビニールシートを軽トラに積んでやって来た。流石に手馴れた様子で、段取り良くベニヤとシートで、壊れた窓を覆い始めた。
「菅井さん。この家、古過ぎて窓枠だけじゃなく、全体的にかなりやばいらしいですよ。だから周りの壁を壊さないよう、気を付けて仕事しろと親方が言ってたっす!」
勢い良くベニヤを打ちつけている兄貴分の職人へ、見習いらしい若い男が大声で注意した。
「馬鹿野郎!そう言う事は、施主に聞こえねぇように、もっと小さな声で言え!」
「外と中の違いはあるが、ベニヤ一枚じゃからな、おぬしらの声など丸聞こえじゃ」
白虎が食卓の上で、毛繕いをしながら言った。
「お茶、淹れるのよす?」
天寿院が真面目に訊く。
「ははは。そうはいかないよ」
「しかし現代人は、慈愛と言うものが無さ過ぎですじゃ」
「窓を壊したのはあなたよ」白虎を細目で見ながら責めた。
「あれは……」
「その後始末をしてくれているのだから、あなたに彼等を非難できるのかしら?」
言い返すことができず、白虎は渋い顔をした。
「外が静かになったな。お茶持っていこうか」
その時、玄関の扉が開き、菅井と呼ばれた方の職人が顔をだした。
「八坂さん、終わりました。」
「今、お茶淹れているから、ちょっと一服してきなよ」
台所から八坂が返事をした。
「ありがとうございます。が、もう仕舞いなので……。」
「おっ、そうか!飲みに行くのか」
「へい。すみません。これ、親方から八坂さんへ手渡すようにと――」菅井が封筒を差し出した。
「見積りか。確かに受け取ったよ」
封筒から四つ折りの紙片を出し、広げて金額を確認した。
「それじゃ、失礼いたします」
「おっと。これ持っていってくれるかい」
そう言いながら、用意していた一升瓶を菅井の方へ出した。
「これは……」
「先月貰ったけど、日本酒は飲まないから。持っていってくれると助かる。」
「そう言う事でしたら、遠慮無く頂戴します」
「ありがとう。工事の方、宜しくと根川に伝えてくれる?」
「へい。では、これで失礼いたします。」
見習の運転する軽トラに菅井が乗り込むと、運転も見習いとわかる、危なっかしい走りで帰っていった。
金槌で釘を打つ音も、粋の良い職人達の大声も収まり、八坂家に静けさが甦った。
風呂に入り夕食も済ませ、就寝前に居間で寝転びながら、ニュース番組を観ていると、白虎が八坂の脇に来て言った。
「静かな夜ですじゃ」
「そうだね。このまま何とか、今日一日を無事に過ごしたいね」
「上手く、夜が明けるまで来なければ助かるけど」
窓際を警戒している天寿院も、朔が明けるまでは。と願った。
「なんてったてさ、今日の今日で、ベニヤを壊されたら。根川への言い訳を考えないといけなくなるしね」
「申し訳ありませんですじゃ」白虎が頭を下げた。
「気にするなよ。二十万は痛いけど、白虎の所為じゃないよ。」
「貧乏な割には、気前が良いのね」
「貧乏か。確かに否めないな。」
テレビの画面が突如乱れた。
「来たようですじゃ!この感じは――朱雀か!」
「まったく、今夜だけは『招かれざる客』を理解して欲しかったな」
「私が引き付けるから、トラブタは死んでも八坂のおじさんを守るのよ」
「今のぬしには、奴を引き付ける事もできんじゃて。無闇に掛かれば瞬殺は間逃れまい」
「……トラブタの分際で」
「でも今は、白虎の言う通りだよ。」
「……そのようね。足手纏いは辛いけど、私の所為で、あなたを危険に晒すわけにはいかないものね……。」
天寿院は八坂の前に立った。
「このまま、玄関先で帰ってくれれば良いのだが……」
「それは期待薄ですじゃ。数珠様、早くわしの妖力をお戻しくだされ」
「わかった。頼むよ白虎。」
八坂は手印を結び白虎の妖力を戻した。
白い光が白虎を包むと大きく膨らみ、光の中から昨夜の大きな妖猫が現れた。
「力がみなぎる!朱雀の目を覚まさせてくれる!」
白虎はそう言うと、狭い廊下を通り玄関へ向かった。と同時に、轟音と共にベニヤとシートが居間に飛び込んできた。
「なに!」
居間の窓を背にしていた八坂と天寿院は、後ろを魔物に取られた格好になっていた。急ぎ振り向いた八坂の目に、黒く大きな岩が映った。
(しまった!この気配は玄武!朱雀は囮か、しかしここを動けば間違い無く朱雀は襲ってくる。どうする!)
白虎は居間の騒動を察知したが、身動きが取れない。急ぎ戻らなければ八坂が玄武に襲われると思い焦った。
「白虎!こっちの岩は何とかするから、そっちだけ頼む!」
白虎の焦る気持ちを悟ったのか、八坂が大声で指示を出した。
「わかりました。そやつは玄武です。防御には滅法強いですが、大丈夫ですか?」
「自信は無いけど考えがある!少ない呪力を有効的に使う方法がね。」
八坂と玄武の間に入ろうとする天寿院を止めながら、八坂は手印を結んだ。
玄関の戸が揺れ始め、ガラスがガタガタと音を立てた。
「来るか!朱雀!」
「白虎の方も、いよいよ始まるのか。こっちも早く整えなくては。」
玄武と対峙した八坂が手印を結び終わると、左手で天寿院の右腕を掴んだ。
「一葉ちゃん、君を守ると言っていたのに、君に頼らざるを得ない自分が情けない。時間にするとほんの数分だと思うけど、君のこの手に昨夜の剣を呼び寄せる」
「『草薙の剣』は御神剣よ。一介の陰陽師の末裔が、簡単に呼び寄せられる物では無いわ」
「あれは、草薙の剣だったの?」
「保憲様がそう呼んでおられたわ」
「そうか。でも剣を呼ぶのは君だよ。僕は手助けするだけさ。」
天寿院は少し考え、「わかったわ。今はそれに掛けるしかないものね。」と八坂に握られた右腕に集中した。
「そう言う事。では始めるよ。」
二人が同時に呪文を唱えると、天寿院の右手が金色に輝き剣が現れた。
「勾玉は何処?」
「首の付け根――。左の肩口辺り」
「任せて!」
「ひょっとしたら、これで結界も消えるかもしれない。一撃必殺で頼むよ」
「首を切り落とせば済むわ。刹那の業よ」
「殺生は避けて欲しい。玄武も朱雀も白虎と同じ、元は僕達の仲間だから。」
「……成るべく気を付けるけど、約束は出来ないわよ」
「玄武の注意を僕に向ける、後は頼むよ。」
八坂の額に、勾玉の形をした光が浮かんだ。
「玄武!思い出せ!僕のこの光は浄化の光!」
八坂の声で光を見た玄武が、眩しさに負けて目を閉じた。それを見て天寿院が八坂の背後から飛び出し、玄武の首の付け根に切りつけた。
切り口から、白虎の時と同じように、勾玉がひとつこぼれ落ちた。
「『癡』の文字の勾玉、確かに預かった。一葉ちゃん、窓から出て玄関へ回って」
「挟み撃ちのお返しってところね」
八坂は「うん」と頷き、「あまり無理はしないように。」と天寿院を気遣った。
「時間が無いみたい。急ぐわ!」
八坂と呼び寄せた、右手の剣の輝きが薄らいできていた。天寿院はそれを感じて、窓から暗闇の中へ飛び出した。
「さぁ玄武。白虎のように、自分を取り戻しておくれ。」
妖力が残る玄武が、八坂家に仕えていた事を思いださなければ、敵前に身を晒す危険な賭けであった。しかし、残量の少ない八坂自身の呪力を有効活用するには、これに掛けるしか、他に手立ては無かった。
玄武の傷口は塞がり始めてゆく。目を硬く閉じて頭をうな垂れていた玄武が、八坂の声に反応して頭をもたげ目を開けた。
「額に浮かぶ勾玉の紋章。間違いなく元成様の末裔――。私は、自分の意思では無いとは言え、とんでもない事をしていたのですね。」
「僕は八坂数珠だ。玄武、君とゆっくり話をしたいところだけど、今は朱雀と白虎を救うために、君の力を借りたい。」
「白虎と朱雀……ですか?」
「そうだよ。朱雀は君同様、妖狐に操られている。今、白虎が対峙しているけど、じきに天寿院も参戦するだろう。そうなると三人の中で大怪我をするか、命を落とす者が出るかもしれない。できれば、僕は皆を無事に取り戻したい。だから協力して貰えないか」
「わかりました。元成様とのお約束です。貴方様にお仕えいたします。」
「ありがとう玄武。では、早速で悪いが、そのまま外へ出て、表へ回ってくれ。三人の無意味な戦いを止める!」
玄武は重たそうな体をゆっくりと動かし、窓枠に嵌っている体を外へ出した。窓から毀れる僅かな光が、玄武の全体を露わにした。
ベニヤを壊し部屋に入っていたのは、玄武のほんの一部でしか無かった。決して広いとは言えない八坂家の庭だが、それでも優に四坪はある。その庭のほとんどが、玄武の体で覆われていた。
あまりの大きさに、隣家を潰してしまったのではないかなどと余計な心配をしたが、無事な隣家を見て八坂は安堵した。
玄武は体全体が庭に出ると、「私の背中へお乗りください」と八坂を自分の背中へ招いた。
「玄関までなら歩いた方が早いけど……」
「朱雀は鳥です。白虎も空を飛べます。恐らく空中での戦いになるはずですから、数珠様も空中におられた方が良いかと――。」
「わかった。それじゃ玄武、頼むよ。」
八坂が背中に乗ると、玄武はゆっくりと浮上した。平屋の八坂の家が眼下に見えた。
「もう、始まってしまったようです。」
八坂は玄武の顔の向く先を見た。その先で、炎のように赤い大きな鳥が、羽ばたいて空中に止まっているのが見えた。
広げた両翼が、隣家の二階家の部分より大きく見える。恐らく五メートルを越えていると、八坂は推測した。
朱雀の尾は長く、赤い羽に青や黄、緑などの紋様が美しく輝いている。
「なんて綺麗なんだ」感嘆が口を吐いた。
「朱雀はあの美しさで、人間や魔物を引き付け、捕食しておりました――」
「なるほど。確かに、魂を吸い取られるような感じがする」
「もう少し近付きましょう」
玄武はゆっくりと進んだ。
「私は、朱雀や白虎のような攻撃型ではなく、守備型です。姿や妖気を消す結界と、治癒の結界の能力を持っております。」
「それで朱雀は僕達に気付かないのか」
「はい」
「頼もしいね。玄武は動く要塞だな。」
「お褒めに預かり光栄です。」
朱雀が見下ろしている視線の先から、白い影が飛び上がってきた。
「朱雀、目を覚ませ!ここは元成様の末裔のお家!貴様だって覚えているだろう!」
「トラブタ!早く朱雀に近寄れ!剣が……剣が消えてしまう!」
「小娘!朱雀を切り刻む気だろうが!」
「今の私はそれしか考えていない!早く行け!」
「小癪な小娘だ!数珠様をお守りする為、止むを得ずわしの背に乗せたが、朱雀を殺すと言うのであれば、振り落とす!」
「何を言うか!勾玉を取り除かなければあの人が狙われる。今の――。『朔』の今は、この剣が消えたら、あの人を守ることができなくなるのよ!朱雀を殺すしかないじゃないの!」
「わしが話せば、朱雀も目を覚ます!それまで待て!」
「時間が無いのよ。もう一、二分もすれば貰った力が消える。そうしたら勾玉を取り出せなくなるわ」
「一葉ちゃん!白虎!お待たせ!」
玄武に乗った八坂が、二人に声を掛けた。
「数珠様!玄武!」
「一葉ちゃん、勾玉は朱雀の背中だよ。右の羽の付け根辺りだ!」
玄武の首にしがみ付いたまま、八坂が勾玉の在り処を示した。
「訊いたトラブタ!急いで!」
「急げと言っても、あっちは飛ぶのが商売の鳥だ。しかも『妖鳥』だ。追いつける訳など無かろうが――」
「玄武、あっちのチームの息はまだ合っていないようだ。もう少し朱雀に近づけるかい?」
「近付くだけであれば。しっかりお掴まりください。」
そう言うと、また玄武は結界を張った。そして朱雀の真下に入り込む。
「朱雀!君が欲しがっているのは僕だろ!さぁ来いよ!」
いきなり現れた八坂達に驚き、朱雀は声のする方を見下ろした。八坂の額の光が朱雀の目に入ると、玄武と同様に、朱雀の動きが鈍くなった。
「今よ!」
天寿院が、跨がっている白虎の脇腹を蹴った。
「わしは馬ではないぞ!」
「文句言わない!一回よ!この一回が、最初で最後のチャンス!」
「わかっている。黙って狙え!」
白虎は少し大回りをして、朱雀の背後から、疾風のごとく近付き、天寿院が朱雀の背中を、草薙の剣で切りつけた。
朱雀の下で止まっていた八坂は、朱雀の背中から落ちた『見』の文字の勾玉を受け取り、残り少ない呪力で浄化すると、八坂の首にある、銀の房に三つ目の勾玉が連なった。
庭に玄武を下ろし、残った最後の呪力で白虎達の妖力を封じた。
白虎はまた、子豚の様に太ったトラ猫に戻り、玄武は四十五センチも有る岩亀に、そして朱雀は体長八十センチほどの、雄の雉になった。
「皆の力でなんとかなったよ。お疲れさま。」
庭で一息付いて、八坂が皆を労った。
「二匹のお陰で苦労させられたわ」
天寿院が醒めた目で、いつも通りに挑発したが、白虎は挑発には乗らず、八坂の前で座り改まった。
「数珠様。私を含め朱雀や玄武までをお助けいただき、本当にありがとうございますじゃ。ほれ、二人もお礼を言わんか」
「私は朱雀と申します。危うく数珠様に手を賭けるところでした。それなのに、私の命を優先に思っていただき、何とお礼を申せば良いのか……。」
白虎の左側に並び朱雀が言った。
「改めまして、私は玄武と申しますぅ。本当に、私達の裏切りに目を瞑っていただいた上に、命まで助けていただき、この御恩をどのようにお返しすればよいのか……。」
「そんなに畏まらなくても良いよ。仲間を。みんな生きたまま取り返して、妖狐と勾玉を封じるのが、僕の生まれ持った定めだと、一葉ちゃんと白虎の話しでわかった。」
「随分と、格好良いことを言うのね。」
朱雀と玄武が天寿院を見上げた。
「この小生意気な小娘は、天寿院と言う式神じゃ。わしらを操っておる勾玉を取り返しに、遠い昔の陰陽師に言われて、わざわざやって来たらしい」
「紹介していただいて光栄だわ」
「小娘こそ。そうやって数珠様に突っかかっておるが、本音はどうなのじゃ」
白虎がニヤニヤしながら言った。
「どうって?」
「わしの背中で『あの人が、あの人が』と何度も言っておったではないか」
「そ……それは……」
天寿院の顔が、朱雀の羽の様に真っ赤になった。
「トラブタ!朔が終わったら叩き切ってやる!」
そう言い残し、壊れた窓から家に駆け込んだ。
「白虎、あまり苛めないでくれないかな」
「そうですな。でも、たった二日程で、あんなに正直に成るとは――」
「数珠様の御人徳なのです。」
朱雀が天寿院の消えた方を見ながら言った。
「僕にそんな特技が有ったら、この歳まで独身をしてないよ」
「そんな事はございません。私が、人間の女だったら……」
「玄武!」空かさず白虎が嗜めた。
「すみません」
「こんなにもてたのは、生まれて初めてだよ」
八坂は頭を掻きながら言った。
「あと、青龍と阿吽の三人を、無事に取り戻さなければね。皆、僕に力を貸してくれるね。」
「勿論です。が、数珠様。我々は人ではないので、『人』は可笑しいかと」
朱雀が遠慮がちに言った。
「そうかな?細かく言えば、一葉ちゃんも含めて、皆は神様だから確かに『人』では可笑しいか――」
「いいえ。『人』で結構ですじゃ。朱雀も玄武もよかろう?」
「私は、数珠様に呼ばれるだけで……」
白虎が玄武を睨んだ。玄武が甲羅に顔を隠すと、朱雀へ視線を移した。
「どうじゃ、朱雀」
「私も良いのですが、ただ、我々妖怪を『仲間』と呼んでいただいた上に、『匹』ではなく、『人』と呼んでいただいては、勿体無くて」
「そんなことかい。僕は神様に失礼かと思ったよ」
「我々は『神』では無く『妖怪』ですじゃ」
寂しそうに白虎が答えた。
「では『仲間』で『人』で良いね」
「嬉しゅうございますぅ」
甲羅の中から、玄武がいち早く返事をした。白虎と朱雀が目を合わせ、白虎が代表して「御意」と答えた。
「これで問題がひとつ片付いた。だけど、こっちの方が大問題だ」
「何ですかぁ?」
玄武が顔を出して訊いた。
「これだよ」と夕方に張られたばかりの、ベニヤとブルーシートの残骸を手に取り、一層に壊れた窓枠を見ながら溜息が漏れた。
玄武が申し訳なさそうに、顔だけではなく、手足まで甲羅に仕舞ってしまった。
「さてさて、どうした物でしょうか?」
朱雀も、無残な窓枠を見て首を傾げた。
「なぁに。まだ今夜は早いですから、朝までに皆で考えれば、何とかなりますじゃ」
「そうだね、根川への言い訳を考える時間は、沢山有るか……」
確かに朝まではまだ五、六時間ほど有るが、天岩戸に隠れたような玄武に、楽天的な白虎。神経質そうな朱雀に、今はちょっと顔を合わすのが照れ臭い、天寿院達では、時間は有っても、名案など出る期待は持てない。そうなると必然的に、八坂一人で考えるしか無い――。
考えなければ成らない事は、それ以外にも山積みである。まずは昨夜の件で、夜中に警察官を引き連れやって来た、隣家に住む町内会長の杉田の動きも気になるし、天寿院から出された『印』も、覚えなくてはならない。その他には、青龍と阿吽の三人の性格や攻撃パターンなどを、白虎達から聞いて、ある程度の防衛策を立てる必要もある。
何より一番の問題は、正体のわからない妖狐の存在であった。天寿院が主人と呼ぶ、賀茂保憲に訊くのが早いのだろうが、時代の違う現在では大変難しい。また、白虎達に聞いても良いのだが、今は傷口に塩を塗るようで心が痛み訊き難い。
そんな事を考えているうちに、夜は静かに深まり、八坂は自室の文机を前に、寝息を立てていた。